ディフィールの銀の鏡 第37話

 いろいろ、普通では有り得ない事を体験していた万梨亜は、いきなりジュリアスが空間から出現しても驚かなかった。万梨亜が驚いているのは適当に決めた行き先なのに、どうやってここを嗅ぎつけたのかという事だ。万梨亜自身ですら行く先は最終的にどこになるか分からないのだから……。

 ふ……と笑う声がして、見ると社長が楽しそうに微笑んでいた。そこでやっと万梨亜は合点がいった。何の事はない社長が教えたのだ。しかしここで万梨亜は新たな疑問が生じた。社長はジュリオがいきなり現れても驚かなかった。ということは、社長も異世界の人間なのだろうかと。

 やがてジュリアスの銀の髪が短くなって消えた。万梨亜を抱きしめているのはジュリオ・フォンダートになった。着ているシャツは昨日のままで、夜通し探していてくれた事がわかって万梨亜は申し訳なくなった。

「万梨亜、どうして会社を辞めるなんて言うんだ。あのマリアって女に何を言われたんだ」

「……何も」

「うそだ。万梨亜はいつも人の事ばかり優先する。自分を傷つけて相手の事ばかり……。そんな君を見ていて僕は辛い」

「…………」

 ジュリオの腕は震えていた。万梨亜はジュリオを傷つけてしまったらしい。どうしたらいいのか途方にくれている万梨亜に、社長が諭すように優しく言った。

「万梨亜ちゃん。貴女が傷つく事を、悲しむ人が居る事を忘れてはいけないよ……」

 普通の人間より格下の万梨亜が傷つくのは、当然ではないのだろうか? 皆に迷惑かけているし、駄目な人間なのだから……。万梨亜が当惑していると、さらに社長は言葉を重ねた。

「万梨亜ちゃんが、ジュリオの書類を捨てたカワサキハウスの社員を怒った時の気持ちと、君を傷つけた川崎マリアとカワサキハウスの社員を許せないわれわれの気持ちは、全く同じなんだよ」

「それは、私へのいじめにジュリオさんを巻き込んだからっ」

「だからこそ、だよ。ねえ万梨亜ちゃん。どうか貴女がジュリオを愛するように自分を愛してはくれないか?」

 万梨亜は首を振った。自分などを大切にして、普通の人間の皆を傷つけてはいけない。

 さらに社長が何かを言おうとした時、ドアをノックする音が響いた。どうやら昼食会が始まるらしい。万梨亜は社長に振り返って頭を下げた。

「社長。昼食会の時間ですから」

「万梨亜!」

 ジュリオが咎めるように言ったが、万梨亜はその腕を振り解いた。社長はそんな万梨亜を見て深くため息をついた。

「ジュリオ、続きは後で……。取りあえず行って来るから」

「僕も行く」

「そんなよれよれの格好ではドレスコードに引っかかる。着替えてくるんだな」

 それから社長はジュリオの横を通り過ぎ様、万梨亜に聞こえないように小さく囁いた。

「魔力を制限されているこの世界で瞬間移動する奴がいるか。しばらく寝ていろ!」

「…………」

 ドアを開けた万梨亜が社長に振り向いた。

「社長?」

「なんでもない。行こう万梨亜ちゃん」

 万梨亜は社長の手をとって、万梨亜を睨むように見つめているジュリオを置いて、部屋を出た。

 

 会場へ向かう間、万梨亜はジュリオの事ばかり考えていた。万梨亜が好きだというジュリオ。こんな自分の何がいいと言うのだろう。人より劣っている万梨亜を愛して彼になんの得があるのだろうか……。万梨亜を恋人などと言って後ろ指を差される彼を、万梨亜は見たいと思わない。

 大きなロビーに出た時、万梨亜は思っていたより大規模な昼食会らしいと怖気づいた。沢山の人が居て皆ドレスアップしている。夜に行われたりしたらより一層華やかになるのだろう。

「今日は、各界のいろんな人が来ているから、皆興奮気味かな……」

「各界?」

「そう、政界、芸能界、スポーツ界、IT関連、サービス、金融……などなどあげてくとキリがない。皆人脈を広げようとやって来るんだよ。ここでは年に数回催される。いろんな金も動くんだろうね」

 皆綺麗で、きらきら光り輝いて見えた。そんな人びとが視線を投げかけてくると、場違いな場所に居ると感じ、万梨亜はさっと社長の後ろに隠れた。

 会場内に入ると、より一層の華やかさに圧倒されて万梨亜はますます縮こまった。ここは本当に日本なのだろうか。豪華なシャンデリアの下、色とりどりの料理がテーブルに配置され、ところどころに活けられた花、交わる香水、そしていろんな人種の坩堝と化している。

「んんーっ、やっぱり万梨亜ちゃんが一番美人だね。この優越感はたまらんね!」

「社長、いい加減になさってください」

「なんで? 皆も君を見たがってるよ?」

 社長は万梨亜を引き連れてご満悦だ。万梨亜は恥ずかしいので、社長が他の人達と会話を始めると下に俯いていた。それなのに社長はやたらと万梨亜を見せびらかしたがった。

「この人はね、うちの会社で唯一の女性社員なんです。綺麗でしょう?」

「確かに。うらやましいねえ……こんな美人がいたら仕事もはかどるでしょう」

「うんうん、でも仕事もできるんですよ。うちの息子も手放しで!」

「え? あの仕事第一のジュリオ君が? へえ……こりゃあ本物か?」

 恰幅のある紳士が顔を覗き込んでくるので、万梨亜は泣きたくなった。ある意味拷問だ。あんまりその人がじろじろ眺めるので、隣にいた妻らしき人が助け舟を出してくれた。

「いいかげんになさったら? 紳士は淑女をじろじろ眺めないものですよ」

「妬かない妬かない」

「まあ!」

 万梨亜はこういう場が本当に苦手だ。社長をちらりとみると、社長はウインクをした。

「うん、じゃあ万梨亜ちゃんはあそこのデザートとってきてよ。若い人の方がこういうの選ぶの得意だろうし」

「あ、はい」

 やっと開放されると万梨亜はほっとした。社長は万梨亜の内心を読み取っていたようで、仕方ないなあと笑っている。わかっているのならもう少し大人しくしていて欲しい。

(さてどれを選んだらいいのだろう……)

 目の前には色とりどりのデザートや料理が並んでいて、どれを選べばいいのかかなり迷う。こんなに沢山の食べ物を見たのは初めてだ。社長の好きな食べ物をそういえば聞くのを忘れていた。

「ごめんなさい。お先に」

「あ、いえ……」

 万梨亜より先にデザートを取っていた人が、最後のお皿を取ってしまった。見渡す限りこのテーブルにはお皿はない。他のテーブルから持ってくるのは良くないだろう。そこで万梨亜は、会場の隅に立っている会場の係りにお皿を持ってきて下さいと頼んだ。

 係りがお皿を持ってくるのを待っている間、万梨亜は壁の花になることが出来た。やはりこの方が落ち着く。

「ふう……」

 こうして眺めているだけでいいのになとマンウォッチングをする。その中に、万梨亜はマリアを見つけてしまい、びっくりした。マリアの方も目を見開いて立ち止まった。一緒に居るのは純一郎ではなく健三だったが……。マリアの目は怒りに満ち、そのままつかつかと万梨亜に向かって歩いてくる。

「どういう事? なんであんたがここに居るの?」

 ざわざわしてうるさいほどの会場内で、マリアの声が少し遠くに聞こえた。万梨亜はマリアのクリーム色のドレスの裾しか見る事が出来ない。昨日約束したばかりなのに、万梨亜はマリアに会ってしまった、万梨亜にはふさわしくない場所で。

「本当にどうしようもない女ね。会社を辞めるといったのは昨日でしょ? 私の前に二度と現れないと言ったのはうそだったわけ?」

 マリアは笑顔で言っているので、周囲には普通に談笑をしているとしか映らないだろう。万梨亜は胸に冷たい塊ができて、呼吸が苦しくなった。

「それになあにそのドレス。ぜんぜん似合ってないわ。どこで借りてきたのか知らないけど、思い上がりもほどほどになさいよ。あんたみたいな典型的な日本人に、イタリアブランドが合うわけないでしょ」

 足先も冷たくなって万梨亜は僅かにふらついた。

「嫌だわ、庶民がこんな所にいるなんて」

 

 万梨亜はマリアの手に握られていたグラスが、ゆっくりと万梨亜に傾いてくるのを見上げた。しかしその手に誰かの手が伸びて、動かなくなった。

「いい加減になさったら? 聞き苦しい」

 マリアの手を止めているのは、気品に満ちた小柄な女性だった。マリアはその女性を睨んで、ふんと笑った。

「あら本当の事を言っただけです。だっておかしいでしょう? 上流階級の集まりのここへ、場違いな人が来るんですもの」

「カワサキハウスの株が落ちるわけだわ。こんなお嬢様がいらっしゃるのではね」

「なんですって!」

 あからさまな侮蔑に満ちた女性の言葉に、マリアは顔をかっと赤くさせた。

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