ディフィールの銀の鏡 第38話
女性はマリアの手を離すと、係りが持ってきた皿の山から一枚の皿を手に取った。そしてずらりと並んでいるデザートから、りんごのキャラメリーゼを上品にトングで掴んでお皿に載せた。
「りんごはおいしい果物だけど、一つが腐ると全てがだいなしになるでしょう? 詰めてある中心に腐ったりんごがあったりしたら最悪。あっという間にみな腐ってしまうわ」
「……私がその腐ったりんごだと言うの!?」
「それ以外に聞こえるかしら。そちらのお嬢様の方がお美しいからって、嫉妬するなんてみっともない」
マリアは持っているグラスを震わせて、目を吊り上げた。万梨亜はその女性を止めようとしたが、その女性の視線がそれを止める。
「大体上流階級って何? そんな古臭い言葉をこの場所で使うなんて、自分は馬鹿ですと言っている様なものよ」
「貴女は庶民ってわけね。だからその使用人の味方をするのね、へーえ」
あざ笑うように腕を組んだマリアに、女性は哀れみすら漂わせた。
「……貴女の馬鹿にする庶民……、いえ、社員の皆様が居るから、貴女はその腐ったプライドを保てるのではなくて?」
「何様のつもりよ貴女」
「こちらが聞きたいわね。ああそちらの貴女」
女性は万梨亜をちらりと見て、ため息をついた。
「何の弱みを握られているのか知らないけど、この人の言う事なんか聞いてたら馬鹿を見るわよ。顔を見たら分かるでしょ。私が言う事が正しいのか彼女が言う事が正しいのか」
万梨亜は、マリアにこんな辛らつな言葉をなげる人間を始めて見た。
「でも、マリアは……」
「もし彼女が好きなら言ってあげるべきよ。その態度が会社をしいては自分を滅ぼすってね。まあ聞きそうにないわね、あら……あなた」
女性のもとへ、金髪の美麗な男性が現れて彼女の腰に手を回した。おそらく女性の家族だろう。男性と目が合って万梨亜は緊張した。何か不快な事をしてしまっただろうか。もしそうなら社長やジュリオに迷惑がかかる。
しかし、その男性はこう言っただけだった。
「驚いた。女神がもう一人居るとは」
「口がお上手な事」
女性は少しだけ顔をしかめると、男性に腰を抱かれて行ってしまった。周囲の人達の態度で、二人がかなり重く見られていることがわかる。そんな人達に先ほどのような口を聞いて、カワサキハウスは大丈夫かと万梨亜は心配になった。
「あれは東京の企業、佐藤グループの社長夫妻だよ。建築業界でも中心にある企業の人物の事も知らないのかお嬢様は。カワサキハウスよりはるかに格が上だ。そんな人の社長夫人にけんか売るなんて愚かにも程がある」
いつの間にか、濃紺のスーツに着替えたジュリオが隣に立っていた。ホテル内にレンタルブティックがあったからそこで借りたのだろう。銀髪がスーツに映えて、かつてなく凛々しく見えた。
マリアはたじろいだが、次に口にしたのはこんな言葉だった。
「そう、そういうわけなの。あの場では嘘を言って、ここで私を貶めようとしたわけなのね? 今まで面倒かけさせて置いて、なんて恩知らずなのあんたは」
「いい加減にしないか。そうやって万梨亜をいたぶって何になる」
「いたぶる? 本当の事を言っているだけよ私は」
すうっとジュリオは目を細くした。
「可哀相な人だ。人を傷つけなければ己を誇る事ができないとは」
「何を言うの。私がいつ万梨亜を傷つけたというの。身の程知らずに親切に教えてあげていただけじゃない!」
「そんなに万梨亜が美しいのが妬ましいのか? 優しいのが悔しいのか?」
「はっ……、何言ってるの? こんな子、ゴミ同然じゃない」
びくついて離れようとした万梨亜の腕を、ジュリオが強く掴んで引き寄せた。さすがに周囲も万梨亜達に気づいて、注目しだしている。万梨亜はその目が恥ずかしくて二人を止めたいのだが、ジュリオは万梨亜に見向きもしない。マリアに対する敵意を露にしている。
「僕は万梨亜を愛している。その彼女をゴミ呼ばわりするのは許さないぞ!」
ジュリオの言葉に万梨亜の胸が熱くなった。万梨亜が反応したというより、胸の中にある何かが呼応したのだ。こんな所で青く光ったら困ると思ったが、青い光は爆発したように一気に辺り一面に満ちていく。万梨亜はその輝きの強さに目がくらんでジュリオの腕にしがみ付いた。
「や……っ、なんなのよこれっ!!」
目を閉じている万梨亜に、マリアの悲鳴が飛び込んできた。
そして次に聞こえたのはどさりと人が倒れる音だった。目を恐る恐る開くと、マリアが倒れていた。あんなに輝いていた青い光は嘘のように消え、会場内は何事もなかったように、ざわめきが続いている。
「マリアっ……」
万梨亜は倒れているマリアに駆け寄ったが、触る事はできなかった、マリアの全身を赤い光が膜を張るように包み、それが万梨亜を跳ね除けるのだ。
健三がやってきて、マリアを抱き起こした。
「旦那様……」
「万梨亜、何故ここに……? 一体どうしたんだ……マリアは」
マリアの顔は青く血の気が失せている。周りの人達には、マリアの身体に赤い光が覆っているのが見えないらしい。呼ばれた医者が貧血かもしれないと言い、健三は医者と一緒に会場を出て行った。ふと三人に嫌な気配を感じて万梨亜は目を凝らした……、ぼうっと赤黒い闇と共にあの女が見える。健三を操っていた女だ。女は万梨亜を睨みながら姿を消した。ひょっとすると今、マリアは操られていたのだろうか……。
「ヘレネーめ……」
振り向いたジュリオの目に、青い光が一瞬燃えるのを万梨亜は見た。
「フォンダートさん、あの人を知っているの?」
「知っている。嫌なぐらいね」
万梨亜はもっと詳しく聞きたかったが、すぐに幾人もの人達がジュリオの周りに集まりだしたため、それは出来なかった。エステサロンの経営者だという女性が、豊満な身体をさりげなくジュリオにアピールして、新しい店舗を開こうとしているのだがなどと仕事を依頼するような会話を始めた。
どちらかというと女性の方がジュリオの周りに集まる。それはやはり彼が女性を惹きつける、凛々しい容姿をしているからだろう。
人を愛するように、自分を愛する。
万梨亜にはわからない……、自分を愛するとはどういう事なのだろう。万梨亜は人に迷惑をかけたくない、ただそれだけだ。でも、そう思う事はジュリオを悲しませてしまう。万梨亜はジュリオが好きだ。だから悲しませたくない。
どうしたら、誰も傷つかないようにする事ができるのだろう……。壁際に戻ってジュリオを見つめながら万梨亜はため息をついた。
「探したよ、万梨亜」
万梨亜は聞き覚えのある低い声に、身体が戦慄する。振り向かなくてもわかる……これが誰なのか。
大島玲。万梨亜の異世界での恋人だという。デュレイスがまた現れた。