ディフィールの銀の鏡 第39話
「またお前か、万梨亜につきまとうのは止めてもらおうか」
つかつかと歩いてきたジュリオが、万梨亜を庇うように立ちはだかった。大島はムッとしてジュリオを睨む。
「それはこちらの台詞だ。このような茶番劇はもう沢山だ。早くこの世界を消すがいい」
「お前が居たら無理だ。元の世界に戻りたくば勝手に戻れ、僕が呼んだわけじゃない」
ばちばちと火花が散りそうな中、万梨亜ははらはらして二人を見た。二人は敵同士だ。なんとかしないと……、万梨亜は視線をめぐらせて社長を探したが、肝心な時に限って姿が見えない。
「万梨亜、私とケニオンへ帰るんだ」
強引に引っ張られる万梨亜をジュリオが力づくで引き離した。一触即発の気配だった二人だ、それが合図だったかのように空間に亀裂が入り、会場の人々も何もかも一気に砕け散った。
「きゃあっ……」
床が消え、万梨亜は落ちると思いジュリオの腰にしがみついた。
「落ち着け万梨亜。落ちない……」
銀の髪が顔に触れ、見上げるともうジュリオはジュリアス王子になっていた。それは大島も同じで、銀の鎧を着た国王デュレイスになっている。薄暗い闇が広がっている場所に万梨亜達は移動していた。
「万梨亜、その男から離れろ」
長くて重そうな剣を引き抜いて、デュレイスが言った。彼はジュリアスを殺す気なのだ。ジュリアスは寸鉄も帯びていない。このままではあっさり斬られてしまうだろう。
「万梨亜。怪我をするゆえ下がっていろ」
「駄目。殺されてしまうわ!」
「そなたが居る限り死なない」
大風が吹き、赤い光が彗星のようにデュレイスの横に舞い降りた。現われたのは健三を操った女、ヘレネーだった。左胸が異様に赤く光っている。
「デュレイス様」
「ヘレネー。お前にまかせておけばと思っていたが、ますます事態が悪くなっていくのを見かねて、わざわざまたこちらへ来たのだぞ」
「申し訳ございません。マリアと父親を操ればと思ったのですが……」
「ふん、所詮羨望の余り万梨亜に邪な想いを抱いた者達だ。思い通りには行くまいよ。現にマリアは無残に倒れおったではないか」
悔しそうに唇を歪めたヘレネーは、憎しみを込めた恐ろしい目で万梨亜を睨んだ。そのヘレネーを後ろに追いやると、デュレイスは空間から一振りの剣を出現させ、ジュリアスに放った。
「剣を持たぬ者を倒したのでは、私の名が汚れる。何も細工はしておらぬゆえ持つがいい。私も鎧は脱ぐ」
ジュリアスが受け取った剣をすらりと抜いた。そして鞘を万梨亜に預ける。
「フォンダートさんっ」
「まだ名を呼ばぬか。下がれ、手出しはならぬぞ」
胸が熱い。気がつくと、万梨亜もヘレネーと同じように胸が青く光り始めていた。ジュリアスが剣を構えたのを合図に、二人は左へ疾駆した。金属の鋭い音が響く中、二人はほぼ対等に剣を交えている。
薄暗闇の空間に、雷鳴が何度も走った。
また胸が熱くなり、万梨亜は必死にそれを両手で押さえる。
「くっ……」
ジュリアスが劣勢になってきた。デュレイスのように剣を振り回すことに慣れてないように見える。時間が経つにつれて足の運びや手に疲労が見え始めた。一方のデュレイスは、始めた頃とスピードも体力も衰えているようには見えない。
「ジュリアスは負けるのじゃ。この世界は何ゆえかは知らぬが、奴の得手である魔法に制限があるようじゃからな」
「!」
いつの間にか横にヘレネーが立っていた。ぞっとするような暗い笑みを浮かべている。
「それに農作業ばかりしていた男が、歴戦の勇者のデュレイス様に勝てよう筈がないわ」
「農作業? だって……王子って……」
「王子とはいえ忌まれて捨てられたのじゃ。剣術も戦のしようも知らぬ。そんな男が無謀にデュレイス様と剣を交えるなど、思い上がりも過ぎよう。ほほほ!」
「そんなっ……」
万梨亜は改めてジュリアスを見た。それはちょうどデュレイスの剣がジュリアスの左腕を掠めた瞬間だった。しかしジュリアスは剣を離さない。万梨亜はこのままでは本当に殺されてしまうと思い声を張り上げた。
「もう止めてっ……! ジュリアスっ」
しかしジュリアスは万梨亜には見向きもしない。襲い掛かってくるデュレイスの剣を弾き返しながらも応戦を続ける。もう戦いの主導権はデュレイスが握っているのに、戦うのを止めないのだ。
「愚かな王子よ。そなたのような魔力の石以外何の役にも立たぬ女子の為に命を賭けようとは」
そうだ。自分などの為に死んではいけない。彼にはもっと明るい未来が待っているはずだ!
しかし二人の下へ走ろうとした万梨亜を、ヘレネーが引き倒した。地面にしたたかに身体を打ち付けて転がった万梨亜は、起き上がろうとしてヘレネーに押さえつけられた。動けない万梨亜の鼻先にヘレネーが短刀を突きつけられる。
「ひっ……」
「動くでないわ。デュレイス様を邪魔する者は許さぬ」
ヘレネーの長い爪が万梨亜の首に絡みついた。締め上げるのかと思うとそうではなかった。そのままヘレネーは万梨亜の上に馬乗りのまま動かない。
「そなたのような殿方に悪をなす女子など、消えてしまうが良い。じゃが、デュレイス様はそなたをお求めゆえ仕方がない」
悔しそうにヘレネーは睫を震わせて、万梨亜の頬にゆっくりと爪で傷をつけた。赤い光がヘレネーの双眸に一瞬宿り、ふっと消えた。震える赤い唇を見て、万梨亜は彼女の心が見えたような気がした。
「貴女……、とてもデュレイスが好きなのね?」
ざわりと黒髪が広がり、ヘレネーの目が赤く燃えた。
「そなたに言われとうない! 二度とそんな事を言うてみや! 二度と歩けぬように足首を切ってしまうぞ!」
「だってそうなんでしょう? あの人の為に貴女は……」
「わらわはデュレイス様の后! 命令を聞いて当たり前じゃっ」
「それなら……どうして、自分を見て欲しいと言わないの? 貴女はそんなに美しいのに……」
ヘレネーに平手打ちされ、頬に痛みが走った。ヘレネーが悪鬼の形相で万梨亜のドレスの胸倉を掴み、乱暴に揺さぶった。
「そなた如きに何が分かる! どれだけ美しかろうと必ず愛されるわけではないわ! わらわがどれだけデュレイス様を望もうとも、あの方のお心にはそなたしか住んでおらぬ。じゃがそなたのように人を愛せぬ女子など、わらわは認めぬ! このまま死んだほうがあの方の為じゃ!」
「違う!」
「黙れ!」
ヘレネーの爪がわずかに首に食い込んだ時、揺れる黒髪の向こうでジュリアスが剣を弾き飛ばされて斬られた。前のりに倒れたその身体の下に血が広がっていく。
「フォンダートさんっ」
自分が斬られたわけでもないのに胸が切り裂かれるように熱く痛んだ。うそだ。うそだうそだ! 自分のの為にジュリオが死ぬなんて……。死んだりしたら駄目だ。今すぐ病院へ行かなければ。押さえつけるヘレネーから逃れようと、万梨亜は懸命にもがいた。
「離してっ! ジュリアスが死んでしまうわっ」
「もう何もかも遅い。あの傷の深さでは助からぬわ」
そんな事起こるわけない。傷の具合を早く見て血を止めなければ手遅れになってしまう。こうしている間にもどんどん赤い血だまりが広がっていく。
デュレイスが剣をなめし皮で拭き、鞘に収めた。そしてまっすぐに万梨亜達の元へ歩いてきた。万梨亜は話さないヘレネーの下でもがいた。
「離してえぇっ! お願い!」
「そなた……」
涙が止まらなくなった万梨亜を見て、ヘレネーの手が弛んだ。その隙に彼女を突き飛ばして万梨亜は倒れているジュリアスに走り寄る。傷に触らないように仰向けにした万梨亜は、余りの傷の深さに気を失いそうになった。鉄の臭いがひどく鼻につき、気持ち悪い。右肩から腰へ袈裟懸けに切られているそこから、おびただしい量の血液が流れ出ていた。
万梨亜は羽織っていた薄いショールを、ジュリアスの胸の下に巻き止血をしようとした。しかし、それを背後からデュレイスが止めた。
「万梨亜、勝負は着いた。ケニオンへお前を連れて行く」
「離して! ジュリアスの血を止めないと……」
「もう助からない。手当てするだけ無駄だ」
「助かるに決まってる! 今すぐ病院にいけば……っ」
「万梨亜。これは決闘だった。そして私の勝利だ」
万梨亜は首を横に振った。
「……私は、貴方のものにはなりません。永遠に」
「万梨……っ」
一瞬呆けた表情を浮かべたデュレイスだったが、万梨亜が口にした言葉を理解した刹那、乱暴に万梨亜に掴みかかってきた。でも彼ができたのはそこまでで、万梨亜の胸の青い光が、デュレイスの手を電気のように弾き飛ばした。
「……っ……万梨亜」
痺れる右腕を掴み、デュレイスが万梨亜をなおも掴もうと歩んでくる。しかし、やはり万梨亜の周囲を吹きすさぶ青い光の風が阻んだ。
「貴方は、私を愛していない。だからそんなふうにケニオンへ連れ去ろうとするのよ」
「それはこの王子とて同じ事だ」
「ジュリアスは私の為に悲しみ、私の為に戦ったの!」
「それなら私もだ」
言い返すデュレイスを風がさらに阻んだ。万梨亜はジュリアスの胴体にショールを回して止血処置をした。こんな事をしても彼は助かりそうも無い。顔は青色を通り越して土気色になっていく。ここからどうやって病院へ行けばいいのか、万梨亜はわからない。
ジュリアスの命が万梨亜のために消えていこうとしている。溢れる涙は青い光を放ちながら下へ吸い込まれていった。
「……悲しい。私の為に傷つく人を見たくはなかったのに……」
マリアも健三も、会社の皆も……傷ついて欲しくない……。しかし、ジュリオと比べると傷つく度合いが違いすぎる。万梨亜は両手で顔を覆って、幼い子供のように泣いた。
「私は知らなかった。愛する人が自分の為に傷つく事がこんなに辛いなんて……」
「万梨亜!」
ゆっくりと万梨亜は顔を上げてデュレイスを見た。
「デュレイス、私は貴方を好きだと思います。でも愛してはいません。だって、貴方の為に私は我を失うほど怒ったり出来ない」
はっとしたように、ヘレネーが自分の頬を流れる涙を拭った。万梨亜はそれを見て切ない想いを抱える。愛しても愛されないとはなんと残酷な事だろう。
いつもいじめられても何も言い返せなかった万梨亜が、カワサキハウスの仕打ちであんなに怒る事が出来たのは、ジュリオを愛していたからだ。マリアに会社を辞めろと言われて辞めたのは、マリアに嫌われたくなかったからだ。言う事を聞いたら嫌われないとの醜い自己防衛で、これでは嫌われて馬鹿にされても無理は無い。
万梨亜は逃げていた。何も出来ない自分を全てマリアの言いなりになって不幸になったと、責任転嫁をしていただけだ。
ゴミのようでいたら失うものなど無いと、愛する事から逃げていた。
誰も万梨亜に味方をしてくれないと思う前に、万梨亜は自分自身すら見捨てていた。そんな人間を誰が味方するだろうか。マリアがいじめの糸を陰で引いている事にうすうすは気付いていた。だが、マリアがこんな事をするから自分は駄目なんだと、なんの努力も万梨亜はしなった。
そんな万梨亜に、ジュリアスは万梨亜自身を愛して欲しいのだと言う。万梨亜の汚くて弱い所を全て飲み込んで、なお万梨亜の為に傷ついて今死んでいこうとしているのだ。
これほどの愛情を万梨亜は誰からも受けた事はない。これほどの愛される歓喜をおぼえた事はない……。青い光は先程よりも熱く輝くが、万梨亜はそれを今心地良いと思った。今まで熱くて苦しいと思っていたのに、その思いが黒い闇と一緒に次々に消えていく。
「万梨亜……」
青の強い輝きに目を眇めて手をなおも伸ばそうとしたデュレイスを、ヘレネーがハッとしたように引き止めた。
「デュレイス様、今のこの女は危険ですっ」
「くそっ……ここまできて!」
万梨亜は目を閉じたまま動かないジュリアスを、そっと胸にかき抱いた。