ディフィールの銀の鏡 第45話

 リーオへ向かう馬車の中で、万梨亜は眠るまいと頑張っていた。馬車は質素なつくりだったが乗り心地はなかなかよく、百名ほどいる警護もだらだらとせずに付き従っている。隊長はメノスという黒ひげをたっぷりと蓄えた誠実そうな壮年の男で、万梨亜に対して恭しい態度を取り、兵士達の前では将官らしく指揮をしていた。

 場所から見える風景は晩秋に近くなっているだけあって、落葉していている木々が半数ほどあったが、南寄りの国である上に雪が降らない暖かな気候のため、半数は緑の木々が元気よく茂っている。獣達も住んでいるが、こうも大勢の人間が歩いていると恐れて出てこないようだ。今年は豊作と聞いているので、余計現れたりはしないのだろう。

 とても天気がいい日でぽかぽかと快適な馬車の中、やっぱり万梨亜は眠さに負けそうになりつつある。

(ジュリアス様がいけないのよ。朝まで……するから! おかげで座っているのですら大変なのに)

 当分逢えないのだからと、結局ジュリアスは朝まで眠らせてくれなかった。ジュリアスはほとんど神のような存在で体力も人離れしているのかもしれないが、自分はただの人間で体力も人並みにしかない。付き合わされる身にもなってほしい……。揺れる馬車の中で万梨亜は口に手を添えてあくびをした。

「ふふ、大変な夜だったのですね」

「あ……いえ、その」

 向かい側に座っている侍女のクロエがくすくす笑った。クロエはテーレマコスの妹で、このリーオへの旅のためにつけられた侍女だった。まだかなり若く、年は十六歳だという。テーレマコスに似てまじめそうな雰囲気は漂っているが、それなりにくだけた態度をとってくれるし気が利くタイプで、万梨亜はクロエがすぐ好きになった。

「お昼まで馬車は止まりませんから、横になられたほうがよろしいと思います」

 クロエが馬車の窓のカーテンを閉めた。

「ええ? でもみんな起きてるし……」

「そんなふらふらの万梨亜様を見ている私が心配なんです。明々後日までディフィールを出ませんし、襲撃などはないと思いますよ。魔法を使えばすぐ行けますけれど、今は余計な魔力は使えませんからご辛抱くださいませ」

「…………」

 ためらった万梨亜だったが眠さと疲れのほうが勝り、クロエがクッションやひざ掛けで設えてくれた簡易ベッドで横になって目を閉じた。

『万梨亜』

 闇の中で誰かが万梨亜を呼んだ。それは聞き覚えがあるようなないような、若い男の声だった。夢の中にいる自覚を覚えつつ、万梨亜はその闇の中で目覚めた。

「……誰?」

『万梨亜』

 闇の中にぼうっと人型が浮かんだ。白い光の粒子を放っているそれは、邪悪な感じはしなかったが、かといって清らかな安心さもない。万梨亜はただ黙ってうなずいた。

『この先には行かないほうがよい』

「……どうしてそんな事をおっしゃるのかわかりませんけど、私は行かなければなりません」

『罠とわかっていて、何故ジュリアスもそなたも行くのだ? 愚かだとはおもわないのか?』

「罠であろうとなんであろうと。私が行く事で女神様のお怒りが解けるのなら行くしかないでしょう? 貴方は誰です?」

 万梨亜は相手の姿が見えないのが気持ち悪かった。すると白い光の粒子が膨れ上がったかと思うと煙のように霧散し、白くまっすぐな髪を肩まで伸ばしている美しい青年が現れた。一重の目の端がわずかに切れ上がっていて、はっとするような美しさだ。

『私はパラシドス。主神テイロンの伝令をしております』

「テイロン様の……」

 神だと思ったが、偽者かもしれないと万梨亜は気を引き締めた。おそらくは限りなく本物に違いないが、気を緩めるとろくな事がないのだ。

「貴方がいらしたのは、テイロン様のご指示なのですか?」

『いいえ……違います。主神は基本的に魔族や人間同士の争いには手を出されません。ここに来たのは私だけの意志です』

「どうしていらしたのです?」

『それは、私が貴女に恋しているからです』

「え……?」

 突然恋などと突拍子もない事を言われ、万梨亜は驚いた。しかしすぐに調子を取り戻し、そんなわけがないと思い直した。この神に出会ったのは初めてだし、目の前のパラシドスの態度はそっけないもので、どう見ても自分を欲していない。ジュリアスやデュレイスのようなあの情熱を感じないのだ。感じても困るのだが。

「わけのわからない告白話は結構です。とにかく私はリーオのカリスト女神の神殿には絶対に行きます」

『……困りましたね。貴女は普通の人間の女ではないようだ。神々に告白されたら人間は喜び舞い上がるものだと思っていたのですが』

 やはり嘘かと万梨亜はほっとしながらも、パラシドスの自意識過剰に呆れた。そういえば神々はどことなくナルシストな気がする。ジュリアスも、テイロンも……。

「私にはジュリアス様だけですので」

『そうおっしゃるのは、彼が次の主神だからですか?』

「いいえ、ジュリアス様がジュリアス様でいらっしゃるからです。私は相手に身分などいりません」

 その時初めてパラシドスが微笑んだ。

『成程、私はそんな貴女だから惹かれたらしい……』

「まだおっしゃいますか。信用しませんよ! 貴方も魔力の石が目当ての方ですか?」

 早く夢から覚めないものかと、ムカムカしながら万梨亜は周囲を見回したが、辺りはしんと静まり返った闇が広がるばかりである。鈴が震えるような音がしたのでパラシドスを見ると、彼の持っている薔薇に似た花が絡みついている黄金の杖から、一羽の白い小鳥が出てきた。その小鳥は文鳥に似ていたが、目が金色だった。

『この鳥は貴方の使いになさい。困った時に助けてくれるでしょう、愛しい万梨亜』

 パラシドスの手に止まっていた小鳥は、万梨亜のほうへ飛んできて、細い肩に止まった。小鳥はうれしいが愛しいという言葉はいただけない。この小鳥も何かの罠かもしれないと思い、返そうと思って小鳥に手を伸ばすと、小鳥は頭上高く羽ばたいてしまった。

「あ、……もう!」

『ははは。小鳥は貴女の気持ちに敏感なようです。鈍感な貴女とは正反対だ』

 闇の中を染まらずに飛び回る小鳥を追っていた万梨亜は、注意が散漫したためにパラシドスに背後からきつく抱きしめられた。ふわりときつい水仙の匂いに、万梨亜はほかの男の腕の中にいるのだとどぎまぎする。

『万梨亜……』

 白いが確実に骨太な、それでいてしなやかな手が顎に手をかけて持ち上げたかと思うと、唇が合わさっていた。

「んーっ!」

 初対面の相手にキスされて、万梨亜はびっくりするのと同時に怒りが湧き上がってきた。殴ろうとして握った拳を繰り出したが、ふわりとパラシドスが離れたので拳は宙を斬っただけだった。理知的な顔に涼しい笑みを浮かべたパラシドスが言った。

『万梨亜。私は、貴女が異世界に来た時からずっと見ていたのですよ。ですが、主神に阻まれて手が出せなかっただけなのです。今回はなぜか妨害がなかったのでこうして貴女の夢を利用して逢えたのですが……』

「ごたくは結構です! よくもっ」

 頬を叩こうとしたがまたするりとかわされてしまい、万梨亜は悔しさで胸がいっぱいになった。

『ふふ。貴女の住んでいたところは一妻一夫が当たり前のようでしたね。ですがこちらは一妻多夫、一夫多妻が当たり前なのです。ましてや貴女のように魔力の石を持つ女は、特にたくさんの男に愛されるほうが有利ですよ』

 浮気をそそのかすパラシドスに、万梨亜の顔は怒りに染まった。とんでもない神だ。やはりあの小鳥は返したいと思うのに、なぜか唐突に眠くなってきた。身体に力が入らなくなり横に倒れた万梨亜は、パラシドスに再び抱かれてキスをされた。嫌だと思うのに、眠くて眠くてたまらない。ディフィールに帰った時きっとジュリアスにばれるだろう。同意ではなかったと言わなければ……。

『万梨亜。その小鳥が貴女を救ってくれますように……』

 闇に反射するパラシドスの声が、万梨亜を完全に眠りの淵に落としていった。

 すっと馬車が止まった軽い衝撃で、万梨亜は夢から目覚めた。同時にクロエがきゃあっと驚きの声を上げた。目覚めたばかりでぼんやりとしている万梨亜は、頬を何かに突かれてくすぐったく感じ、二三度瞬きをしてそれを払った。クロエが慌てて何かを指差した。

「ま、万梨亜様、その鳥はいつから……」

「……鳥?」

「その御肩にとまっている小さな鳥です。今いきなり万梨亜様の毛布から飛び出してきたんですけど!」

「………………」

 まだ寝ぼけている万梨亜はなんとなく起き上がり、きょろきょろと周囲を見回した。

 ピイッ。

 バサバサという羽音と共に、さっき夢の中でパラシドスがくれた小鳥が膝に舞い降りてきた。

「夢……じゃ、なかったのね」

「万梨亜様?」

 クロエがしきりに不思議そうにしているが、二度もキスされた悔しさを思い出した万梨亜は、なぜその鳥が突然現れたのか言う気にもなれなかった。小鳥はとても愛らしく見ているだけで癒される。だけども、敵か味方かわからない神に贈られたものに対して、どうしたらいいのか万梨亜は考えあぐねてしまうのだった。

「万梨亜様、しばらく休憩に入ります。お昼のお食事をお持ちしますわ」

 クロエが笑顔で馬車から降りていった。ずいぶん長い間眠っていたらしい。

(この世界の男の人って、油断も隙もないのかしら)

 万梨亜が他愛もない事を考えている間にも、彼女に忍び寄る影は確実に間合いをつめていた……。

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