ディフィールの銀の鏡 第54話
万梨亜は、ソロンに背後から抱きかかえられて眠っていた。執拗なソロンの愛撫にくたくたになっている彼女は深い眠りに入っていて目を覚まさない。ソロンはというと、いささかの疲れも見せずに満足そうに万梨亜の髪に口付けたりしている。
深い深い闇の中でまどろんでいた万梨亜は、自分を呼ぶ声にゆっくりとあたりを見回した。
『ここだ、万梨亜』
万梨亜が闇の中で起き上がるとあたり一面がきらきらと光り輝き、闇が消え去って青空が広がった。その場所はディフィールのジュリアスの館の近くにある原っぱだった。いつもの木陰に会いたいと願っていたジュリアスが立っていた。
『ジュリアス』
『遅くなってすまなかった』
万梨亜は、両手を大きく広げたジュリアスの胸の中に飛び込んで背中に手を回し、ぎゅっとしがみ付いた。夢の中とはわかっているが間違いない、これは本物のジュリアスだ。
『遅過ぎます。私、ソロンに抱かれてしまったのです……』
『ソロンは余でもあるから、気に病む必要はなかろうに』
『本気でおっしゃっているのなら、許しませんよ』
『はらわたが煮えくり返るようだ』
激しい口付けが降ってきた。久しぶりの口付けがうれしくて万梨亜もそれに必死に応え、二人は夢中で口付けあった。そして、このままジュリアスが消えてしまいそうな気がして、万梨亜は必死にしがみ付いた。ジュリアスはそれをからかって笑う。人の気も知らないで相変わらずなようだ。
『万梨亜、大丈夫だ。余は消えたりなどしない』
『でも、ソロンがもうジュリアスを目覚めさせないと言っていました』
『ずっと眠り続けて、余が幸せなのを夢に見ていたのならそう思っても無理はあるまい。だが、今の余の境遇は余が懸命に作り上げたものだ。そうやすやすと渡せない。ましてやそなたを渡すなどありえない』
首筋に唇を落とされて、万梨亜はふと思った。
『こうしているのがソロンにばれたりしたら……』
『それはない。ふ……』
おかしくて耐え切れぬようにジュリアスは笑った。そして何故か万梨亜のお腹をゆっくりと撫で、優しい笑顔になった。
『ここに住み着いている者が、万梨亜と余の逢瀬を見せないようにしてくれている。見ようと思って見れる者が居たとしたら、あの主神テイロンぐらいであろうな』
ジュリアスの言っている意味がわからず、万梨亜は自分のお腹と柔らかく撫で回すジュリアスの手を見下ろした。ソロンに抱かれたら何かあるのだろうか? 不思議に思っている万梨亜をさらにジュリアスが笑う。
『わからぬのも無理はないか。人間と神とでは勝手が違う』
『勝手? 先ほどから一体何の話をされているのですか?』
万梨亜は謎かけのようなジュリアスの言い方にいささか腹が立った。思えば最近自分は怒りっぽい気がする。奴隷のような態度を止めたせいなのかどうかはわからない。
『ここに、万梨亜と余の子供が居る。人間ではない神の子だ』
これ以上はないほど万梨亜は仰天し、大きな目を見開いて口をぱくぱくとさせた。ジュリアスはますます笑っているが、仰天事実を聞かされたら誰だってこうなるだろう。同時に喜びと恐れが生まれ、ついでに焦りが出てきた。感情の起伏が激しくなりがちだと万梨亜が言うと、ジュリアスがそうだろうと頷いた。
『神の子でも人間の子でも、身ごもったら大抵の女は感情的になる。子や卵を守ろうとする母鳥を思い浮かべたら簡単だ。自分以外は全て敵に見えるようになるし、その為に攻撃的になる。しかし、しっかりと理性が働いているから、普段なら有り得ぬ攻撃的な自分に驚いて情緒不安定になるのだ。万梨亜はおとなしいぐらいだ、安心せよ』
『……ですが。つわりも何もありませんのに』
『まだ早過ぎるというのもあるが、神の子の場合は腹が出たりはせぬ。母の腹に居る月も三ヶ月間で、月が満ちたら勝手に母の腹から瞬間移動するように生まれてくる』
『瞬間移動……ですか?』
さっぱり理解できない万梨亜は、首を傾げた。人間と神々では大分違うらしい。
『人間は母が血肉を与え、月が満ちたら陣痛が起こって産み落とすのだが、神の場合は母の魔力を吸って成長し、自分が姿を形どれると思った時に勝手に外の世界に飛び出す。余もそうであったらしいが』
『その時は赤子の姿なのですか?』
『そうだ。成長する度合いは母の魔力の大きさで決まる。我が母はかなり魔力が小さい……というよりほとんどなかったゆえ、余の成長は遅く人間並みだった。我らの子供は早いだろう。あっという間に成人するやも知れぬな』
なんとも信じがたい話だ。人間なら早い人でそろそろつわりが始まる時期だろう。体温もつわりもなく普通で、感情の起伏だけが激しくなるのは恥ずかしい気もする。考え込んでしまった万梨亜にジュリアスが言った。
『万梨亜は今ぐらいでちょうどよい。自分を大切にせずに他のものばかりを優先していては幸せも逃げてしまう。ああ、でも結局はそなたは人のために命を捧げる女子か。ディフィールや余の為に、ソロンが封印されている神殿に入ったのだから』
『……ジュリアスにはもう、この先が見えているのでしょう?』
『言った事があるはずだが全てが見えるわけではない。こと、そなたに関しては見えないという方が正しい。余より魔力がある者の未来は見えない、過去や現在見ている夢は見えても……な。真実の眼も万能ではないのだ』
万梨亜は何も言わずにジュリアスの胸に顔を埋めた。ずっとこうしていたい。ずっとこの優しい場所で安心していたい。そんな事は有り得ないとわかっているから、余計に願わずにはいられなくなってしまう。ふと、万梨亜は疑問が湧いた。
『ジュリアスの御子が居るのに、ソロンに抱かれました。流れたり……しませんよね?』
『神の子は基本的に流れない。繋いでいるものは母の血肉ではなく、思いだ。余や子供を愛おしいと思っている限り消えたりしない。だが、ソロンに心を移したり、子供を憎んだら消えてしまうかも知れぬ』
『そんなの絶対ないです!』
反射的に顔をあげて叫んだ万梨亜に、ジュリアスは満足そうに頷いた。
『うぬぼれではなく、余もそう思っている。だから大丈夫だ』
そう言うジュリアスの姿が透け始めた。周囲の景色もぼんやりと霞んでいく。
『……今宵はここまでのようだ』
『お待ちください。ジュリアスを縛るものはソロンですよね? どうしたらいいんです? いったい私に何をお望みなのです』
『すまない。それを教えたいのは山々だが、教えてはならぬのだ。そなた自身が縛るものを見つけ出して断ち切ってくれねば、余もソロンも未来永劫お互いに縛られたままだ』
『そんな』
『泣くな。そなたが泣いたら余は辛い。大丈夫だ、万梨亜ならきっとできる。必ずできる。愛している……万梨亜』
万梨亜のこぼれる涙を拭う手は、もうほとんど透けて消えていた。引き止めようとしても、意識が浮上し目覚めていく自分を止められない。やがて万梨亜は本当に目覚めた。
現実にあるのはソロンの腕の中に居る自分で、万梨亜はがっかりした。
「長い時間眠っていた」
ソロンが背後から万梨亜の肩に口づけた。何の喜びもときめきもない。
「人間は眠らないと死んでしまいます。貴方は眠らないのですか?」
「眠る場合もあるが、特に眠らなくても平気だな。ジュリアスは人間の部分があるから眠っていたようだが。不便なものよ」
どうやらジュリアスが言っていた通り、夢での逢瀬はソロンには感知できないようだ。万梨亜はそれがなんだかうれしかった。これからは夢の中でジュリアスに逢いたいと言えばいい。ちょっと意地悪なジュリアスだがきっと来てくれるだろう。でも自分のわがままで呼びつけるのは良くないと言う自分も居て、毎晩というわけにはいかないようだ。
「眠らなくても平気なのに、お腹は空くのですか?」
万梨亜はソロンの腕の中から抜け、そばに置いてあるガウンのようなものを着た。抱き合っているわけでもないのに全裸でいるのは恥ずかし過ぎる。
「そのうち食べなくなるだろう。魔力が充実すれば食べたり食べなかったりが選べるが、長い間眠っていただけの私にはまだ無理だ。睡眠だけは取らなくても平気なのに不思議なものだな」
それはもしかすると、ジュリアスの仕組んだことではないかと万梨亜は思った。ソロンが眠ると夢での逢瀬を感知する確率があがる、だから眠らなくても平気なようになんらかの処置をしたのではないだろうか。万梨亜を媒介にして次元を超えた向こうから術をかける……、ジュリアスならできそうな気がした。
魔王ルキフェルは、鏡を通じてデキウスからの罵声を散々浴び、恐れおののいた態度で許しを請うた後、ジュリアスを消す方法をもっと考えろと言われ通信を遮断された。傍らにヘレネーが居たが、彼女は通信の間中ずっと顔を伏せて押し黙っていた。鏡が通常に戻り、部屋が静まり返ると、ヘレネーはくすくす嘲り笑った。
「ほんに単純で愚かな神よな。あんな者が主神になれるはずもないわ。兄上様もよく頭を下げるものじゃ」
「あの手の輩は見ているもののみ信じるゆえ、扱いやすくてあくびが出そうだ。万事我らに都合よく事が運んだな。ソロンが目覚めれば、あのやっかいなジュリアスを葬り去ってくれるだろう」
「うまく行けばよいな、兄上」
ヘレネーが黒い扇を広げて皮肉った。しかしルキフェルは気にしないようで、鏡に布をかけ、今度は丸い水晶の上にかかっていた布を取った。そしてわずかな呪文を唱え、ディフィールの様子を映し出した。そこには妊娠したマリアがぐったりとベッドに横たわっている。
「ヘレネー。この王妃をケニオンに来させろ」
「マリアをかえ? それはいくらなんでも無理というものじゃ。まだ機は熟しておらぬ」
「ディフィールの神官や旧保守派連中を脅かせばよい。攻め入る風に見せかければ、必ず動く。テセウスが何を言おうが、この女は……」
「成る程のう。こやつ自ら足を運ばせるわけじゃな。よい、デュレイス様にお頼みする程に」
ヘレネーが姿を消し、ルキフェルは水晶に映るマリアを見て口元を歪めた。