ディフィールの銀の鏡 第55話
ソロンの神殿の森のはるか後方の、天上界でも奥まった山の上にテイロンの神殿はあった。しかも山の裾から仰ぐ事はできず、絶えず白い雲に覆い隠されている。心の世界で見ていたテイロンは親しみやすく明るく優しい男という印象だったが、やはり彼はこの異世界で最高峰に位置する主神であるのだと、万梨亜は思い知らされた気分だった。同時にジュリアスがその跡を継ぐのだという事実も、妙な重々しさを持って彼女の心にのしかかってきた。
ソロンと万梨亜は瞬間移動でテイロンの神殿の前に立った。大理石のように白くつるつるとした石でできている建物は、やはり人間の技では不可能な精巧な彫り物が施されている。デキウスの神殿でもその豪華な造りにびっくりしたが、テイロンの神殿は遥か上を行く。神聖不可侵な雰囲気が漂う何十段もある階段を前に、万梨亜はソロンにおそるおそる言った。
「……勝手に入って大丈夫なの?」
「息子が父に会うのだ。何をためらう必要がある」
ソロンは万梨亜の左手を引いて、流れるような動きで階段をさっさと昇っていく。デキウスの神殿でもそうだったが、何故神々の居住している建物の中は人が居ないのか不思議だ。先日ソロンは、食事の手配をテイロンへ頼んだと言っていたが、それも気配が無くいきなりテーブルの上に料理が現れたような印象だった。広大な建物の維持はかなり大変なはずなのに、それに見合う人員が見当たらない。磨かれた床はどこまでも広く、天井も驚くほど高い。万梨亜はきょろきょろと辺りを見回しながら神殿の中をソロンと一緒に進んだ。
「どこに主神がおいでになるか知っているのですか?」
「わかる。だが……」
ソロンの足が唐突に止まり、万梨亜も足を止めた。どうして止まったのだろうと万梨亜が思っていると、ふうわりと前方の空間の中から青年が現れた。万梨亜はその青年に見覚えがあった。
「……パラシドス」
万梨亜が思わずその名を呟くと、パラシドスは黄金の杖を肩に持たせかけ、目を細めて笑った。
「覚えていてくださるとはうれしい限りです」
「何用だ」
ソロンが睨むと、パラシドスは背後の豪奢な彫刻が施されている柱に凭れた。
「残念ですが、貴方では主神に目通りは叶いません。主神に会えるのはジュリアス様のみ」
かっとソロンが怒りで目を見開いた。
「私もジュリアスであるのだぞ」
「存じております」
「同じ分身同士の我らに、何故かような格差を父は強いる」
「一番ご自分がご存知のはず。貴方には無くてジュリアス様にあるもの、それが目通り叶わぬ理由です」
青い炎が二人の間に一瞬燃えて散った。ソロンが攻撃したのをパラシドスが黄金の杖で撥ねのけたのだ。
「およしなさい。今の貴方ではこのパラシドスですら倒せません」
「たかだか父の伝令のくせに私を嘲笑うか。からかうのも程ほどにせよ。私は早く父に会いたいのだ。どけ!」
しかし、パラシドスの答えは否だった。しびれを切らしたソロンが本気の魔力の攻撃をパラシドスに仕掛けたが、それはパラシドスの身体を通過して背後にあった美しい彫刻が施された柱を破壊しただけだった。ばらばらと石塊が飛び散るのを見ながら、パラシドスは笑みすら浮かべる。
「その万梨亜の心を掴む事。それが主神に会う条件です」
「なんだと。万梨亜は私を愛している。もう条件は揃っているではないか!」
万梨亜はソロンの青いまなざしを受けてびくついた。パラシドスは黄金の杖の先で石塊をこね繰り返し、こんこんと叩いた。攻撃の際に離されたソロンの手が再び万梨亜に伸ばされてきたが、万梨亜は後ろに下がってその手をかわした。
「そうら。万梨亜は貴方を認めていません。愛してなどいないのですよ」
パラシドスの声にからかいが完全に含まれ、ソロンの顔が冷たい怒りに染まった。しかしデキウスのように逆上する事は無く、すぐに握り締められたこぶしの震えも止まり、パラシドスを睨んでいた双眸は寂しげに反対側を向いた。
「……わかった。帰る」
「え? もういいのですか?」
「よい……、試してみたかっただけだ。だが、やはり父は私には会ってくださらぬ様だ」
くるりと背を向けたソロンの、あっさりとしすぎる下がりようがなんとなく不気味だ。パラシドスに振り向いて頭を下げ、神殿を出て行くソロンの後を追う万梨亜を見送りながら、パラシドスは深いため息をついた。
「主神も哀れな事をなさる。何故あの方は、愛する者程辛い運命をお与えになるのであろうか……」
来ても絶対に目通りは許さぬと言った、テイロンの言葉を覆す力はパラシドスには無い。主神の忠実な伝令であるパラシドスは、自分の心を封じ、相手が傷つこうが怒りに我を忘れようがそれを伝えるだけだ。しかし今回のような嫌な役目は久しぶりだ。生まれてから二十年以上もあの森の中奥深くに封印されていた息子が、やっと会えると父と母を求めてやって来たのに、この仕打ちはあんまりな気がするのである。
「万梨亜。私の想い人である愛しい貴女もそう思いませんか?」
そうパラシドスが一人ごちた時には、二人の影は完全に彼の視界から消えていた……。
万梨亜は早足で歩いていくソロンについていくのが精一杯で、ぜえはあと息を切らしながら白い石畳の上をほとんど走っていた。デキウスが降らしていた雨はやみ、また人間界と同じように太陽が明るく青空に輝いている。
テイロンの神殿に来る道では明るく話しかけてきたソロンが、帰り道では無言でさっさと歩いているのがなんだか万梨亜はやるせなかった。おそらくソロンはテイロンにやっと逢えるのだと思って胸を躍らせていたに違いない。それなのにあのように他人に追いやられては傷ついて当たり前だ。
鳥の声がして、小鳥のヒューが万梨亜の肩に止まった。万梨亜のせいではないと言っているようだが、なんとなく自分のせいでもある気がする。でもどうにもならない。自分はジュリアス以外は愛せないのだから。
「……万梨亜」
自分の神殿がある森の入り口でやっとソロンが足を止め、万梨亜は荒い息を吐きながらその場に座り込んだ。行きは瞬間移動だったのに、帰りは下り道とはいえ山の道を歩いていたようなものだったので、結構な運動だった。不思議なのは距離感の事で、どう見ても元の世界で言うヒマラヤ並みの高さの山であるのに、徒歩十分ほどで降りてこれるのはどうなっているのだろう。人間の感覚で神の世界は計れないようだ。
「はい……」
見上げたソロンは何かを決意したようだ。真摯な青いまなざしに万梨亜は何か嫌な予感がした。それは的中した。
「私は、これから貴女を伴ってディフィールに降りる」
万梨亜は一瞬放心したが、すぐにはっとして立ち上がった。
「なりません。今のディフィールは戦場になろうとしている危険な場所です」
「だからこそだ。私がディフィールを救えば良いではないか」
「ディフィールを救うのはディフィールの者でなければなりません。貴方は……」
「私はディフィールの第一王子でもあるのだろう? そなたをここに留めておこうと思っていたが、ディフィールに私も行けば、ジュリアスより私のほうが優れていると理解できやすかろう。ふふ」
「止めて……っ」
まだ縛るものを断ち切れていない。このままでは現実のジュリアスに逢えないままだ。
首を横に振る万梨亜は強引にソロンに抱き寄せられ、心は拒絶を叫ぶのに魔力の石の力を引きずり出された。ジュリアスとソロンは別の精神体でも、石は彼女の愛しい恋人だと判断するらしい。青い光が辺りに満ち、万梨亜はそのままソロンのなすがままに力を奪われていく……。
(嫌、どうしてこうなるの! ジュリアス様……私はどうすればいいのですか)
夢でしか逢えないジュリアスに、万梨亜は叫んだ。
当然ディフィールの王宮ではひっくり返ったような大騒ぎになった。石になっているはずのジュリアスが現れて、攫われた万梨亜も帰ってきたのだから。
「あ、兄上。石になってしまわれたのでは」
騒ぎを聞きつけ、執務を放り出して大広間に飛び出してきた国王のテセウスに、ソロンはぞんざいな口を聞いた。
「お前がディフィールの王か。見たところたいした魔力はなさそうだ。攻め入られて滅びるのも時間の問題か」
「は!?」
ジュリアスならば絶対にあり得ない物言いに、テセウスは怒りを通り越してあっけに取られ、目をまん丸にした。反応したのは傍に居たクレオンで、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「いくら王の兄君とは言えど何という口の聞き方か! 慎まれい!」
「何だお前は。神である私に指図する気か生意気な」
ソロンは眉を顰ませ、人差し指を上げると軽く自分の肩の上に振った。
「うわあっ」
指の動きと連動するようにクレオンの身体が浮かび上がり、集まっている貴族や大臣たちの上を飛んではるか遠くの壁に激突して落ち、悲鳴が上がった。怪我は無いようだがクレオンは気を失ってしまった。非難があがる中、一国の大臣に対する傍若無人な振る舞いをテセウスが咎めた。
「兄上、何をなされます。ご正気か?」
「神に対する口の聞き方がなっておらぬゆえ、躾けてやっただけだが。聞くところによると、最近のディフィールでは神殿がおろそかになっているそうではないか」
「兄上のおっしゃりようとは思えません。神官の振る舞いを憂いておられたのは貴方も同じなはず」
「当然だ。私はジュリアスではない、ソロンなのだから」
「は……」
言葉を失ったテセウスの隙をついて、やっと万梨亜は二人の間に入った。
「陛下。この方はもう一人のジュリアス様で、ソロンという方です」
「……にしては」
テセウスがまじまじとソロンを見た。ソロンもじろりとテセウスを見る。顔は似ているが性格は真逆だとテセウスは思った。不審そうに見るテセウスにソロンがまた人差し指で何かをしようとしたので、万梨亜は慌ててその手に飛びついて止めた。
「陛下。ご無礼をお許しください。この方は何もご存知ではないのです。とにかく今は館に戻ろうと思いますが、よろしいでしょうか」
「……構わぬが」
面白くなさそうにしているソロンの腕を万梨亜は引っ張った。ここに居てはますます騒ぎがひどくなるばかりで、ろくな事にならない。しかしまたここでソロンが抗った。
「何故私が王宮を出なければならぬ? ジュリアスの館などといえば立派に聞こえるが、あれはどう見ても農夫の小屋ではないか。王子である人間に対する礼も無いのかこの国は。第一王子自らが畑仕事して土まみれになるなど……」
万梨亜は気がついたらソロンの頬を張っていた。すさまじく痛そうな音が響き、ソロンの文句が止まった。傍目には元奴隷が主人を引っぱたいているようにしか見えない。咎める声が起きなかったのは、今の万梨亜はジュリアスの后だからだ。また、彼女の胸が青く輝き始めたせいでもある。万梨亜が黒い瞳に怒りを宿らせながら言った。
「ご自分の立場がわからぬのであれば、さっさと天上界へ戻ればよろしいのです! ジュリアス王子は好きであそこにお住まいでした。自然と対話されるお優しい御方でした。陛下はそういうジュリアス様のご気性をご存知でしたから、何もおっしゃらないのです! お二人の仲を悪くするような態度は許しませんよっ」
ソロンは張られた頬を触って、子供のように目をぱちくりとさせた。神そのものだと知っているテセウスはヒヤリとしたが、妙な威厳の漂う美しい万梨亜に何も言えない。万梨亜は変わったのだ、自分の心の世界で正しい自分を取り戻し、卑屈な態度を取らない女になった。妻であるマリアがなぜあれほど劣等感を刺激され、悪しきざまにののしるのかようやくわかった気がする。
「……そうであった。私が思い違いしていたようだ。神である前にここでの私は王族の一人に過ぎない」
しんと静まり返った広間で、ソロンはテセウスとクレオンに謝り万梨亜の手を取った。
「万梨亜もすまなかった。ジュリアスの館に案内してもらおう」
威厳を誇示して怒ったかと思えばころっと態度が変わる。今日はそれの繰り返しだ。素直なのか考えなしなのか、とにかく気まぐれで子供のような人だと内心で思いながら、万梨亜はその場にいる全員に礼をとってその場を後にした。
ケニオンの使者が来る前のディフィールの、小さな騒ぎだった。ざわざわしている人々の後ろで、王妃マリアが柱の影から二人をじっと見ている。