ディフィールの銀の鏡 第56話

 王妃マリアを人質によこせばディフィールへの侵攻を止めるという、ケニオンの恫喝そのものと思えるデュレイスの書簡がディフィールの王宮に届けられたのは、ソロンが万梨亜と共に帰ってきた日のわずか二日後だった。テセウスはその書簡を見た時怒りで顔を真っ赤に染めたが、直ぐに深いため息に変えた。テーレマコスもクレオンも難しい顔をして黙り込むしかない。マリアはそれを耳にした途端に倒れてしまった。

「四面楚歌なうえこれですか。断れないのをわかった上ですな」

 と言うクレオンに、テセウスが、

「とんでもない話だ、いずれも呑めぬわ」

 と言い、じっと書簡を見つめているテーレマコスに言った。

「王妃マリアも、王子妃の万梨亜も渡すなどできぬ。世継ぎか魔力の石かなど選べるか!」

 テーレマコスは、もし王妃マリアをよこさぬのなら、王子妃の万梨亜を寄越すようにというもう一つの条件こそが、デュレイスの本音ではないかと思った。デュレイスは万梨亜を狂愛しているし、万梨亜が保持している最強の魔力の石が欲しいだろう。

 一方の王妃マリアなどの方が付け足しに思える。彼女が妊娠しているのはまだ秘密中の秘密で漏れているとは思いがたい。いくらヘレネーや魔王が魔法にたけていても、この初期の段階ではわからないはずだ。可哀相な言い方だが、異世界から来た魔力を持たない美しいだけの女など、この世界では何の価値も無い。貴族達はこぞって娘達を押し付けようと手ぐすねを引いて待っている……、つまり、王妃の換えの娘など何人もいる。おそらく貴族達の中から王妃マリアを差し出せと言ってくる者が出てくるだろう。テセウスのマリアへの愛情など、貴族達は気まぐれのようにしか思っていないのだから。

「七日以内に返事を寄越すように……ですか」

 テーレマコスがクレオンに書簡を渡すと、クレオンは首を横にふりふり書簡箱に入れて侍従長に渡した。テセウスが椅子の肘掛に右腕で頬杖を突いた。

「リーオのほうはどうなっている?」

「まだなんとも……。前国王のほうはなんとか意識を取り戻すに至りましたが、依然危険な状態です」

 クレオンが申し訳なさそうに言った。

「奴が健在なりとわからねば、潜んでいる者共も行動を起こしにくかろうな。七日でどうかなるものではあるまい。……要求はとても呑めぬ、ここで一戦交えるしかなかろう」

 それはまるでのどが渇いたから水をくれと言うような、あっさりとした言い方であったため、二人とも呑み込むのに数秒を要した。そして戦慄する。クレオンが真っ先に言った。

「それだけはなりませぬっ。一線を交えると言うのはもはや……」

「すぐに国が滅びると言うか。まったく勝算はないと?」

「残念ながらあるとは思えませぬ」

「そなたはやはり軍に関しては不向きなようだ。国務大臣あたりがやはり妥当であったわ」

 く……とテセウスが笑った。しかしクレオンもテーレマコスも笑えない。クレオンは内政が中心であるし、テーレマコスもつい最近までスパイと農業が中心であったのだから。それなのに二人が一番テセウスに近いのはクレオンは幼い頃からの同志であり、テーレマコスは頼りにしている兄王子ジュリアスがもっとも信頼していた人間だからだ。この二人がテセウスの近くに居ても、最近は嫉妬深い貴族達でさえ何も言わなくなった。それは二人が奢り高ぶった様に振舞うことも無く、また、施政を思うがままにもしないからである。

「案ずるでない。確かに苦戦を強いられるし長引けは国家存亡の危機に陥るかも知れぬ。だが、そうそうケニオンの思う通りにはいかぬ」

 テセウスはそう言い、控えている侍従長に将軍達を呼ぶように言った。

 万梨亜は、ジュリアスの館でとんでもない人物……神の来訪に目を見開いた。

「久しぶりね、万梨亜」

「……カリスト女神。こちらに何か御用ですか?」

「本当にお前は変わった人間ね。普通の者達なら、私の出現に大喜びで涙を流して地面に這い蹲るところよ?」

 ほとんど裸に近い状態の美しい女神の出現に、衛兵達が目を丸くしている。万梨亜はジュリアスに悪い噂がついたらと気が気でない。

「私はこの世界の人間ではありませんので。それにジュリアス王子に色目を使う女など、女神であろうと許せません」

「ほほほ。まあ良いわ。しかしお前はのんきなものね。国家存亡の危機に箒を掃いているなんて」

「何が起ころうと、最後の朝まで普通の営みを崩さないのが人間です。最後とわかりきっている人間は何か特別な事をするのでしょうが……」

 万梨亜はそこまで言って口をつぐんだ。この世界の神々には何を言っても無駄だろう。デキウスが言っていた、人間の世界がどうなろうが知った事ではないと。主神テイロンでさえ口を挟んだりするのはまれなのだと。

 カリストはそんな万梨亜を不思議そうに見たが、ソロンが館の中から出てきた途端にうれしそうに顔を輝かせ、その首に抱きついた。

「うわ、なんだこの女はっ」

 さすがのソロンも驚き、引き剥がそうとしたがなかなか外せない。

「ジュリアス王子に懸想しているカリスト女神です。貴方がそっくりだから間違われているのでは?」

「あれと間違えている? こら、離さぬか!」

「いーの。どちらともジュリアスだもの」

 聞いていないカリストは、強引にソロンの唇に己のそれを重ねた。愛欲の女神だけあって大胆そのもので、詰めている衛兵がびっくりしている。万梨亜はこれでは示しが付かないと思い、カリストをなんとかなだめ、入れたくは無いが館の中へ誘った。相手は女神だ。あまり邪険に扱うとまたおかしな呪いをかけられかねない。

「なあにここ。まるで農夫の仮小屋みたいじゃない」

 

あまりに質素なジュリアスの生活ぶりに、カリストはソロンと同様あきれたようだ。

「そうであろう。私もそう思った。ほとんどが木製で使い古されたものばかりなのだ」

「駄目だわ。やっぱりこんなところにいるなんてジュリアスにふさわしくないわ。ねえ? 今すぐ私の神殿へいらっしゃいよ。至れり尽くせりで豪華な気分になれるし、神々にふさわしい生活が待っているわ。貴方にいま必要なのはふさわしい境遇と美しい妻ではなくって?」

 しなだれかかるカリストを振り払い、ソロンが冷たく言った。

「美しい妻なら万梨亜がいる。二人も妻はいらぬわ」

「女神の私より、その女が美しいと言うの?」

 雲行きが怪しくなりそうだと思った万梨亜は、女神のお気に入りだと言われている桃に似た果実である、ツイを皿に載せて進めた。

「女神。ツイをどうぞ」

「あら? 気が利くわね。まあ……すばらしいわ」

「ジュリアス王子が大切にされている果樹園の木が実らせたものです」

「まあああっ」

 カリストは、皮がむかれて綺麗に切り分けられているツイを一つ摘み、うれしそうに口に運んだ。これは昨日万梨亜も食べたのだが、蕩けるような甘さで女性ならばたまらない味だ。美しい女神はとても気に入ったようで、自分の皿のツイをすぐに全部食べてしまった。

 ソロンが呆れ気味に言った。

「そなたほど神力があるのなら、食事など不要であろうが」

「うっふふ。好物だけは別よ。このツイは女性の若さと美しさには必要不可欠なの」

「理解できぬな。そもそも神は不老不死であろう?」

「ほほほ。確かに。でも私はこのツイから生まれたと言われるくらいこの実が大好きなのよ。ソロンは嫌いなの?」

「甘い実は苦手だ」

 ジュリアスがおなじ台詞を言っていたのを思い出し、万梨亜は思わず吹き出してしまった。それでもめげずにソロンに言い寄っているカリストを眺めながら、女神とはこんなに天真爛漫なものかと思わずにはいられない。ジュリアスの母のペーネロペイアもこんな女神なのだろうか。

 外で馬のひづめが土を踏む音が聞こえ、万梨亜は窓際に寄った。テーレマコスだ。そのまま迎えに出て行く万梨亜を、カリストがまた不思議そうに言った。

「彼女は王子妃なんでしょ? なぜ仕える者がいないの?」

「ジュリアスも万梨亜もそういった人間はいらないそうだ」

 ソロンはなんとかカリストの腕を振りほどく事に成功し、ふっと息を吐いた。カリストがそこで意味ありげに微笑んだ。

「ねえ知っていて? ケニオンは王妃マリアかあの万梨亜を人質として寄越せと言って来たのよ」

「そうなのか」

「うふふふ、この国の王は一戦交える事に決めたようね。あの使いの顔を見たらわかるわ」

「馬鹿なのかあの王は。さっさと王妃を差し出せばいい。どう見ても勝ち目がなかろうに。国が滅びるくらいなら相手の用件を飲めばいい。小競り合いは勝てても本格的な戦争になっては後の祭りだ。王妃などいくらでも換えがあるだろう」

「ほほほ……貴方はそう言うの、ソロン。ジュリアスとはそこが違うのね」

「そなたは何が言いたい?」

 先ほどまでの天真爛漫さは鳴りを潜め、カリストは惜しげもなく晒した胸のふくらみを強調するように背中をそらし、長い髪を後ろに流した。男を欲する娼婦のような妖艶さがその唇に宿り、ソロンの男を挑発する。しかしソロンは、そのカリスト女神の髪をいきなり掴み、床に叩き付けた。そのままではカリストの顔面が床にぶつかるところだったが、女神はふわりと回避する。

「そなたはカリストではないな!? 誰だ」

「ほっほほ。気づくのが遅いのは半分だからかのう。でもさすがは半分とは言えど神々のうちの一人のソロン。ごまかされてはくれぬのかえ」

「だまされるのは人間か魔族のみだ。お前は誰だ?」

「もう半分のジュリアスに聞くが良いわ。わらわはこの姿のまま王宮に行かねばならぬゆえな」

「なんだと……!」

 その時、床から飛び出したどす黒い蛇のような縄がソロンの身体を幾重にも絡みつき、意思を持ってソロンを床に引き倒した。魔力を発してソロンは縄を引きちぎろうとしたが、縄はソロンの魔力を吸収していき頑丈になるばかりだ。もがくソロンを見下ろしてカリストを騙ったヘレネーが笑った。

「魔力を吸われるゆえ使わぬほうが良いぞ。真実の眼がないお前は実に扱いやすいし、ジュリアスへの嫉妬も心地よい。デュレイス様のために人形になってもらおうかえ」

「く……っ」

 ソロンは身動きができないままヘレネーと再び唇を合わせられた。何もかもが真っ黒に染まっていく。

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