ディフィールの銀の鏡 第62話
地下牢は、ソロンの精神を何故か落ち着かせた。不可思議な話だが暗闇はソロンを安心させるものがある。あの誰も訪れない封印された神殿も万梨亜が来るまでは暗闇に包まれていたので、見えない事に慣れているのだ。沢山の囚人がいるおかげでにぎやかなせいもある。悪態や暴言や嘆く声などばかりでも、孤独ではないという安堵がソロンの精神を発狂から救っていた。
苦しいのは、ディフィールにとんでもない事をしてしまったという後悔が生まれるたびに、ヘレネーの魔法が発動して頭が締め付けられるように痛む時だ。万梨亜に対しての感情も同様で、そちらの方は身体が切り刻まれるような痛みが全身に走り、その魔法が発動した時に苦しみ喘ぐソロンの叫び声で、うるさく騒ぐ囚人達が口を噤み静まり返るほどである。
『お前は父親に愛されない不要の神だ』
『ジュリアスはお前が不幸に堕ちているのを見て、あざ笑っているであろうな』
『姿かたちが同じでも万梨亜はお前を愛さない。お前が出来損ないの存在だからだ』
『無様な姿だ。魔女に身体を支配されてこのような地底深く縛り付けられるとは』
耳を塞いでも聞こえる呪いの言葉が頭の中で反響し、ソロンは呪いの声を消したくて大声で叫ぶ。
「うるさい! 黙れ!」
ドクンドクン、と鼓動が嫌なステップを踏み始める。
『憎め、分身のジュリアスを。憎め、あの小ざかしい万梨亜を。憎め、お前をこのような境遇に陥れた父を、見てみぬ振りをする母を。世界を憎め。お前の魔力でこの不快な世界を消し去ってしまえ!』
「黙れ黙れ黙れぇーっ!!!!!」
カビの生えた冷たい石畳の上をごろごろと転がりまわり、ソロンは呪いの言葉に命令する。しかしその声はやむどころかますますひどくなり、ソロンが気を失うまで続くのだ。ソロンの顎から汗が滴り落ちて石畳が吸い取った。
『お前はジュリアスが居る限り永遠に影の存在。不要のできそこないの神よ』
「違う!」
ドクンドクンドクン。
『皆がそう思っている。あいつもこいつも万梨亜も』
しても無駄だとわかっていても、ソロンは耳を塞いで気が狂ったように頭を左右に振った。涙が汗と入り混じって顎に伝わり落ちていく。
「違う違う!!」
ドクドクドクドクドクドクドクドク…………。
『何が違うのだ。くく……』
あざ笑う声が、容赦なくソロンを地の底へ突き落とす一言を放つ。
『認められぬ限りお前は永遠に一人だ……』
「うわああああああああああ─────っ!!!!」
発狂したような叫び声を最後にソロンの声が唐突に止んだ。囚人達は一番下の牢を覗き込むが、螺旋階段の下は暗闇に包まれていて何も見えない。一体最下層には誰が居るのだろうと囚人達はひそひそと話し合う。話し合っても答えは出ない。誰も永久にこの地下牢からは出られない。この塔に住む者は、死ぬまでそこに囚われて開放される日は来ないのだから……。
その話し声を、ソロンの地下牢からホンの二メートルほど上の地下牢にいる初老の男が黙って聞いていた。男はケニオンでも屈指の預言者だった。誉れ高い男だったのにこのような場所に囚われているのは、デュレイスとヘレネーの結婚に猛反対したからだ。男にはヘレネーの正体がはっきり見えたのだ。
『この女は魔王の妹。必ずやケニオンを滅亡に追い込みます』
まだデュレイスの妃候補を選んでいる段階だった当時、男は危惧を抱いて当時の国王にそう進言したのだが、運悪くそれをヘレネーの父であるリクルグス将軍が聞いていた。娘のヘレネーをデュレイスの妃にして彼を王にし、自分の権力を拡大しようとしていたリクルグスは、男の預言を無効とした上に、自分と娘に対する侮辱だと罪を着せてこの塔に放り込んだのだった。
男は静かになったソロンに心の焦点を合わせる。恐ろしい孤独と後悔と苦しみが押し寄せて、男は一瞬息が詰まりそうになったが呼吸してやり過ごした。やがて男の周りに映像として浮かんだのは、眩しい青色の光とそこに立つ一組の男女だった。離れた場所からその二人を見守る神々の姿が見える……。男はさらに未来を視た。
「…………っ」
男がここに閉じ込められてから一年ほど経つ。未来を知りながらも滅亡を止められない悲哀がずっと男を苛んでいたが、男はかび臭い空気の中で初めて微笑し、涙を流しながら小さく呟いた。
「これでケニオンは救われる……」
しかし、その声は誰の耳にも届かない。
デュレイスは剣の鍛錬を終えた後に離宮の管理人が目通りを願い出ていると聞き、足を止めて振り帰った。王の庭園の片隅の木陰に管理人が膝を付いている。
「用件は?」
「直接陛下に申し上げたいと言うばかりです。本来ならそのまま追い返すのですが、離宮に入っておられる方が気になりますので……」
侍従の言葉にデュレイスは腕を組み、太い柱に背中をもたせ掛けた。侍従はデュレイスの怒りを買ったのだろうかと目を伏せて縮こまった。しかしデュレイスが怒る事はなく、管理人の所まで歩いていった。管理人は王が近づいてきたのを見てさらに深く頭を下げてかしこまった。
「今日は如何した?」
「……は、お目通り頂き幸せに存じます。離宮の客人が陛下に目通りを願っているのです。面会は叶わぬと再三申し上げているのですが、なにやら切羽詰った内容のようで」
「切羽詰った?」
「はい、ひどい脅えようで、見ているこちらとしても平静を保つのに苦労する有様で」
「頼りない。だからお前は管理人などに甘んじておるのよ」
「はは……」
デュレイスは、ふむと顎をに手を添えた。離宮に居るディフィール王妃マリアは、何かと自己顕示欲が強い女で万梨亜を苛め抜いていたと聞いている。それとなく聞くうわさではディフィールを捨ててケニオンに住みたいとか、デュレイスの妃になりたいと恥も外聞も捨てて話すらしい。おそらく下に見ていた万梨亜が自分に寵愛されているのを聞いて、我慢ならなくなったのだろう。
「国王テセウスも、おろかな妃を取ったものだな」
「真に。いかがされますか」
ふ……とデュレイスは笑った。
「そんなに会いたいと言うのならば、一度だけなら会ってやろう」
「陛下」
侍従が咎めるのを、デュレイスは手を振って制した。
「何の魔力もない女など恐れるに足らん。釘を刺しておく事もある」
「しかし、王后陛下が……」
「ヘレネーはしばらく王宮におらぬ。お前達がばらさぬ限り大丈夫だ」
「はあ……」
王妃ヘレネーの悋気の凄まじさは王宮に勤める者の間で有名だ。万梨亜に匹敵する強さの魔力の石を持ち、あらゆる魔術に精通する恐ろしい魔女。魔王の妹だという事実は伏せてあるから誰も知らないが、王宮に勤める者達はヘレネーに不吉なものを感じて戦々恐々としていた。恐ろしい女主人に仕置きをされた侍女が命を落とすなど日常茶飯事で、それをよく知っているデュレイスは、万梨亜が居る建物を厳重に警備させて護らせている。
(私には悪い女ではないが、どうにも落ち着かない女だ……)
近衛兵が集まり、一人がデュレイスの愛馬を連れてきた。デュレイスはひらりと馬の背に乗り、離宮に向かって走らせ始めた。前後を近衛兵が固めて移動する。ケニオンは常に陰謀が渦巻いている国であるため、常にデュレイスは警戒を怠らない。
「そう言えば、もう一人の御方がディフィール王妃に目通りを願っておいでですが」
万梨亜を住まわせている建物の横を通り過ぎる時に、付き添ってきた侍従が言った。デュレイスは一つの案が浮かび、馬を止めた。そして近衛兵に愛馬を預けて建物にずんずんと入っていくデュレイスを、近衛兵数名と侍従がわかっていたかのように追いかけた。万梨亜は部屋で花をシンプルな花瓶にいけていて、部屋に入ってきたデュレイスを見て辛そうに挨拶をする。ここのところ時間があれば万梨亜の身体をむさぼっているため、彼女はそれが辛いのだ。しかしデュレイスは万梨亜を抱こうとせず、侍女のシャンテに華麗な衣装を身に着けさせるように命じた。
体型に沿うドレープが沢山入った水色の衣装を着せられた万梨亜は、デュレイスをいたく満足させた。裾に降りるにつれちりばめられている宝石のきらめきが多くなっていくその衣装は、万梨亜のために半年も前から作らせていたものだ。万梨亜の美貌に衣装のさわやかな青色がよく似合う。反対にヘレネーは燃える様な赤が似合った。それは魔力の質によるものだとデュレイスは思っていた。万梨亜が言った。
「どちらかで何かあるのですか?」
「お前はあのディフィール王妃に会いたいと言っていただろう? これから行く」
黒曜石を思わせる美しい目が見開かれた。
「……こんな格好で? どうして……」
「礼をつくしたいのだろう? 大切な親友なのだから」
戸惑っている万梨亜がありありとわかる。万梨亜にはわかっているのだろう、あきらかにこの華美な衣装がマリアを挑発するであろう事を。それこそがデュレイスの狙いだった。
「行きたくないのならそれで構わない。ただ、こんな機会はそうそうないだろう」
「……デュレイス」
「そうだ。そのように私の名をあの女の前で呼ぶがいい。私の名前を直接口に出来るのは、私に寵愛されている証なのだからな」
「貴方は…………」
なじる万梨亜の視線が心地いい。この調子で行けばいずれ万梨亜はジュリアスを忘れる。そうすれば……。
「行くのか? 行かないのか?」
万梨亜は石のように動かない。デュレイスは椅子に座っていたが、さっと立ち上がって扉に向かって歩き出した。すると案の定万梨亜が慌てたように駆け寄ってくる。
「待って、行きます」
小さく笑ったデュレイスは万梨亜の腰を抱き寄せ、侍女や侍従が見ている前で激しく口付けた。いとおしくてたまらない……、自分のために感情を動かす健気な女。誰もがその美しさに羨望の眼差しを投げかけるであろう、最強の魔力の石を保持する女。
(最高の気分だ)
デュレイスは唇を離した万梨亜が顔を背けるのを見て、万梨亜を攻略する楽しみを見出していた。