ディフィールの銀の鏡 第63話

 マリアが居る離宮は王宮から一時間ほどかかる距離にある。定められている緊急時以外は転移魔法が禁じられている為、万梨亜は馬に乗ったデュレイスに抱えられて移動した。冬に入っているケニオンは身を切るような風が吹き付けてかなり寒いのに、万梨亜以外の者達は軍服や宮廷服の上に何も着ていない。これがディフィールの人間だったら寒さで震え上がるところだ。あのままケニオンと戦争になったとしても、必ず負けていたのだろう。身体的にも精神的にもケニオンのほうが上回っている。

「あれだ」

 デュレイスの言葉に万梨亜は森が急に開けて壮麗な離宮が姿が現すのを見て、ついにマリアに会えるのだと思った。喜びでも恐れでもなく、この半月の間ただマリアに会いたいとだけずっと思っていた。デュレイスが白い息を吐きながら口を開いた。

「かなりわがままを言う女らしいが、そうなのか?」

「……わがままとは思っていません。マリアなら普通でしょう」

「お前についてあらぬうわさをばら撒いたり、食べるもの着る物、仕える者達などすべてに文句を言うので離宮に居る人間は参っているようだぞ」

 万梨亜はそれを聞いておかしいと思った。マリアは確かに我侭な女だが頭がいい。人の反感を買うようなやり方ではなく、狡猾に人の心を操っていた。万梨亜へのいじめが表にほとんど出なかったのも、マリアが完全に善の仮面を被りきり、自分に追従する人間かそうでないかを見極めて行動していたのからだ。そのマリアが何故身の破滅を招くような行動を敵国のケニオンでしでかすのだろう。

(とてつもなく嫌な予感がする)

 万梨亜は白い毛皮の防寒布に包まれているのに、ひんやりと胸が冷たくなるのを感じた。

「お目にかかれてとてもうれしゅうございますわ。デュレイス国王陛下」

 どっしりと椅子に腰を下ろしたデュレイスに、マリアがうれしそうに跪いて挨拶をした。デュレイスの隣に座った万梨亜になど見向きもしない。それにも万梨亜は違和感を感じた。マリアはいつでもどんな時でも、万梨亜に話しかけない時などなかったのだ。

「話があるとか」

 デュレイスはそんなマリアに素っ気無い。マリアはそれに気にした風もなくデュレイスに指し示された椅子に腰を掛け、テーブルの向こう側に居るデュレイスに甘えた声を出した。

「陛下はあまたの側妃をお持ちとか。私、ずっと陛下をお待ちしておりますのに、こちらに来てから半月以上もお目どおりが叶っておりませんでしたわ。ぜひ一度、こちらでお泊まり下さいませ」

 控えていた侍女や近衛兵がマリアを軽蔑するような視線で見た。デュレイスは無表情を保っていたが万梨亜はびっくりし、思わず意見しかけてかろうじて留まった。この場でマリアを詰るなど嫉妬していると取られてしまう。嫌で仕方なくても、自分の今の身分はデュレイスの側妃なのだから。

「……ありがたい話だが貴女は隣国の王妃であられる。手出しなどとてもできない」

 にこりとも微笑まないデュレイスに、マリアがさらに甘えた声を出した。

「私、王妃を廃されましたのよ。ご存じないのですか?」

「知っていたのか……」

 万梨亜は自分の知らない話が出て、デュレイスを見上げ説明を求めた。デュレイスは何故かため息をついた。

「今のディフィールに国王は存在しない。国王テセウスは気がふれたために幽閉。王妃マリアは不要な存在となり廃妃となった」

「幽閉は解かれたのではなかったのですか!」

「怒るな。すぐに開放するように言ったのだが、ディフィール側が拒否してきたのだ。今はネペレ大神官長とやらが宰相となって、国政に従事している」

「そんな。話が違うわ……」

 自分さえ大人しくしていれば、ディフィールは元通りになると万梨亜は思っていた。しかしそれは傲慢な考え方だったようだ。女一人の為に大国の王が動くわけがない。

「ネペレはケニオンの要求をすんなり飲み込んで、ディフィールにケニオンの人材が入り込むのを拒否しなかった。それが我々の最大の目標であったのだからあれやこれや言う事はない。ああ万梨亜、自分の覚悟が無にされたと悲しむのはよすがいい。お前が私に従順だから、このマリアがここで平穏に暮らせるのだから」

「どういう意味です?」

「そのままの意味だ」

 デュレイスの手が伸び、万梨亜の手を掴んで椅子から彼女を引き寄せた。デュレイスの膝の上に乗る格好になった万梨亜は当然びっくりして降りようとしたが、デュレイスの腕がそれを許さず強引に万梨亜に口づける。親友と思っているマリアの目の前でこんな振る舞いをされたらたまらない。そんな万梨亜の拒否の行動ですら、デュレイスの万梨亜への寵愛振りを周囲に知らしめてしまうというのに。

「お前がこのように私の言いなりになっている限り、このただの女は安泰だ」

 乳房をドレスの上から揉みしだきながら、デュレイスが万梨亜の耳元で笑った。万梨亜は恥ずかしさと失望感に苛まれながらぎゅっと両目を閉じた。さっきからマリアの視線が痛い。焼け付くような怒りを孕んだマリアの眼差しが……。

「だからな、マリア元妃よ」

 デュレイスは立場をわからしめるように、わざと「元」と言った。

「お前の運命は万梨亜が握っているという事実を忘れるな。私はお前など爪の先ほども興味はない」

 皆、一斉に目を怒らせたまま動かないマリアを見た。テーブルの上で握られたマリアの両拳はぶるぶると震えている。

「お前の再婚相手はいずれ見つけてやる。それが嫌だと言うのなら巫女か王宮仕えの侍女にでもなるか? 王妃でもなんでもない上、魔力の石も持たない若いだけの女など腐るほど居るからな」

 万梨亜は聞いていられなくなった。

「とんでもない、止めてください陛下!」

「万梨亜。名前を何故呼ばない」

「お願いですから止めて。マリアにそんな話を持ちかけないでください」

「ならば私に従えばいい。言ったはずだ」

「…………」

 デュレイスの腕が緩み万梨亜は開放されたが立ち上がる気力がなく、そのまま毛皮の絨毯が敷かれた床の上に座り込んでしまった。付いてきた侍女のシャンテがそんな万梨亜を助け起こして再び椅子に腰掛けさせた。その間、マリアはデュレイスと睨み合っている。

「……どうだ? その空っぽの脳みそで考えた決断は」

「では、その側妃の侍女にしてくださらないかしら」

 さすがのデュレイスも驚いたようで目を丸くした。万梨亜も同様だ。近衛も侍女達も口々に何かを囁きあった。マリアは皆の視線を集めながら艶やかに笑い、驚いている万梨亜の前まで優雅に歩き跪いた。

「万梨亜様。貴女様の決断一つで私の望みは叶うのですわ。承諾いただけますでしょう?」

「じょ……冗談は止めて、マリア」

 左手をマリアの両手に包まれながら、万梨亜は首を横に振った。一体マリアは何を考えているのだろう。

「冗談じゃないわ。そのうち貴女に飽きて私に……という事もありえるでしょう? ねえ、そこの貴女もそういう魂胆があって王宮入りしたのではないの?」

 側に立っているシャンテは突然マリアに話しかけられ、戸惑ったような表情を見せた。確かにマリアの言っている事は、本人の意思か親や親類縁者の意思かどちらかの望みであるとしても、貴族の娘としては当然の野望だった。だから王宮に仕える侍女には美しい娘が多い。当然シャンテも、万梨亜ほどではないにしろほどほどに美しい。やがてマリアに集まっていた視線は、デュレイスに移っていった。デュレイスはマリアをじっと無表情に睨んでいる。

 ぱきり、と音がして暖炉にくべられていた薪が砕け散った。

 万梨亜はとんでもない話だとデュレイスに止めてもらおうとしたが、右手に手を重ねられて口を噤んだ。デュレイスはマリアに言った。

「侍女となれば、今のような生活は出来ないがそれでも良いのか?」

「構いませんわ」

「万梨亜に災いを成せば、その場で斬り捨てるぞ」

「まああ……、お仕えする主人に災いを成すなんて有り得ませんわ」

 本心かどうかはわからないがマリアは優美に笑う。デュレイスは本当は今日、マリアに自分の立場を理解させてこの離宮で大人しくさせようと思ってここに来たのだが、考えが変わった。

(面白いではないか。万梨亜を甚振ったこの女を惨めな目に遭わせられたら)

 マリアは元の世界でもお嬢様で、侍女のような人に使われてる雑用などやった経験のない女だと聞いている。おそらくすぐに根をあげて苦しむだろう。辛くなっていくら辞めたいと言っても絶対に辞めさせず、死ぬまでこき使って後悔させてやる……。

「良かろう。ではシャンテ、お前の下で使うがいい」

「デュレイス!」

 抗議の声をあげる万梨亜を無視して、デュレイスはシャンテに命令した。シャンテは腰をかがめてそれを受け止める。

「よろしくお願いします。万梨亜様」

「……マリア」

 万梨亜は、先ほどの怒りを消してずっと微笑んでいるマリアを見た。これはマリアではない。おかしい。ヘレネーがカリストに化けていたように、誰かがマリアに化けているのではないだろうか。自ら万梨亜の侍女になるなどと言うマリアなんて有り得ない。

 デュレイスが長居は無用とばかりにすぐに万梨亜の手を引いて立ち上がり、王宮へ戻ると言って歩き出した。離宮の出口から見上げる空は、真っ暗な雪雲が深く垂れ込めている……。

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