ディフィールの銀の鏡 第66話

「本当にこの世から消し去りたい女子じゃな」

 ヘレネーは美しい裸体を惜しげもなく晒しながら、魔術師のキュティーレに酒を注がせていた。この数日ずっとデュレイスを独占し、ついさっきまでデュレイスと寝ていた。しかしデュレイスは彼らしくも無く気もそぞろで、妙にヘレネーに気を使い何かを隠しているふうだ。ヘレネー以外の人間なら何を考えているのか読めないデュレイスなのだが、相手が魔女のヘレネーでは相手が悪すぎた。邪魔なジュリアスが消え去ったと言うのに何故そんなにもの思わしげなのか……。デュレイスに自分の部屋で休むようにヘレネーは進言し、デュレイスが出て行った後にキュティーレを呼びつけて酒肴の用意を寝台の上でさせた。

 キュティーレはヘレネーがずっと使っている魔族だ。動物や植物や虫、あらゆるものに変化できる彼女は女主人の命令を忠実にやってのけ、おそらく原因は万梨亜が妊娠したからであろうと報告した。

「何故わらわは孕まぬのであろうか。同じ魔力の石を持っているというのに」

 その理由はヘレネー自身が一番良く知っている。悔しくて気が狂いそうになるその現実に比例し、ヘレネーの万梨亜に対する憎悪はますます深まっていく。あの女さえいなくなればデュレイスは振り向いてくれるはず。でも命を奪えばきっとデュレイスはヘレネーを憎み、容赦なく捨て去るだろう。

「殺せぬとあらば、自ら死を選ぶようにすればよろしいのでは?」

 卑しい笑いを零しながらキュティーレが言った。酒の酔いに滲んだヘレネーの目が赤く光る。

「ソロンに元王妃マリア、そして最愛のジュリアスの事を知れば、あの女は必ず絶望しましょうぞ」

「そううまくいくものか。喪ったものの隙間にデュレイス様が入られるに決まっている」

 酒を飲み干してヘレネーは吐き捨てた。キュティーレは口を噤んでなにやら口の中でぶつぶつと言う。いつもなら聞き逃さないヘレネーだが、今日はそんな気分にはとてもなれない。どうすればいい。どうしたらあの万梨亜はデュレイスからいなくなる。

「……奪わせればよい」

「は?」

 キュティーレはヘレネーの言葉に顔を上げた。ヘレネーの顔は悪意に満ちているというのに、とても美しい……。

 万梨亜の熱はなかなか下がらない。妊娠はまだ秘されており、知っているのはシャンテとデュレイスと医師の三人だけだ。ただ原因不明の熱という事だけが王宮内で広まっていて、人々の間では王妃が呪いをかけたのではないかと噂が立っている。

(もうこのままでもいいわ)

 ぼんやりと天蓋についている造花を見上げながら万梨亜は思った。熱でだるいし気持ち悪いのは続いているが、この病気のおかげでデュレイスに抱かれずにすむ。もっとも抱かれたとしても、妊娠しているのだから加減はしてくれるだろうが、それでもデュレイスの自分への執着は異常なのですぐには終わってくれないに決まっている。

 この先、いつジュリアスの子供が突然出てくるかわからない。ジュリアスは神との子供は突然生まれると言っていた。人間の子供のようにはいかないとわかっているだけにひやひやものだと思う一方で、それなら早くそうなってしまえばいいと思ってしまう自分も居る。投げやりになってはいけないと戒めても、耐えるのが辛くなってきた万梨亜はついそんな思考に陥ってしまうのだった。

「困ります! 陛下の許可はおりておりません!」

 扉の向こう側でシャンテの鋭い声が聞こえた。配置されている近衛兵達がシャンテに加勢しているようで、なにやら騒々しい。魔法の気配がして、これはいけないと万梨亜は熱でふらふらしながらも起き上がった。魔力の石が小さいながらも青く光って反応している……。

「王妃自らが見舞いに来て、何が悪いというのじゃ」

 やはり現れたのはヘレネーだった。押しのけられたシャンテがヘレネーの侍女二人に腕を捕まえられながら叫んだ。

「この事は陛下にすぐに申し上げますぞ! 貴女様がこちらに入るのは禁じられているのです」

「……そなたが言わねばよい。言うと言うのなら、そなたの家族はどうなるであろうのう? わらわの術の効きが早いか陛下へ伝わるのが早いか試してみるかえ?」

 くやしそうにシャンテが唇を噛んだ。扉の外で近衛兵が倒れているのが見えた。しかし扉はすぐにヘレネーの侍女達が閉めてしまい、万梨亜は熱に浮かされた身体でヘレネーと対峙する羽目になった。ヘレネーは黒の花模様が彫られている扇を広げ、ゆっくりと仰ぎながら寝台で起き上がっている万梨亜を見下ろした。

「病気と聞いていたが、具合はいかがじゃ」

「貴女の知った事ではないでしょう。デュレイス様がいらしたら事よ、早くお戻りなさい」

 ぴくりとヘレネーの眉があがった。対等に口を聞く万梨亜の態度が癇に障ったらしい。

「側妃の分際で、わらわに対してなんという口の聞きようじゃ。デュレイス様の寵が衰えたらそなたなど乞食にも劣る存在になるのじゃぞ」

「私はデュレイスを愛していないわ。早く飽きてくれればいいと思ってるの」

「ほうほう、なんとも生意気な考え方じゃ。そして最愛のジュリアスが迎えに来てくれればと思っているのであろうなあ……」

 多分に何かを言外に匂わせているヘレネーの物言いに、万梨亜は嫌な予感がした。扇をぱちりと閉じたヘレネーがふふっと笑い、不安げな万梨亜にさらに近づいて扇を鼻先に突きつけた。万梨亜は熱のせいなのか敵である女に対しての矜持のせいなのか、ヘレネーを睨んだまま動けなかった。

「そなたが頼りにしているジュリアスは、もう永遠に逢う事は叶わぬぞ」

「…………」

「何故ならわらわが、ジュリアスの石を砕いて異次元の川に流したからのう」

「!」

 目を見開く万梨亜に、ヘレネーの容赦ない言葉の刃が突き刺さった。

「もう一人のソロンはジュリアスの分身であっても本人ではない。そしてわらわの使い魔のような存在となった」

「嘘よ!」

 いきなりヘレネーが万梨亜にかけられている上掛けを乱暴に取っ払い、同時に騒ぎを聞きつけたデュレイスが部屋に入ってきた。傍目にはヘレネーが万梨亜をいたぶっているようにしか見えない。果たしてデュレイスは激昂した。

「ヘレネー! ここには参るなと言ったはずだが」

「まあ早いお着きで。シャンテ以外にも飼いならしている者がいるようですわね」

 デュレイスは、まったく王を恐れていない態度を取るヘレネーの腕を掴んで押しのけようとしたが、それより先に万梨亜のお腹を見て足を止めた。

「なんだ……それは」

 万梨亜の胸だけではなく、下腹部までもが青く光り輝いていたのだ。

「まだおわかりになりませぬのか、デュレイス様」

 ヘレネーがくすくす笑った。デュレイスはそのヘレネーを睨みつける。

「その女が宿しているのはデュレイス様の御子ではありませぬ」

「馬鹿な!」

「ほほほほ……残酷な現実でありましょう。魔力の石を持つ女は愛しい男の子供しか宿さないのです。それもその男が魔力の石を持つ女を愛してこそ成り立つもの。愛していない男の精は石の糧にしかなりませぬ」

「何が言いたい」

 ヘレネーの話にデュレイスが怒りを押し殺して言った。目線は自分のお腹を庇う万梨亜にぴたりと当てられている。ヘレネーの人差し指の長い爪が万梨亜を指差した。

「その女子が宿しているのは、死んだジュリアス王子の子供。私の言葉が信じられぬと申されるのならば、直接お聞きになればよろしいのです」

 万梨亜はデュレイスが近衛兵の一人に右手を差し出すのを、夢の中の出来事のように見た。近衛兵は驚いたようにデュレイスを見上げたが、それも一瞬で、ささげ持っていたデュレイスの愛用の剣を差し出した。デュレイスは鞘から剣を抜き、万梨亜の元へゆっくりと歩いてくる。万梨亜はやはり動けなかった。今度はデュレイスの殺気があまりに強くて動けない。

「万梨亜」

 万梨亜はこんなに恐ろしい目をしたデュレイスを初めて見た。目の前に立っているのは優しい王子だったデュレイスでもなく、自分を渇望するデュレイスでもなく、大国の王としてのデュレイスだった。

「お前はジュリアスの子を孕んでおるのか? その様子だとわかっていたような感じだな。ずっと黙っていたのは何故だ?」

 剣の切っ先が首筋に当てられてわずかに血が流れた。万梨亜の魔力はデュレイスとヘレネーの前に押されている。ここはまさしく敵の真っ只中であり、だれも万梨亜を庇う人間など存在しないのだ。デュレイスの目は怒りに染まっていて、万梨亜を殺すのに何の躊躇もないように見えた。

「何故私を愛さない。ジュリアスは嫌がるお前を無理矢理犯した敵なのだぞ。そしてもうこの世にもあの世にも居ない。ヘレネーが異次元空間に封印したのだからな」

 万梨亜はお腹に当てる手に力を込めた。

「いいえ、ジュリアスは生きています」

「それはあのソロンであろうが」

「いいえ、ソロンではありません」

 汗が滲む。万梨亜はふらつく頭に叱咤して、デュレイスに負けないように顔を上げ続ける。デュレイスの顔はジュリアスへの嫉妬と怒りに満ちていた。

「なぜそこまでジュリアスに尽くすのだ。あれはお前の魔力の石が欲しいだけなのだぞ!」

 万梨亜は即座に否定した。

「それは貴方です。貴方は何故、ヘレネーが一心に貴方を想っているのに振り返らないのです? どうして彼女の愛情を利用するのですか!」

「ヘレネーは私を愛してなどいない。王族では当たり前の事だ。利害の一致で関係を結ぶのは当然だ」

 万梨亜の目の端に、表情が凍り付いていくヘレネーが映った。

「ジュリアスは違います。あの方にとって魔力の石など二の次、魔力の石が欲しいからあの方は私を奪ったのではないのです、私を愛しているから奪ったのです!」

「……これ程言ってもわからぬのか…………、万梨亜!」

 デュレイスが剣を振りかぶった。ああ、自分はここで死ぬと万梨亜は思った。衝撃と共に生暖かいものが降りかかり、そのまま寝台に倒れていく。

(え?)

 血の臭いは確かにあるのに、痛みが無い。万梨亜は誰かが身を投げ出して自分の上に倒れてくるのを受け止めた。見覚えのある金髪に美しい顔はマリアだった。一体いつから居たのかわからないが、マリアは背中を袈裟懸けに斬られていて、そこから血が吹き出して侍女服を赤く染めている。

web拍手 by FC2