ディフィールの銀の鏡 第67話

「マリア!」

「おのれ……役立たずが邪魔をしおって」

 デュレイスがマリアの侍女服の襟首を掴んで引き剥がそうとしたが、マリアは万梨亜の身体にしがみついて離れなかった。腹を立てたデュレイスがさらにマリアを斬った。マリアの痛みが万梨亜にも伝わり、万梨亜はマリアの身体を離そうとした。それなのにマリアは頑として動かない。万梨亜の盾になるつもりなのだ。

「離れてマリア! 死んでしまうわっ」

「……いいの」

 背中を何回も斬られて動けないはずなのに、マリアは信じられない力で万梨亜を寝台から引き摺り下ろし、移動した。血が床に広がっていくのが恐ろしい。そしてその血を流しているのは自分を憎んでいたはずのマリアなのだ……。

「私が嫌いなのに……どうして?」

「馬鹿ね、嫌い……だからよ。あんたなんかのために、私は……嫌な女になったんだ……から。悪人の、ま、ま、死にたく……ない」

「だからって陛下はどうなるの。まだ幽閉されておいでなのよ。マリアが死んだりしたら悲しまれるのよ!」

 マリアは万梨亜に抱きついたままかすかに笑った。顔はもう土気色だ。

「新しい……王妃が、慰めてくれるわ。私を誰も……愛したりなんか……しない」

「そんなはず無い。絶対陛下はマリアが好きよ! 私も好きよ! ……だから!」

 マリアの両手が万梨亜の肩を掴んだ。その顔は悲しさにゆがみ、涙が零れていた。

「私は、あんたなんか、……嫌いっ!!!」

 唐突に突き飛ばされた万梨亜はそのまま床に転んだ。

「またしても……」

 デュレイスのうめくような声が聞こえ、見るとデュレイスの剣がマリアの胸を背後から貫いていた。

「マリア!」

 今度はマリアは弱弱しく笑った。

「……嫌いなのよ」

 剣が抜かれ、マリアは口から血をごぼごぼと零しながら前のめりに倒れた。親友に駆け寄りたい万梨亜の前に、血塗られた剣を持ったデュレイスが立ちはだかる。マリアの血がボトボトと落ちている切っ先が、先程と同じように突きつけられた。

「デュレイス……」

「言え、私を愛していると。ジュリアスはもういない。腹の子供は生まれたらすぐに殺す」

「…………」

「万梨亜!」

 マリアはもう動かない。マリアは自分を庇って死んでしまったのだ。おそらく離宮でのあの行動は嘘で、万梨亜を護るために侍女になったのだろう。いつからマリアはそんな決心をしていたのだろう。自分を憎んでいたはずなのにどうしてそんな悲しい道を選んだのかわからない。マリアはマリアらしく花に囲まれて幸せに笑っていれば良かったのに。こんなマリアを万梨亜は望んでいなかった。

 マリアをこんな目に遭わせたのは自分だ。自分がルキフェルの言葉に乗らなければ、マリアは元の世界で純一郎と結婚して幸せに暮らせていたはずなのだから。たとえマリアが万梨亜をいじめたとしても、万梨亜はマリアが好きだ。愚か者だと笑われても好きなのだ。美しくて優しいマリアは確かに存在していた────。

 倒れたままのマリアに、万梨亜は深く頭を下げた。

 しんと部屋は静まり返っていた。ヘレネーもシャンテも近衛兵も、万梨亜とデュレイスに注目している。シャンテが縋りつくように万梨亜を見ているのは、自分の主人の身を案じているからだろう。近衛兵達はここまで女に対して怒りをあらわにするデュレイスを見たのは初めてなので、固唾を飲んで行方を見ているだけだ。ヘレネーは先ほどから表情を凍りつかせたままで、侍女達は複雑そうにしている。

 万梨亜はゆらりと立ち上がった。熱はあいかわらずだが、身体の中心を違う熱がぐつぐつと煮えたぎっている。その熱の力が万梨亜を立ち上がらせたのだ。デュレイスの剣の先が万梨亜の鼻先に再び当てられた。

 わずかの脅えも見せず、万梨亜はデュレイスの漆黒の瞳を見つめ返した。

「私を殺しなさい。私はジュリアスしか一生愛さないのですから」

「万梨亜─────っ!」

 頑として望む言葉を言わない万梨亜に、デュレイスの怒りが完全に爆発した。愛しているはずの女を斬り殺そうと剣を大きく振りかぶり、戦場で敵を屠る時と同じ力で振り下ろした。

「!」

 万梨亜の目の前に、青みがかった銀色の髪が広がった。それは音も無く現われてデュレイスの剣を止め、万梨亜を護るように立ちはだかる。デュレイスが驚きのあまり後ずさった。表情を固く凍りつかせていたヘレネーも、突然現れたその人間に驚愕する。

「馬鹿な。わらわが砂にして異次元に葬り去ったはず……」

 万梨亜の前に現れたのは一人だけではなかった。

「残念ながら、みーんなこの世にいるんだよ魔女さん」

「お前達どうして」

 黒馬のニケがにかっと笑った。

「あーあ王妃さん斬られちゃって。ああ、致命傷にならないようにしてある。さぁーすが残忍なケニオン国王。彼女を取引に使って万梨亜様をこれから先も操ろうとしたのかなー」

 ニケは倒れているマリアの怪我を検分し、治し始めた。そのニケの黒髪をひっつかんで後ろに下がらせたのは、仏頂面のテーレマコスだ。彼の腕には淫魔のルシカがしがみついてうっとりとしている。

「馬鹿者、馬は後ろに下がっていろ」

「んだよー。テーレマコスこそ女にモテモテだとでも言いたいわけ? なんで素直に治癒中は無防備で危ないから後ろにいけと言えないのかねえ」

「黙らんか!」

 万梨亜はデュレイス達以上に呆然として、しばらく声が詰まり言葉が出なかった。何ヶ月ぶりだろうこの優しい人達の声を聞くのは。

「ニケ、テーレマコス、ルシカ……」

「余の名前は呼んではくれぬのか?」

 振り向いて微笑んだジュリアスに、万梨亜はいきなり呪縛が解かれたように全力でしがみついた。

「ジュリアス……!」

 ジュリアスが万梨亜の身体をきつく抱きしめ返してくれた。夢でも偽物でもない、これは現実で本物のジュリアスなのだ。この長い間、どんなにこの人のこの声と温かさを望んだだろう。恨みつらみをたっぷり用意していたというのに、いざ本人が現れると喜びや愛しさの方が勝り、そんな感情は綺麗に流されて消えてしまった。

 泣き続ける万梨亜の頭を、優しいジュリアスの手が何度も撫でた。

「遅くなってすまなかった」

 青い光が輝きを増していく……。

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