ディフィールの銀の鏡 第74話
最近の魔界はいまだかつて無い程、気がざわついている。もともと落ち着いているとは言いがたい世界なのに、数多くいる魔族達の私利私欲が地上の混乱と同調して高まって渦を巻き、それを魔王ルキフェルが己の魔力でさらに増幅させているからだ。ルキフェルは、魔力の石を持つ万梨亜がジュリアスの傍へ戻った時から長い瞑想に入っている。誰も寄せ付けず、何も食べず、魔王の城の奥まったところにある自分の部屋の中で、じっと目を閉じて魔力を蓄え、来るべき時を待っている。
ある日ルキフェルは、自ら張った結界が外部から歪められるのを感じ、静かに漆黒の目を開いた。歪みは攻撃的なものではないものの、天上界へ向けて開けられていた空間を閉じてしまうものだった。ルキフェルに並ぶ魔力を持つ者はそうは居らず、居たとしても彼に手出しをする事はないので、新しく生まれた神のいたずらかと思われた。それはその通りで、瞑想の中にソロンと揉みあうカリストが浮かんだ。空間を閉じるほどの魔力を発したのは、この生まれ変わったソロンのようだ。
『離せ、私は貴女みたいな女が一番嫌いだ!』
『おだまり。私を拒絶するなんて生意気よ。さあ一緒に魔界に来るのよ』
『嫌だ、絶対に行くものか!』
ソロンの拒絶は凄まじく、無意識にカリストの望みを絶つ方向へ魔力が発動したらしい。生まれたばかりの神は魔力を無意識に使う事が多い。
「時は近いな」
ルキフェルは一人呟き、再び目を閉じた。
ソロンの服の刺繍をしていた万梨亜は、怒りながら帰ってきたソロンを訝しんだ。主神テイロンに会いに行った筈なのに怒っているのは、また会ってもらえなかったのだろうか。
「おかえりなさいソロン。……どうしたの?」
「ああ母上! 聞いてください。変な女神が私を魔界へ引きずり込もうとしたのです」
「……テイロン様には会えたのね?」
「せっかく会えたのに、あの変な女神をそれを邪魔した」
椅子に座ったまま、万梨亜は抱きついてくるソロンを抱きしめた。テイロンに会えたのかとほっとする一方で、魔界へ引きずり込まれかけたとは穏やかではないと思う。万梨亜が窓辺で本を読んでいるジュリアスを見ると、ジュリアスも難しい顔をしていた。
「変な女神って誰?」
「カリストです。あの人は父上が好きなんじゃなかったのですか?」
「……そのはずだけれど」
苦手な恋愛分野なので、万梨亜は頭が痛くなってきた。同時に女神への嫉妬が生まれていらいらまで加わり、深いため息が出てしまう。ジュリアスがそんな万梨亜を宥めた。
「カリストが本当に好きなのは主神テイロンだ。あれの面影を持っている神にばかり、カリストは言い寄っている」
「テイロン様と私は全然似ていません。私は父上やペネロペイア様に似ていると思いますが」
恋愛というものに関してはまっさらなソロンに、ジュリアスは穏やかに笑った。
「雰囲気や眼差しの強さ、何気ない仕草が遺伝しているのであろうよ」
「私はテイロン様ほど女好きではありませんし、柔らかい考え方もできません」
「……うむ、そうだろうな。お前は万梨亜に性格が似ている部分もあるし……」
「母上に!」
不機嫌に歪んでいたソロンの顔が、たちまち明るくなった。
「それならばうれしいです。私は母上のようになりたいです」
しがみつくように抱きついてくる大きな息子が重い。母の自覚がほとんどないまま大きな息子が生まれたものだから、万梨亜はソロンの扱いに戸惑ってしまう。慕ってくれるのはうれしい。しかし……。
「……ソロン。母にはそなたは重かろうからいい加減に離れよ」
案の定、今度はジュリアスが不機嫌になった。万梨亜は離れなさいとソロンの背中を優しく叩いた。顔の横でくすくす笑っているソロンはわざとやっているのだろう。自分は絶対にこんなにいい性格をしていないと万梨亜は思う。何も知らないふりをして腹の中で何を考えているのかわからないこの性格は、一体誰に似たのだろう。子供は子供で別人格で当たり前とわかっていても何かスッキリしない。
「母上はいい匂いがするから好きです」
すりすりしてくる息子に、万梨亜は一つの餌を投げた。
「さっき、貴方がもうすぐ帰ってくるからと思って、お菓子を焼いていたのよ。ちょうどいいからお茶にしましょう。ニケを呼んできて頂戴」
「もう少しこうしていたいな。いいでしょう?」
「いい大人が親にいつまでも抱きついているものではないわ。恋人ができませんよ。さすがにこの世界でも、母を異様に慕う大人……貴方はまだ子供だけど、よく思われないみたいですからね」
「もう……」
膨れながらソロンは離れ、ジュリアスに振り返った。
「子供に嫉妬する父親ってのもよく思われませんよね?」
「知らぬ」
ジュリアスは素っ気無くかわして読んでいた本に目を落とす。ソロンは自分の煽りが失敗したのがわかっても、舌をぺろりと出しただけで、ニケを呼んでくると言って外に駆け出していった。どうも調子が狂う息子だ。万梨亜は厨房へ入り、ホコリ避けの籠を被せて置いた焼き菓子をトレイに載せた。ジュリアスも読書を止めて厨房へ入ってきて、茶葉の入った筒を何本か出して調合を始める。
「……あれはそなたに大分性格が似ているが、一方でテイロンにも似ているな」
「そうなのですか?」
ジュリアスは悲しそうに目を揺らめかせた。
「そうでないと困る。あれは次の主神になるのだから」
今、この人はなんと言った? 万梨亜は運ぼうとしていたトレイを、また木のテーブルに置いた。
「どういう事です? ジュリアスが次の主神なのでしょう?」
「……テイロンが勝手に決めていた事だ。余にはもう資格がない。厳密に言うとそなたを愛した瞬間からその資格は消えうせていたのだ。それでも一応抗ったのだが……やはり宇宙は理を乱す者を認めないらしい」
「意味がわかりません」
茶道具に調合した茶葉を入れ、ジュリアスは静かに蓋を閉めた。
「もともとなる気はなかったのだが、それでも余のほかに代わりが居ないのなら仕方がないと思っていた。リーオに行くそなたが天界へ連れ去られるのがわかっていた余は、そなたに神としての命を分け与えた。それが余の子供となる土台だ。さすがに人間は神の子を孕めぬゆえ、一時的に人間ではなくなる」
「それで?」
「あの当時、そなたは一時的に人間ではなく神になっていた。だから天界へ入れた、人間として生まれながら……」
茶葉の筒を元の棚に戻したジュリアスは、魔法で釜戸へ火をつけ湯を沸かし始めた。
「神とは不老不死を意味する。しかし、ソロンを生み出す時に余もそなたも神の命を出し切ってしまった」
「神の……命」
万梨亜は釜戸の火を見ているジュリアスの後姿を見つめた。いつもと変わりがないジュリアスなのに、その後姿には神々にはない儚さが漂っている。
「そうだ」
決心したようにジュリアスが振り向き、午後の陽射しがジュリアスの長い髪を煌かせた。
「余もそなたも……次の主神を生み出すために、ただの人間になった」
衝撃が再び万梨亜の中に走った。なんと言えばいいのかわからず、万梨亜はうつむく。悩んでいる間にも、沸いた湯をジュリアスが茶器へ静かに注いでいく。こぽこぽと音を立てながら注がれていく湯の音は平和そのもので、こういう時間が万梨亜は一番好きだった。
不老不死を人類の夢だと言っていた元の世界では、古代から多くの権力者がそれを望み、破天荒な薬を飲んで死んだり、もしくはその効きもしない薬を奪うために戦争を繰り返してきた。永遠に若く死なない命がそれほど尊いとは万梨亜には思えない。特に不死という部分についてはいらないと断言できる。長生きをするのは親しい人の死を何度も見るという事だ。永遠に会えないという、悲しく切ない現実の壁に何度もぶち当たって傷つき涙する事だ。親しい人の死を見送り続ける生など決して欲しくはない。
動かない万梨亜にジュリアスが言った。
「茶が冷める。ソロンがもうすぐニケを連れて戻ってくるだろうから……」
「真実の眼には視えていたのですか? こうなる事がすべて」
万梨亜はジュリアスの言葉を途中で遮った。ジュリアスは首を横に振る。
「わざと視なかった」
ジュリアスは棚からもう一つトレイを取り出して、茶器やカップをその上に置いていく。万梨亜はその流れるような手さばきを見ながら、ジュリアスにもやはり弱さというものが存在している事に気付いた。
「卑怯だとなじるか? 人目にはソロンにすべてなすりつけたように見えような」
「そう思いたい人には思わせておけばよろしいのです。私は人の望みがすべて叶うわけではないのを知っております」
「視ようと思えば視れた」
投げやり気味に言うジュリアスは、いつもの冷静さをおおいに欠いて見えた。ジュリアスが以前から主神になるのを嫌がっていたのを万梨亜はよく知っている。そしてその責任の重さを熟知しているだけに、それを子供に押し付けたように、今思っている事も。ソロンは生まれ変わる前から主神になりたがっていたのだから、そんなふうに自分を責める必要はないのにとは言えない。今のソロンと前のソロンは全く別物で、ひょっとすると前のソロンはジュリアスへの対抗心で言っていただけなのかもしれない。
万梨亜はうつむいているジュリアスの背中から手を回し、長い銀髪に右頬を押し付けた。
「……見れたとしても、その未来は結局変えられなかったのでしょう? ならば、罪悪感をお持ちになる必要はございません。ジュリアスはご自分で出来る事をされただけです。愛し合っていれば私も子供を欲しがったでしょうし、いずれ来る未来だったのでしょう」
「変えられるものもある。余は卑怯だ。万梨亜を神にすれば、将来そなたが年を取っていなくなるという悲しみから逃れられると思った。そなたに相談もなしにだ。そして今は二人とも人間になった」
あの傲慢なジュリアスが、今では小さな子供が大人を前に言い訳をしているような口ぶりだ。かすかにジュリアスの身体は震えていた、同時に熱くなっていく。うねりあがる激情を必死に押さえつけているのだろう。
「余は万梨亜を愛している。だがそれはそなたを束縛しているだけなのかもしれないと思う時がある」
「構いません。どうぞ束縛なさいませ。そうでないと私は不安ですから」
「不安?」
「私はジュリアスに常に見ていただかないと、辛くて辛くてもとの世界に帰りたくなるのです。この数ヶ月、どれほど辛かったかわかりますか?」
「……余も辛かった」
万梨亜はくすくす笑った。そして抱きしめる腕に力を込める。ソロンが戻ってくる気配はなく、窓からは優しい午後の陽射しと鳥の明るい鳴き声が聞こえてくるだけだ。
「そなただけだ。余には万梨亜しか居ない。人間になった余でも愛してくれるか?」
思い返してみると、ディフィールに来た時からジュリアスの眼はまっすぐに万梨亜を見ていた。最初はなんて嫌な王子だと思っていた。美麗な姿をごまかして油断を誘い、あっけなく自分の純潔を奪い、あげく勝手に婚姻を結ぶ男など好きになるものかと万梨亜は反発していた。異世界では王族に求められるのは名誉だと言われる。でも万梨亜は王族だろうが普通の庶民だろうが同じだったと思う。きっとジュリアスが庶民であったとしても同じように反発しただろう。そして……。
「神様でも人間でも同じです。私にもジュリアスしか居ません。最初はデュレイス様を愛しました。でも貴方という存在を知った時から、彼はもう過去の人です」
「万梨亜」
ジュリアスが万梨亜の腕を解いて振り向き、万梨亜に熱い唇を押し付けてきた。万梨亜も無心でそれに応えてジュリアスの首に両腕を回し、身体をジュリアスに投げ出した。それは日中ではあまりしない長い口付けで、二人は飽く事無くお互いを吸って貪りあう……。
「そらね、だから今帰ってもムダだって言ったんですよ」
キッチンの窓から、ニケがジュリアスにばれないように用心深く覗き込みながら、早く帰ろうと引っ張ってきたソロンに言った。何の返答もないソロンを不思議に思い見下ろしたニケは、顔を真っ赤にして三角座りしている次期主神を見て、まだ生まれたばかりだから子供のようなもんだものなと妙に納得した。
「……私にもあのように思える娘が居るだろうか」
ソロンは、やっぱりジュリアスにも似ている。大部分は万梨亜やテイロンのような感じだったが。ニケはソロンの頭のてっぺんを拳でぐりぐりしながら座り込んで、小さな声で囁いた。
「居るさ。居ないわけがない」
ニケは大きな鳥が飛び立っていく青空を仰いだ。平和そのものだと思いながらも、ニケの獣の耳は、ケニオンからやってくる戦乱の足音を聞きつけていた。