ディフィールの銀の鏡 第78話

 デュレイスは一週間の記憶が飛び、いきなりディフィールを侵攻している自分に目覚めて驚愕していた。ケニオンでの記憶の最後は、大臣達にヘレネーを廃妃にしろと会議で責められていた時だ。そのつもりがなかった為じっと黙って会議を終わらせようとしていたのに、いきなり今武装して戦場に立っていたのだから驚いて当然だ。しかもそれが他の者も同じだというところに、デュレイスは苦い思いを抱きながら静かに岩に腰掛けているヘレネーを振り返った。こんな事ができるのは魔女のヘレネー以外ありえない。他の国の陰謀であったら自分はとっくに殺されているし、ヘレネーがそれを許すはずがない。

「どういう事だ?」

「すべてのケニオンの人間を操れる、私の秘薬を飲んだ父のリクルグスがしでかした事です。ですが、やはり軍を扱った事のない愚か者でした。ここを侵攻したのを最後に別のほうへ興味を持ってしまったようです」

「何?」

「あれは所詮その程度の男。ディフィールより……」

 二人の背後の天幕が突然切り落とされた。狼藉振りにデュレイスは腹を立てながら振り返り、そこに居た部下達の目が怒りに燃えているのを見てぎょっとした。彼らはおそらく勘違いしている。勝手に自分達に催眠をかけて支配したのはヘレネーだと。間違っては居ないが操ったのはリクルグスだ、デュレイスはどう説明したらいいのかわからない。

「陛下、その魔女を我らにお引き渡しください」

「処刑せねばなりませぬ」

 腹心だったティイとアジャックスがヘレネーを睨みつけながら言う。デュレイスは重苦しい空気が、活火山が噴火する直前のようなものだと感じ取った。彼の返答次第ではこの場で味方の血が流れる。何故己の立場が悪くなるような事をヘレネーがしでかしたのかわからない。デュレイスは周囲を遠視し、ディフィール軍やリーオ軍が包囲しようとしているのを探った。数の上でも士気的にも遥かにケニオンが不利だった。しかも催眠状態が異様に長かったため、全員疲労困憊してとても戦える状態ではない。

「今はそのような話をしている場合ではない。皆この地を脱出する事が肝要であろう」

「いいえ、その魔女が居る限りどこへ行こうと同じ」

「何を……」

 デュレイスは言い返そうとしていきなり抜刀した。先端に青い猛毒が塗られた矢が自分をめがけて飛んできたのをはたき斬ったのだ。ティイが暗い目でデュレイスに近寄ってくる。手は帯びている剣に伸びており抜き打ちの構えだ。

「その魔女を庇われるのでしたら、陛下には退位していただきます」

「馬鹿な! そなた達」

 ティイの背後から、リーオのオプシアーが現れた。再び敵になった男が何故戦わずしてこの場に居るのか。たじろぐデュレイスにアジャックスが重々しく通告する。

「陛下に退位いただいたあと、オプシアー殿に新国王になっていただきます。それでもその魔女を庇われますか?」

「ケニオンが大国になったのはヘレネーの力のおかげでもあるのだぞ!」

「確かにそうです。ですが、魔王の妹を国の中枢においてはケニオンに安寧はありませぬ。反逆の芽になりそうなものは悉く排除いただきたい」

「黙れ!」

 叫んだデュレイスだったが、誰も彼の味方になろうとはしていなかった。それほど人間界では魔族は嫌われている。神との相の子の魔族は許されても、嫌われている人間との相の子の魔族は憎しみの対象にしかなりえない。ヘレネーとその父リクルグス将軍の横暴ぶりは有名だ、彼らのせいでケニオンの名は地に堕ちている。元凶を排除しようとするのは当たり前だった。ヘレネーは何も言わず、じっと岩に腰掛けたままデュレイスを見ている。口元に笑みすら浮かべる彼女は死を恐れていない様だ。彼女はあきらかにこの状況を楽しんでいるのだ。それを見てますます兵達が憎しみを掻き立てられると言うのに。

 どうにもならないと悟ったデュレイスは、小さく詠唱し光を爆発させた。皆が目をかばったところをヘレネーを抱えて空へ大きく跳躍する、無論そのようなものはすぐに破られ、さまざまな魔法が二人に向かって飛んできた。悉くそれを打ち返し、デュレイスはケニオンの兵が居ない枯れた草原へ着地する。同じように飛んできたオプシアーが背後からデュレイスに斬りかかり、鋭い金属音を立ててデュレイスはその剣を弾き返した。

「何故裏切る、オプシアーっ!」

「……貴方にはわからないでしょう? 王家の血を引きながら奴隷として扱われたこの屈辱が」

 オプシアーの魔法による氷の刃が二人に襲い掛かる。疲れきっているデュレイスの防御壁は完璧なものではなく、すぐに勢いのある氷の刃が壁を砕き、二人を傷つけていく。

「その女の助けでリーオ国王になる男に囲われた時、チャンスだと思ったのですよ……、ケニオンの国王になる……ね。その女が魔王の妹だという噂をディフィール以上に広めたのはこの私です。ふふふ、素晴らしい効き目でしたね、あっという間にケニオンは恐れられる国から忌み嫌われる国に成り下がった」

 暗い瞳がデュレイスを嘲笑する。最初からオプシアーはこのつもりだったのだろう。デュレイスを徹底的にやり込めて自分をケニオンの民に支持させるために、オプシアーはリーオをわざと裏切りヘレネーに操られていると見せかけた。そして今リーオの国王に再び仕え、ヘレネーのあくどさを際立たせている。

「私の手で滅んでください、デュレイス!」

「させるか!」

 ヘレネーが炎の洪水を呼び起こし、オプシアーの氷の刃を弾き飛ばした。最後の力を振り絞って魔界からドラゴンを呼び、デュレイスを乗せて自らも乗る。

「おのれ……!」

 オプシアーの投げた槍はドラゴンの硬いうろこには刺さらない。ドラゴンを呼び出せるのは世界に数人しか居ない上級の魔術師か、魔力の石を持つ女だけだ。ドラゴンは吹きすさぶ風より速く北東へ飛び去り、吹雪の幕の中へ姿を消した。追いついてきたティイ達が見つけたのは、悔しそうに歯軋りするオプシアーの姿だけだった。

「二人はケニオンの方角へ逃げた。ディフィールにもそう伝えろ。今からすぐにケニオンへ向かう」

 オプシアーの馬が連れてこられ、リーオとケニオンの軍が合流する。ヘレネーもジュリアスも気付いていなかった。ケニオンが傾き始める前から、デュレイスの側近が彼を裏切ってオプシアーと接触していた事を。ジュリアスが未来をくまなく視ていたら気付いたのだろうが、彼はその様な未来視をよしとしていなかった為、その裏切りを見落としていた。

 ドラゴンは物凄い勢いで雪の中を飛ぶ。二人の顔に雪のつぶてが容赦なく叩きつけられ痛いほどだ。

「デュレイス様、どこへ行かれるおつもりですか?」

「……ひとまず王宮へ戻る」

「おそらくは反国王派に占拠されているか、民衆達の暴動で破壊されているかどちらかではないかと」

「成る程、戻る場所がないという事……か」

 

 自嘲するデュレイスの脳裏に、国王の座などいらぬと言い放ったジュリアスの冷たい双眸が蘇った。あの男に関わると悉くが崩れ去っていく。万梨亜したり、ケニオンしたり。ケニオンとの国境付近には兵達はいない。皆ファレに向かっているようだ。ふと、前方からまがまがしい赤い光が彗星のようにこちらへ向かってくるのが見えた。魔王ルキフェルだとすぐに察しがついた。ドラゴンは魔王の前で飛ぶのを止め、空中で停止した。

「ケニオンの王よ。生きながらえていたか?」

「ああ」

「これからどこへ行く? ケニオンの王宮は民衆らの手によって炎に包まれている。リクルグスは生きながら身体を引き裂かれている最中だ。お前を庇う人間は誰も居らぬぞ、ヘレネーを庇っている限りはな」

「正妃を捨てろと?」

「もう使い道がない女だ。魔力の石を持っているというだけで結婚したお前だ。さっさと捨てて有利な道を選ぶのが王と言うものだろう?」

 彼らの間を雪がひっきりなしに降り続け、その身体に降り積もろうとしているが、強い風がそれを吹き飛ばしていく。デュレイスのマントはとうの昔に引きちぎられてなくなっており、よく見ると剣もぼろぼろだった。ファレしか侵攻していないのに、一体どういう戦い方をしたのかとデュレイスは思う。

 ドラゴンが高度を下げ、三人は誰もいない山林の中へ降り立った。葉をすべて落とした落葉樹が猛吹雪に揺れている。

「ケニオンの王よ。お前がヘレネーを殺せば力を貸してやるが、どうだ?」

 恐ろしい提案に、デュレイスはぎょっとしてヘレネーを振り返った。しかしヘレネーは予期していたかのように固い笑みを浮かべている。一体この魔族達は何を考えているのかと、デュレイスは再びルキフェルに向き直った。ルキフェルの赤い瞳は不吉に輝いている。

「今すぐ決めろ、ケニオンの王。お前は世界の覇者になりたいのであろう? だからヘレネーを后にしたのであろうが! 世界が欲しいが為に万梨亜を欲し、ディフィールに固執したのではなかったか!」

 甘美なルキフェルの言葉だった。魅惑に満ちた魔の囁きにデュレイスの身体中の血が沸騰し、雪がデュレイスの頬に当たった瞬間に水となって滴り落ちていく。ヘレネーは何も言わず、ルキフェルも何も言わなかった。時間はとても長いように感じられたが、やはりそれはほんの数分だった。

「もう、世界に興味はない」

 

 砂で作った山がわずかな振動で崩れ去るような口ぶりで、デュレイスは魔王の申し出を断った。デュレイスは自分の命運が尽きたのを、ジュリアスが万梨亜を奪還した時に悟っていた。背後のヘレネーの黒い瞳が一気に赤く燃え上がった。

「……っ!」

 デュレイスはもうケニオンの王ではなかった。ヘレネーがそうであるように、デュレイスにもこの時がいずれくるとわかっていたのだろう。心臓を背後から一直線に貫いた剣の先には、デュレイスの血が赤く滴っている。背後からヘレネーがさらに剣を押し込めてきたため、さらに剣は血塗られていく。

「満足か、魔王よ」

 赤い血を唇の端から流しながらデュレイスが言うと、ルキフェルは鼻で笑った。

「つまらぬ男よ。お前ごときではあのジュリアスに勝てるわけがない」

「……ふ、そうだな。私は……あの男ほど悪くはなれない」

 ヘレネーが剣を抜き、大量の血が胸と背中から噴出して辺りの雪が真っ赤に染まった。デュレイスは仰向けに倒れ、そのそばにヘレネーが跪く。愛しさの限りを尽くしてデュレイスの頬を撫でるヘレネーに、ルキフェルが言った。

「ヘレネー、お前の望みはなんだった?」

「兄上には……一生わからぬ。早く……行きやれ」

「……お前もつまらぬ女だったようだな」

 ルキフェルの姿が再び空高く舞い上がり、瞬く間に西へ姿を消した。ヘレネーはこの世で最後の呪文をデュレイスにかけようとした。しかし、その口をデュレイスが震える手で塞いだ。

「私がお前に呪いを……かけてやろう。未来永劫……何度生まれ変わろうとも、私から……、離れられぬ……呪いを」

 一瞬でヘレネーの瞳から赤い光が消え、黒い瞳が驚きに満ちた。デュレイスは禁呪と言われているそれを唱え終わると、虫の息で呟いた。

「初めて出会った時から、お前は私に……?」

 覚えていてくれたのかとヘレネーはデュレイスに縋りついた。だが何も言わない。言わない事が答えなのだ。小さくデュレイスが笑った。

「……そうか。私は……おろか、だったな。今頃、わか……とはな」

「デュレイス……」

 自分と一緒に世界を滅ぼすなどこの優しい男に出来るはずがない。ヘレネーを廃妃にしない意思を変えないデュレイスの態度で、ヘレネーはわかりたくもないのにわかってしまった。デュレイスは死にたかったのだ、万梨亜を失った時からずっと。

「次、生ま、れ変わったら……お前、だけを……。…………」

 デュレイスの指が震えながら動いてヘレネーの頬に触れ、大きな手が力なく彼女の身体を抱きしめる。動かなくなったデュレイスにヘレネーは詫びた。自分が必ずこの男を覇王にしようと思っていたのに。

 ヘレネーはデュレイス顔に自分の顔を摺り寄せて、黙って熱い涙を流し続ける。そして血塗れている大きな手ごと死んだデュレイスに縋りつく。この手が全てだった。この手が自分を絶望の淵から助けてくれた。

 まだ幼い頃、父親のリクルグスに虐待されるのが辛くて、蛇に変身して王宮近くの森の木陰で潜んでいるところを、少年のデュレイスが見つけて温かな掌で包んでくれた。普通の蛇は人を嫌がるのに、大人しくしている彼女をデュレイスはうれしがって、じっと撫でて優しく話しかけてくれた。ヘレネーの中で彼が唯一の男になるのに左程時間は掛からなかった。

 必ずこの人の妻になって、立派な王になるように支えてあげよう。

 それからのヘレネーは父親の慰み者だけではなくなった。魔法を勉強し、戦い方を兄から学んだ。デュレイスは沢山居る王子の中で埋もれがちだったが、自分の魔力があれば必ず王に出来る。己のすべてを磨き上げて捧げよう。

「……貴方は、次の世でもわらわのものじゃ」

 ヘレネーは起き上がると、己の胸に呑んでいた黄金の短剣を抜き、わずかの躊躇いもなく己の首筋を掻き切った。そして再びデュレイスに上から抱きつく。デュレイスの身体はもう冷え始めていた。死に顔は穏やかで微笑んでいる。ヘレネーはそのデュレイスの唇に己の唇を重ねた。血潮が二人を濡らしていく。幸せだ……と、ヘレネーは思った。何の悔いもない。自分の隣にデュレイスが居る、それだけで満足だ。こんな幸せな死に方があるだろうか。

 やがてヘレネーの肉体が消え、赤い石だけになった。それはもう光輝く事はなく、降り積もる雪にデュレイスと共に埋もれて消えていく。オプシアー達が二人を発見するのは何ヶ月も後で、春の花々が咲き誇る季節に移り変わってからだった。

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