ディフィールの銀の鏡 第85話(完結)

 万梨亜の身体から青い光が放射され、ルキフェルの魔力が弾かれた。青い炎になった光は水の膜すらも突き抜け辺り一面に広がる。ルキフェルの赤い炎は青い炎にのまれて消え去り、赤かった視界はすべて青く変わっていった。

「何!?」

 ルキフェルはジュリアスを放り出し、万梨亜に向かって衝撃波を放つ。衝撃波は万梨亜に向かっていったが、青い炎と同化して消えた。目を閉じたまま立ち上がった万梨亜が、ゆっくりとルキフェルへ目を開いていく。その瞳には先ほどのような悲壮さや弱弱しさは欠片もない。ルキフェルが作り出したいかなる攻撃も青い光は吸い込み、何の意味もなさない。

「どういう事だこれはっ。どうやって我の封印を打ち破った? 魔力は我の方が勝っているはずなのに」

 分厚い黒い雲に覆われていた空に今度は青い光の柱が立ち、同色の稲妻がその雲を引き裂いた。眩しい太陽の光が雲の切れ間から行く筋も放たれ、空を隠していた雲が消え、みるみる青空へ変わっていく。

「おのれ、小娘が!」

 剣を抜いたルキフェルは万梨亜に振りかぶった。

「斬れぬ!?」

 簡単に殺傷できるはずのそれは、ルキフェルの剣を受けてもすり抜けてしまう。弾き返さない相手では力を込める事もできない。ルキフェルは何度も何度も万梨亜を斬ったが同じだった。まるで万梨亜の身体の斬られている部分だけが霧になったかのようだ。しかし彼女の身体は確かに存在し、地面には太陽の影が落ちている。その万梨亜がルキフェルに向かって一歩踏み出した。

「…………っ」

 ルキフェルは思わず後ずさり、その先にジュリアスが倒れていた為に無様に尻餅をついた。ジュリアスに気付いたルキフェルは、万梨亜の弱点である彼を利用しようと手を伸ばし、今度はジュリアスから突然出現した赤い炎にその手を弾かれた。

「赤……。何故、このジュリアスが……魔族の……」

 びりびりとする手を押さえながら、ルキフェルは信じられないものを見る目でジュリアスを見下ろす。その視界に万梨亜の白い手が映った。万梨亜の手から生じる青い炎は優しい光に変わり、ジュリアスの赤い炎を優しく撫でた。常人なら何度も死んでいるはずの魔力の炎の海の中で、ジュリアスに屈み込み身体を撫でる万梨亜は微笑みすら浮かべている。それはルキフェルの遠い記憶にある母と同じだった。

「…………!」

 思い出すな! とルキフェルは首を振る。思い出したら負けだ。憎悪の力ですべてを滅さねばならない。しかし首を振れば振るほど狂気に満ちた母が消え、遠い昔の優しい母と父が蘇ってくる。二人は優しい笑顔でルキフェルを抱き上げて頬ずりをし、その柔らかな頬に口づける。

「うそだ、こんなものは……」

 もう空には雲ひとつない。目に染みる青が広がり、冬の太陽は優しい光を大地に降り注ぐ。荒れ狂っていた大地は静まり、海も川も水の流れを穏やかにしていき、赤い目で狂っていた人々は正気の色を取り戻した。出現していた魔物達は太陽の光でつぎつぎに消滅して消えていく……。

「うそだ、うそだ!」

 頭を抱えるルキフェルの前に、空から雪の結晶がきらきらと舞い降りてきた。それはやがて人の形になり、主神テイロンになった。テイロンは何かに耐えるように瞳を揺らしてルキフェルを見下ろし、うずくまったルキフェルに跪くと優しく抱きしめた。

「もう一人の我が子よ。出ておいで」

 テイロンの囁くような声に反応し、ジュリアスの懐からデキウスから貰った赤い石が転がり落ちた。万梨亜がどろどろの土の上に落ちそうになった石を拾い上げる前に、その赤い石は突然消えて人の形になった。

「……え?」

「長い間石で居て……辛かったろう」

 それはルキフェルと瓜二つの男だった。ただ、髪の色が黒ではなくテイロンと同じ金色だった。

「……ルキフェルが、二人?」

 万梨亜は胸から青い光を放ちながら、これではジュリアスと同じではないかと思った。その考えを読み取ったテイロンが深く頷く。

「過去の私は本当に愚かだった。ルキフェルとジュリアスが愛しかった私は、片方が殺されても片方が生き延びるようにしようとこんな愚かなまねをした。特にルキフェルは……、愛していたのに一時の感情で見捨てた。ルキフェルの赤い石は、本当は、あの森に捨てたのだ。だが、あのジュリアスの分身がそれを哀れんで己のそばに引き寄せたのあろう。親の私が出来ぬ事を皆、このジュリアスがやった。やらせてしまった」

 テイロンは、金色のルキフェルに自分の剣を差し出した。

「私を斬れ。お前達にはその権利がある。その剣のみが不老不死の私を殺められる」

「テイロン様っ!」

 万梨亜は止めようとしてその場に倒れてしまった。足元につる草の蔓があり、それが絡まったようだ。外そうとしている間に金のルキフェルが剣を鞘から抜いてしまう。テイロンはうずくまるルキフェルを再び抱きしめ、微動だにしなかった。

「……父よ」

 金のルキフェルが立ったまま、テイロンの首筋に背後から剣の刃を当てた。

「何だ」

「貴方は母を今でも愛していますか?」

「……愛していた。だが今はもう愛せない」

「正直な方だ。我の望みは輪廻の輪から外れた母を助けて欲しい。それだけだ」

「私の命はいらぬのか」

「そうしたいのはやまやまだが。それ以上に我らは貴方達に愛されたい」

「ルキフェル」

「母は我の中に居る。愛する女が出来たらそこから生まれ変わらせてやりたい」

 金のルキフェルは高貴な黄金の光を放っていた。それはテイロンが子の中で誰よりもルキフェルを愛していた事を意味している。剣を鞘に戻した金のルキフェルは、テイロンと同じようにうずくまるルキフェルの隣に膝をついた。

「お前は我。我の思いはお前の思い。ルキフェル、我の中へ入ってまいれ」

 黒のルキフェルは顔を上げた。その瞳はまだ真紅の炎が燃えている。

「黙れ。のうのうと寝ていたお前に何がわかろう。お前がこの男を殺せぬというのなら、我が殺す」

「お前は本当に愚かよの。父を斬ればお前は消え去るしかないのだぞ」

「我は生きる」

「人も神も愛がなければ生きていけない。お前が今まで生きてこれたのは憎悪という愛を燃やしていたからだ。認めろ。お前は父と母を求めておるのだ。我の中に母が居る。ずっとお前を心配している」

「黙れ!」

 叫ぶルキフェルは大きな子供のようで、ソロンを髣髴とさせ、万梨亜はこの場で我が子を抱きしめたくなった。きっと今頃は自分達を求めて寂しがっているだろう。金のルキフェルが微笑した。

「ならばこうしよう。一年我と同化して、それでも父や母が憎いならその時は思い通りにするがいい。次の主神は決まっているし、問題はあるまい。なあ……? 父よ」

「構わぬ」

「だ……そうだ。どうするルキフェル?」

 黒のルキフェルは起き上がった。そして二人を交互に睨みつける。

「馬鹿めが。我をそのように近場に置いて、いつ殺されるかわからぬぞ」

「お前になら殺されても構わぬ」

 テイロンが笑った瞬間に、黒のルキフェルが霧のように消えた。

 ジュリアスの館は相変わらずひっそりとしている。華やかで人が多い王宮に比べて、うっそうとした森の中に建っている館は人が少なく、世を捨てた王族が住んでいるのかと思わせる静けさだった。だからと言って暗い雰囲気は全くない。木々は自由に伸び、動物達は思い思いに己の領域を護りながら活動し、命の躍動に満ちている。

 その中で黒馬のニケはソロンを乗せながら闊歩していた。ソロンはうれしそうに果物のかごを左手に、右手は手綱を軽く持ち、傍目には青春真っ只中に居る青年だ。

「これ母上が好きなんだよ。元の世界の林檎っていう果物とそっくり同じなんだって」

「そうですかそうですか。そりゃようござんしたね。どうせ俺は間抜け野郎です」

「まだひねくれてたの、ニケは重傷で動けなかったんだから仕方ないだろ?」

「知るもんですか。せっかくあのルキフェルが退治されるところを見るいい機会だったのに。ルシカのアホが邪魔したせいで! 魔界の仲間に笑われちまいます!」

「父上だって同じなんだからいいじゃないか」

「ジュリアス様は戦闘の末の負傷だからいいんです!」

「……同じじゃないか。もういいよ」

 ソロンはあきれ返りながら黒馬の鬣を見下ろした。人型の時のニケがひねくれている顔が容易に想像できる。前方に見えてきた館の入り口から母の万梨亜が出てきたので、ソロンは手を振った。

「また王宮に行っていたのね。そんなに赤ちゃんに呼びかけるのは楽しいのかしら?」

 馬から降りてかごを万梨亜へ手渡しながら、ソロンはうれしそうに話した。

「王妃様の赤ちゃん、お腹の中から声かけてくるんだ。楽しくて」

「マリアが疲れない程度にしてね」

「大丈夫、王妃様も喜んでるから」

「それならいいけど……」

 万梨亜は自分に会ってくれないマリアを寂しく思うが、一方で息子には会ってくれるのを喜んでいた。国王のテセウスはルキフェルの破壊の後始末で多忙を極めており、滅多にマリアのいる棟には現れないらしい。そんな中で遊びに来てくれるソロンを貴重がっているようだ。

「あ、父上っ」

 ソロンは、同じように館から出てきたジュリアスに走って行き抱きついた。

「ただ今戻りましたっ。今日の体調は良さそうですねっ」

「うむ。そなたの癒しのおかげで治りが早い……」

 まだ至る所を包帯で巻いているジュリアスは、つい最近まで寝たきりだった。ソロンは癒しの力が上手く使えず、同様に上手く使えない万梨亜と二人で癒している。他の者を寄越そうとテセウスが言ったのだが、ジュリアスは国の民が優先だからと言ってこの二人以外からは受け付けていない。万梨亜がにこにこ笑った。

「お菓子はもうできているわ。庭のテーブルで皆で食べましょう。あら? ニケはどこにいくの?」

 黒馬のニケはソロンを降ろしてまた王宮へ戻っていく。ソロンがからかうように言った。

「我らと居るとあてられるから嫌なんですって。テーレマコスのところもあてられると思いますけど」

「まあ」

 ジュリアスがくっくと笑った。

「そなたらはにぶすぎる。あれは王妃の侍女に言い寄っておるのよ。エウレシスと取り合っている」

「まあ」

「知らなかった」

 ジュリアスの言葉に、二人とも初耳だと思いながらニケの後姿を見送った。ソロンが厨房へお菓子を取りに行っている間に、万梨亜は肩を貸してジュリアスをテーブルの椅子に座らせた。春に入り太陽が優しく、庭の花々も色とりどりに咲き誇っている。いつぞやジュリアスが皆引っこ抜いてしまったあの花も、来る秋にの為に葉を青々と伸ばしていた。

 あれから各国は荒れ果てた国土と内政の立て直しに追われた。ディフィールは王都だけは無事だったものの他は壊滅状態に近く、戦死した兵の回収や、負傷した兵や民を受け入れる施設の設置などやる事は膨大にあった。今回は主神テイロンの加護が全世界に向けて降り、自然だけはすぐに元通りに回復したので、農作物の植え付けなどに関しては不安はない。しかし魔物や人に殺された民が多く出た為、どちらにしても今年は大変そうである。至る場所で崩壊した建物の瓦礫の撤去や、新しく建てられる家々の建材を運ぶ音や石を組み立てる人々のはやし声が響いていた。

 ケニオンはやはりオプシアーが国王になり、リーオがその属国となる形になった。ディフィールはケニオンと新たに同盟を結び、なんとか戦争だけは回避できそうだ。天上界は特に変化はない。魔界は新しい魔王の座を狙う魔族達の間で再び戦乱が起きているらしいが、人間界へ影響が出ないようにテイロンが睨みを利かせている。今のところルキフェルは大人しくしているらしい。

「……本当に大丈夫なのでしょうか。そのうちまたあの魔王だった方のルキフェルが復活したりして……」

「それはあるまい。あれの本当の望みは父親に会う事だったのだからな」

「…………」

「何か聞きたいようだが」

「……この戦闘の前、ジュリアスは自分が死ぬ未来を視たのですか?」

「…………」

 万梨亜の問いに、ジュリアスが微笑した。

「視た。そばで余に寄り添うように死ぬる万梨亜も視えた。だから置いて行こうとした」

「その時は世界が崩壊して視えたのですか?」

「……視たくなくて視るのを止めた。余は自分の弱さを思い知った。そなたの未来だけは視えなかった筈だった。何故視えたのか未だにわからぬ。余は脅えた。そなたを殺したくない、それなのに現実はどんどんその暗い未来へ走っていく。どうにかしてそなただけでも救えぬかと、そればかりを模索していた」

「……それで?」

 ジュリアスに手招きされて、万梨亜はジュリアスの膝に座った。優しく口付けられた万梨亜は、ジュリアスの首に両手を回して受け入れた。周りは時々そよ風が吹く程度で驚くほど静かだった。

「わかったのは、未来は思った通りになっていくという事だった。余はそなたと生きたかった。そればかりを願った」

「それは私も同じです」

「そう、だからその想いが周りに伝染して、奇跡が起きた。デキウスが味方になり、デュレイスやヘレネーがそなたの魔力を目覚めさせた。そなたの家族を思う心が天上のテイロンさえも動かしたのだ」

「…………」

 強い力で万梨亜は抱きしめられた。幸せだと思う。そうだ、この腕の中でこれからずっと生きていくのだ。

「そなたが余を救ってくれた。そなたは本当に強くて優しい。だから最強の魔力の石が宿ったのだろう」

「いいえ。それはジュリアスが愛してくださったからですよ」

「そうであろうか」

「そうです。いつかおっしゃっていたじゃありませんか、私達は鏡に向かい合う者同士だと。どちらが欠けても奇跡は起こらないのです。思いが響きあってやっと奇跡が起きるのではありませんか?」

「ふ……」

 ジュリアスが微笑み、万梨亜も微笑み返した。そこへお菓子の皿を持ったソロンが厨房から帰ってきた。

「あーっ。庭でいちゃいちゃしないでください。衛兵が時々ぼやいてるんですからね」

「見せ付けておるのだから仕方あるまい」

「嫌なんですよ、私そっくりな父上なんです。母親を好きすぎる異常な息子とか勘違いされた困るんですよ!」

「主神になる者は堂々としておればよい」

「人事だと思ってーっ! 父上にはお菓子をあげません!」

 ソロンは舌を出して、万梨亜にだけお菓子を手渡した。するとジュリアスが魔法を使ってソロンの腕の中からお菓子の皿を奪い取る。

「親に意見するなど二十年早い」

 怒るソロンと笑うジュリアス。万梨亜はその二人を眺めながら満ち足りた思いで居た。

 すべての始まりはルキフェルで、その誘いに乗った自分を呪った事もある。本当にさまざまな災難が襲ってきた。だが今はこうして幸せだ。結局ルキフェルがした事の根底にあったものは、愛の渇望だったのだろう。今度こそあのルキフェルに見合う愛が向けられますように。そして傷ついた心が自分と同じように癒されますように。

 小鳥のヒューがぱたぱたと飛んできて、万梨亜の肩に止まった。万梨亜は優しく話しかけながら木の実を差し出した。ヒューは喜んでそれをついばみ、再び飛び去っていった。

 穏やかな午後は静かに過ぎていく……。

 二人の残した子は主神のソロンのみだった。彼が主神になる頃には、神々も魔族も人間も、完全に切り離された次元で生きるようになっていた。ジュリアスと万梨亜は長い年月を生き、早世したテセウスのひ孫が国王になる頃にこの世を去った。

 伝承通り万梨亜の魔力の石は青く輝いて残った。その石は、代々ディフィール国王の王冠を飾る宝石として後の世へ引き継がれていく事になる。

【第四章 空の永遠 完】

【ディフィールの銀の鏡 終わり】

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