ディフィールの銀の鏡 番外編 青の慕情

 母は、美しく儚げな女人であった事をおぼろげに覚えている。

 一番記憶に残っている母は、国王の居ない夜に訪れた主神テイロンに寵愛される母だ。

 それは暑い夏の夜の出来事だった。

 寝ているのか起きているのか分からない感じでまどろんでいた余は、隣の部屋からもれ聞こえる母の泣き声を聞いたのだった。幼心にも母は弱虫でよく泣くと思っていたからいつもの事だと思おうとしたが、何かが違うと思い寝台から床に降り立った。そして扉を細く開け、母の様子を伺った。

 今から思うと、あれはとても幼子が見ていいものではなかった。

 寝台の上で、全裸の男女が絡み合っていた。

「ああっ……いい……あっ……あっ……」

「はあ……は」

 忙しない二人の吐息。母の脆そうな肩に男が吸い付き、その大きな手が母の乳房を揉みしだいている。男の膝に座って股を大きく開いた母の中心に、男の屹立したものがぐさりと刺さっているのが月明かりにはっきり見えた。

「……あっあっ……あああ! テイ……ロ……ああっ」

 母は歓んでいた。腰に回されている男の左腕に爪を立てて身体をくねらせ、男の腰の動きに合わせて揺れていた。だんだんと男の腰の動きが早くなり、二人の結合部の立てる粘り気のある水音が淫猥に響く。早く扉を閉めなければと思ったのだが、どうしてもそこから目が動かせなかった。

 それは鮮烈な性の姿だった。髪がさらりと長い男は、母の肌を貪るように舐めては吸い付き、その両手で母の身体中を愛撫している。腰の動きには何か言葉で言い表せない深いものがあるように見えた。

 何かから逃れようとする母と、逃すまいと愛撫を深める美しい男。

「あっ……あああああっ…………っ」

 繊細な声を上げ、母はぐったりとした。一瞬死んでしまったのかと身体中の血が凍る思いをしたが、母の胸が上下している事から眠ってしまっただけだと分かり、とても安心した。

 幼い余は、男が裾の長い服を羽織り、母にも服を着せてベッドにやさしく寝かせるのを目に追うばかりで、立ち去るのを忘れていた。そして気がついた時には、男が少し開いているドアの前に立っていた。

「こんなに小さいのに覗き見なんて良くないよ?」

 その声は咎めてはいなかった。父である国王であったなら、張り飛ばされていたかもしれない。あの男は母ですらも殴るような最低の男であったから。

 ドアを大きく開けた男は、動けないでいる私に微笑みかけると抱き上げた。

「ふふ……可愛いねえ」

 見知らぬ怪しい男に頬ずりされたというのに、不思議と嫌悪感がなかった。それどころか妙な安らぎがあった。男はそのまま私を抱いて月が出ている窓際に立った。

「……お前は誰だ? 母上は国王の側室だ。ばれたら命がないよ」

「幼い癖にぞんざいな口を聞く。成程、ペネロペイアが言うとおり聡いとみえる」

「何故、母上を……」

「母上を抱いていたかって? 決まっている。ペネロペイアは私の恋人だからだよ。国王が横恋慕したんだ。それにあれは大人のする事なのだから、子供は見るもんじゃないよ。」

 余も見るべきではなかったと思っていたから居心地が悪い思いで居たのだが、男は唐突に話題を変えた。

「今日はね、お前に贈り物をしようと思って来たんだ」

「余に?」

「本当に変わった子だ。王様か何かかい? まあいい。そのままじっとしておいで……」

 男の大きな手が目の前に翳された。大きな手の指の隙間から見える男の両目が一瞬金色の光に満ち、そのまぶしさに耐え切れず余は目を閉じた。やがて何か熱いものが目から頭の内部を満たし、身体中を駆け巡っていった。

 炎のような熱さが冷めて行った頃、ようやく余は目を開く事ができた。男は元の様に微笑んでいた。

「”真実の眼”をお前に授けた」

「しんじつのまなこ?」

「そう。試しにペネロペイアをじっと見ていてごらん」

 男に言われるままに、余は上掛けを肩まで掛けて眠っている美しい母をじっと見つめた。

 すると視界がぶれ、寝ている母とは別の母が浮かび出た。その中で母は床の上に眠るように倒れ臥している。母の手元にはグラスが転がっていて、侍女たちが慌てさざめいていた。余は母を揺り動かして泣き叫ぶが、それでも母は目覚めない。母は死んでいた。

 恐ろしい孤独の闇が余を押し包む。これは夢だ。でも夢ではない。自分は目覚めている。でも嘘だ。嘘に決まっている!

「……殺されてしまうんだよ。ペネロペイアは」

 男の声が映像を吹き飛ばした。

 視界が元に戻り、母が眠っている事に余は安心した。しかし今のはなんだ? ……母は死んでしまうのか? それも近いうちに? どうして……。母が居なくなったら余はどうすればいい。信じられるのは母だけだというのに。

「可哀想だが、お前は当分一人でひっそりと生きねばならない。それが視えたから、今日、真実の眼をお前に贈りに来たんだよ。それさえあればお前は生き延びる事ができる」

「母上は……死ぬの?」

 泣きそうになっている余の顔を、男は優しく撫でてくれた。だがその口から漏れるのは残酷な言葉だった。

「死ぬ。だがそれは人間としての死だ。彼女の中にある神の部分は死なないから、その部分が天界に昇り永遠に生きるんだよ」

「?」

「ペネロペイアは神と人間の間の子だよ。神は不老不死だから死ねないんだ」

 男の長い金糸がさらりと揺れ、男は余の頬に口付けた。

「そしてお前は私とペネロペイアの子だ」

 それは幾度と無く自分自身が疑っていた事だった。やはりとそうだったかと余は思った。

「余は国王の息子ではないの?」

「ああ。だからあの男はお前に冷たいのだ」

「…………」

「神にも等しい存在のお前だが、わずかな人間の部分がお前の足をひっぱる。よこしまな者達がお前の魔力を利用するためにお前を捕らえようとする。もしくは滅ぼそうとする。お前はうまく立ち回らねばならないんだよ」

「…………」

 何も言えないで居る余に、男は慰めるつもりになったのか一人の女の映像を余の前に映した。

 それは母と同じ年くらいの、波打つ長い黒髪を持つ美しい女だった。

「この女がいつかお前のそばに来てくれる。そうすればお前は寂しくなくなるよ」

「……いつ来るの?」

「お前が大人になる頃。その時が来たら、お前の母に私がしていた事をこの女にしてやるといい」

 女の映像は消えたが、ひどく淫猥な事を言われた気がして余は赤面した。やはり覗き見は良くない事だ。余は恥ずかしさからなんとか逃れたいと思い、さっきから気になっていた事を口にした。

「……貴方はだれ?」

 男は今更聞くかと呆気にとられたようだったが、静かに頷いた。

「お前達が崇めている、主神テイロンだよ」

 男がそう言った途端、周りに黄金の光が満ち、きらきらと輝く宝石のような雪が舞い始めた。気流の流れに男の長い金糸が揺れる。

「私はもう天へ帰らねばならぬ。いずれお前とは会うこともあるだろう。その時まで元気で、私のいとし子、……ジュリアスよ」

 ふわりと余は床に下ろされた。男は舞い散る雪となって消え、部屋は月夜に照らされるのみになった。

 しばらく呆然としていた余だったが、急に何もかもが恐ろしくなり、寝ている母のベッドに潜り込んで母にしがみついた。柔らかな母の身体と温かな体温が余を包んでくれ、やっと余は安心して眠ることが出来たのだった。

「いかがされました?」

 万梨亜が余に微笑みかけるたびに、身体の奥底がずくずくと疼く。それを表に出さないように努力しながら、余は雑巾でテーブルを拭いた。

 昔の事を思い出したのは、あの時の黒髪の女がこうして目の前に現れたからだろう。隣国のケニオンからの貢物である奴隷の女だが、よくこんな極上品を寄越す気になったものだ。もっともわが国で黒髪の女は好まれないので、余に下げ渡されたのであろうが。

 

 不思議な女だ。

 真実の眼を使っても彼女の考えている事が読めない。今まで読めない者等居なかったので不思議さが際立つ。魔力の石を持っているから魔力も強い。でも万梨亜は魔法は扱えないと言う。

 一人でのんびりしていた夕方、争うような気配が厨房からした。急いで行くと、二人の兵士が万梨亜を犯そうとして服に手を掛けている。

「……何をしている?」

 兵士達は常ならぬ余の怒り声に、日頃馬鹿にしている事を忘れたのか、万梨亜を放り出して逃げていった。乱れている服を直してやり、万梨亜を抱き上げて彼女の部屋の寝台にそっと横たえた。

 本当に万梨亜は美しい。つややかに流れる黒髪も長い睫も、……美しい透き通るような肌も。そっとその身体に手を滑らせていると、何か電流のようなものが余の手を痺れさせた。これは魔法の気配だ。

「?」

 魔法の気配がするところをまさぐってみた。スカート部分のポケットに何か入っている。

「……これは」

 出てきたのはとんでもないものだった。

 袋の中にあったのは、ケニオンの紋章が彫り込まれている腕輪と指輪だった。特に腕輪のサファイヤはいただけない。これは何かを封じ込める石ではないか。何を一体取り込む気だ? 難しい顔をして考えていると、万梨亜が寝言を呟いた。

「デュレイス……さ、ま……」

 真実の眼を凝らすと、万梨亜が見ている夢が映像として浮かんできた。彼女の思考は読めなくても、記憶だけが時々ちらちらと浮かび上がり、見ることが出来る。

 夢の中で万梨亜は幸せそうに黒髪の男と抱き合っていた。男がしきりに万梨亜に口付けている事から、男が、デュレイス王子が万梨亜を好いている事がわかる。万梨亜もまんざらではないようで、余の前では見せた事も無い笑顔と思慕に満ちた目を向けていた。

 その手にケニオンの腕輪があった。

『お前にこのような事をさせたくはない。だが、国王の会議で決まった事は覆せぬ』

『……ご心配なさらないで。きっと無事に帰ってきます』

 デュレイス王子は、万梨亜の剥き出しの白い腕に唇を這わせた。

『こんな細い腕のお前が、ジュリアス王子を捕獲できるのか?』

『……わかりません。でも、私は奴隷ですから命令に従うしかありません』

『お前にこの指輪を』

 今、余が手にしている指輪をデュレイス王子が万梨亜に手渡した。万梨亜は妙に潤んだ眼でそれを見てから、デュレイスを見上げる。

『私に繋がるようになっている。命の危機に瀕したらこれに呼びかけてくれ。すぐに駆けつける』

『デュレイス様……』

 それ以上は見る気が失せ、すぐに普通の目に切り替えた。成程、極上の女をよこしたわけだ、余を腑抜けにして取り込むつもりだったのか。万梨亜は魔法など使えないと言っていたが嘘に違いない。

 腕輪と指輪を袋に入れて万梨亜の服のポケットに戻し、急いで部屋を出た。自分の部屋に戻るとそのまま自分も寝台に突っ伏した。

「く…………っ」

 込上げて来るのは猛烈な嫉妬だった。万梨亜はあのデュレイスを愛している。無理も無い、元の世界でもこの世界でもいじめられ貶められていたところを、あのデュレイスだけが優しく接したのだから、心を奪われても仕方が無い。

 だが許せない。許すものか。万梨亜は余のものだ。余の為に生まれてきた”魔力の石を持つ女”だ。あのような戦争を望む野獣になどくれてやるものか。いや、魔力の石が無くとも余のものなのだから!

「ふ……我ながら」

 自分の傲慢ぶりに怒りがすっと消えた。

「何を考えているのか……、余の方が遥かに野獣だ」

 万梨亜が目の前に現れた時から、あの時の父のように万梨亜を抱く事ばかり考えていた。

 

 今ならはっきりとわかる。父が母を燃やし尽くすかのごとく愛し、その思いのたけを込めて抱いていた事が。何故国王に奪われても何もしなかったのか。それは母の家族を思いやったからだ。そのまま浚えば家族は王の意思に反したとして殺されたに違いない。

 国王は愚かだ。主神が愛した女を奪ったのだから。そして王妃はもっと愚かだ。その女を私利私欲に任せて毒殺したのだから。二人の未来がはっきり見える、二人は溺愛している自分の子供に斬り殺される……。

 数日後、余は熱に倒れ昼から寝台に横になる羽目になった。万梨亜が病の魔法を余にかけたのだ。万梨亜はおそらく余を病で弱らせて腕輪に封じ込め、ケニオンに戻るつもりなのだろう。

 だが余はケニオンに行くつもりなど毛頭ない。

 夜になって、万梨亜がそっとドアを開く気配がした。

 これから計画を実行するつもりなのだろう。だが残念だな万梨亜、そなたの計画は最初から失敗すると決まっている。

 そうとも知らない万梨亜は、余の枕元に立つと小さな声で呪文を唱え始めた。部屋の空気が魔法で染まっていく。

 余は眠ったふりを続けた。まだ動くには早い。しかし、意志に反して胸の鼓動が早くなっていく。

『この女がお前のそばに来てくれる。そうすればお前は寂しくなくなるよ』

『お前が大人になる頃。その時が来たら、お前の母に私がしていた事をこの女にしてやるといい』

 父、テイロンの声が、万梨亜の細い声とかぶさって耳の底から蘇ってくる。

 もうすぐだ。

 もうすぐ、万梨亜をこの胸に抱く事ができる。

 そうすればずっと抱いてきた寂しさから開放される。そなたも余自身も。

 余の中にずっと封じ込められていたものが、解き放たれていく……。

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