ゲーム 第22話(完結)
あれから数年の月日が過ぎた。
会社を辞めた私は結婚して、京都へ引越しした。嫌いだ嫌いだ二度と行くもんかと思っていた街だったのに、今ではとても大好きな街だ。
古民家を大改造しておしゃれに住みやすくしたこの家は、私も主人も大好きな場所だ。
近所の人も最初はとっつきにくく苦労したのも、今ではいい思い出になっている。
家の前の石畳に水をまくと、昼間の熱がもわりと消えていく。
木の塀に蔓を巻く夕顔が、とても清らかで涼しい。
豆腐屋さんが自転車に積んだそれを売り歩く、珍しいラッパの音がする。
今日はお豆腐はあるからいらないかな……。
「姉さん、さすがに京都は暑いよ」
「居候の分際で何言ってんの。早くご飯作ってよ」
「もうほとんど完成してる。今日は冷やし梅を自作したから。おいしいよー、食べてびっくりするなよ」
「美味しくてびっくりするのなら、いくらでもびっくりしたいわ」
私は着ていた浴衣の裾を直し、家へ入った。まだ家の中は暑い。早く夜の涼しい風がはいってくれるといいんだけどな。
うちわでぱたぱたと顔を仰いで、早く帰ってこないかなーと思った。
見城ほのかの結婚式はしばらくワイドショーを騒がせた。地方局のテレビが生放送していたものが、一気に全国のワイドショーに取り上げられてしまい、見城コーポレーションは倒産寸前まで行った。取引先がイメージダウンやその他の内情を知り、つぎつぎと手を切ってしまったためだ。
あの御曹司の勝彦は、実家から完全に縁を切られてしまったらしい。見城ほのかと二人でアメリカに移住した後は誰も知らない。そのほかの取り巻き達も、京都からどこか遠くへ引越ししていなくなったみたい。
ワイドショーで顔が流れたのは新郎新婦だけだったけど、京都であの中学に通っていた当時のクラスメイト達は誰かわかっている。だからこの京都にいられるわけがなかった。見城ほのか達のように日本にいられなくなるよりはましだろう。しかしそれも、いつどこでばれるかとびくびくして過ごさなければならない、日陰者の生活だ。
因果応報とはこのようなものを言うんだろう。
私はといえば、その元クラスメイトたちから、次々に手紙をもらった。大部分は謝罪で、見城ほのかたちに睨まれて何もできなくてごめんというものだった。
ひとりひとりに今は元気だからとだけ書いて、送り返した。今住んでいる場所は、前に住んでいた地域からは大幅に離れているから、この先出会ったりする偶然はないだろう。
「あら、綺麗な色のお茶ね」
「隣のおばさんにもらった奴。あいつにもよろしくって言ってた」
「ふーん。皆顔がいい男に弱いのね」
「そりゃ中学時代でも大人気だったから」
「はいはい」
お茶を飲み、縁側から茜から濃紺に変わりゆく山の端を眺めていると、やっと涼しい風がそよと入った。
軒の端にぶら下げた風鈴が、えも言われぬ澄んだ音を奏でた。
夏はこれがいい。
もっと鳴らないかなと待っていたら、風が応えてくれて、また続けて鳴らしてくれた。
ああ、幸せだなあと心の底から思える。
中学時代のあの一年は地獄だった。
あの十年以上もあとに、こんな幸せが待っているなんて、当時は考えられなかった。
私がそれでも幸せだったのは家族がいたから、そしてかばってくれる人がいたからだ。
誰も助けてくれない状況にだけは陥らなかった。
両親が知っていたとか知らずにいたとか、もうどうでもいい。
今は幸せなのだから。
私が知らないだけで、本当はもっとたくさんの人が助けてくれていたと思う。
存在を空気のように消して、私はそれに気づこうとしなかった。
嫌なクラスだとばかり思っていた。
一体ブタチンとは誰なのかと、ワイドショーでは騒がれていた。
でも今日に至るまで、誰もそれをテレビ局に言ってはいない。
私はそれを、人の良心だと思った。
もちろんこれ以上学校を悪く言われたくないという気持ちもあるだろう。
でもそれ以上に、私が傷つかないようにしてくれる人たちが、大勢いるのだとうれしく思う。
こんなにたくさん優しい人達がいたのに、私はまったく気づいていなかった。
見城ほのかの家から、何かされたというのは実家からは一度も聞いていない。
もっとも彼女の父親は私や私の家族に謝罪なんて来ていない。取り巻き達もだ。
そんな彼らを私は不幸で気の毒な人たちだと思う。
いつか、その罪の深さに気づいた時、彼らはどうするのだろう?
償える環境にあれば良いけれど、それが許されず、さらなる不幸へ落ちていくしかなかったとしたら……?
それを考えると、亡くなった広山優は幸せな人間だった。
自分自身で、自分の罪のけりをきちんとつけて死ねたのだから。
「ねえさん、あいつってコーヒー飲めたっけ?」
「そんな事も知らないの? 部活で一緒だったんでしょ」
「学校ではコーヒー厳禁だったろ?」
「そういやそうだったかしら? コーヒーにはうるさいわよ。まずいものを飲んだときの顔とか面白いもの」
「……あいつに同情するよ」
「冷やし梅にコーヒーって変じゃない?」
「んー。ケーキも作ったんだ」
「あらそれはうれしいわね。朗にしては気が利くじゃない」
「俺はいつでも気が利く弟だよ」
ごりごりとコーヒー豆を挽き、朗はニヤニヤ笑った。キッチンでやってくれないかなー。せっかく夕涼みでいい気持ちになっているのに。
ごりごりごりごり、なんか不吉な音だ。
お、帰って来たかな。
裸足で縁側を抜けて玄関へ行くと、彼は汗だくで、ネクタイを抜き取りながら靴を脱ぐという器用な真似をしていた。
「おかえりなさい、優」
「ただいま」
「会社はどうだった?」
「んー……普通」
「朗がね、美味しいご飯を作ってくれたのよ?」
不意に優は、私にキスをした。
こらーっ! 朗が見ているかもしれないのにっ。
すぐに離してくれたけど、やっぱり朗が真っ赤な顔で奥からこっちを見ている。優はニヤニヤ笑ってばかりで、私も赤面だってのに。
ああやっぱり、顔がいい男って皆こうなのよね。もうっ!
性格のいい美形なんて、絶対にいやしないんだから。
「ゆきの、綺麗な浴衣だけど、そんなの持ってたっけ?」
「お義母様から頂いたの」
「だろうな。ゆきのにしては嫌に上品だから」
「はいはい、私は下賎な女ですよ」
「おれもそうだから気にするな」
「はいはい」
朗が、ご飯は今日はこっちに運んだからと言い、優はお風呂に先に入ってから食べると言って、浴室に入っていく。
私は晩酌にはつきあえないけれど、お酌ぐらいはしてあげようではないかと、優の好きなワインをクーラーからとりだして、専用の容器に入れた。
これはよく冷えているほうがおいしいからね。
素敵なカットグラスを三人分用意し、お邪魔になるからと部屋に退散したがる朗を引っ張り出した。
私たちがところかまわずいちゃつくのが目に毒らしい。
それは優に言ってくれないかなー。
しばらく待っていたら、用意してあった浴衣を着て優が部屋に入ってきた。
うん、私とおそろいだ。うふふ。気づいてうれしそうね。
「んだよー。やっぱり二人だけの世界じゃん。勘弁してくれよ。中村呼ぶからな今度~。姉さんの馬鹿、なんであいつを振るんだよ。あいつのほうが根性良いのに!」
「あんたまだ騙されてるのね。あっちのほうが一枚上手よ?」
「まじかよ……」
朗がむくれるのに、私たちは大声で笑った。
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
三人で手を合わせた。
涼しいそよ風がまた入ってきて、夜は深まっていった。
【ゲーム 終わり】