清らかな手 第1部 第05話

 若い男性と、数人の男達に連れられて、雅明とフレディは豪華な館の部屋に入れられた。その瞬間にフレディが正気に戻ったかのように男性に言った。

「助かった、リカルド」

「構わないさ、気にするなフレディ。それよりアウグスト君は重症だぞ。お前も新薬を打たれているようだがどうなんだ?」

「たった一回だ。反抗せずに廃人の様にふるまっていたからな。向こうも上手く騙されてくれた。だがアウグストはそんなことが出来なかったみたいで、この通りだ」

 雅明はフレディの背中に隠れるばかりで、素顔を見せたリカルドにも怯えきっている。雅明はリカルドを知らない。リカルドはトビアスと取引のある富豪で、トビアスから彼らを助けてくれと言われてあのオークションに参加したのだった。

 二人に食事をとらせると、リカルドは言った。

「断薬症状がきついぞ」

「可哀想なことになってしまったな。これは俺のミスだ。思ったよりあの館はセキュリティが強固で骨を折ったんだ。普通なら3日辺りで脱出できそうなものだったんだが、結局は今日のような手で出るしかなかった……」

 フレディは食事の後、眠ってしまった雅明をベッドに横たわらせる。

 今回は実は囮作戦で、雅明にだけ詳しい説明が伏されていたのだ。わざと誘拐されて館の中に潜入し人身売買の証拠を掴むのが目的だった。雅明がアレクサンデルに翻弄されている一方で、フレディは地下牢から何度も抜け出し、セキュリティを潜り抜けて証拠集めをしていた。それらはすべてトビアスにとあるコンピュータを通じて転送されている。コンピュータに侵入させたと全く気づかせないように事を成し遂げたフレディは、その道のプロだった。

 調べた結果、アレクサンデルの父も人身売買に関わっており、二人の失脚に時間はそうはかからないと思われている。トビアスに依頼したとある政治家からそのような報告があったと、リカルドがフレディに言うと、彼は息を吐いて肩を落とした。報酬が莫大でも気は晴れない。

 安らかに満ち足りた顔で眠る雅明は、明日から地獄の底でのたうちまわなければならない……。そっと銀の髪を撫でるフレディにリカルドが言った。

「明日の昼ごろ薬が切れる……。しばらく防音設備のある部屋に入っていたほうがいいだろう」

「判った……」

 フレディは雅明の右手を額に当てて、辛そうにうなずいた。この先、雅明が直面する身体的苦痛と精神的苦痛を思うと心臓がえぐりとられそうな思いだ。だが、絶対にそばにいて必ず更生させて見せるとフレディは心に固く誓った。

「どういうことか、説明してもらおうか……?」

 それから数日後、リカルドは恐ろしい人物の訪問で冷や汗をたらしていた。

 鷹の様に鋭い目つきと圧倒的な威圧感で自分を睨みつける男。雅明の弟の佐藤貴明。

 リカルドは自分が仕組んだことでもないのに、なぜか謝罪して許しを乞いたくなるほどに貴明に恐怖していた。こんな人物はそうそう出会った事がない。

 しかし、どうやってこの館に雅明がいることを突き止めたのだろうと思う。事はアレクサンデルが処分されるまで秘密のはずだ。国外の、それも遠い東の果ての国にいる貴明が居るのが不思議でならなかった。

「フレディとやらはどこにいる? トビアスとやらはどこに居る? 言え、言わないとお前もただではすまないぞ」

 リカルドの部下達も数人同じ部屋にいるのだが、貴明の放つ恐ろしいオーラに圧倒されて立っているのがやっとだという感じだった。

「すまないが、落ち着いてくれたまえ。トビアスに連絡するのには……」

「いますぐ連絡しろ! ここへ連れて来い」

 表の世界にいる自分が、裏の世界の頂点近くにいるトビアスと直接接触することはないし、ここへ呼ぶなどとはとんでもないことだった。雅明とフレディは貴族でそれぞれの血筋がしっかりしているから館に入れたが、うす素性の知れないトビアスなど呼べたものではない。関係を表ざたにされては困るのだ。

「そ……れは」

 銃声が空気を切り裂く。

 なおも言いよどむリカルドの頬を弾が掠めた。貴明が拳銃で撃ったのだ。貴明の放つ殺気で部屋中が緊張した。銃口をリカルドに向けて貴明が威嚇する。

「できないなら雅明に会わせろ。それもできないならこの部屋にいる全員を殺す!」

 リカルドは了承した……。

 雅明は幻覚症状で惑乱状態にあるところだった。部屋中に蛆虫がいると泣き喚いている。

「誰か早く全部掃き出してくれ! ここにもそこにも……ベッドにもうじゃうじゃいるんだ!」

 わめいている雅明をフレディが抱きしめて宥めている。

「大丈夫だそんなものはいない。お前が見ているものは幻覚だよ」

「うそだ、フレディ。お前に見えないなんて。いるんだぞお前の顔にも髪にもいっぱい、いっぱいいる!」

 恐怖に顔を引きつらせて、雅明は震え上がっている。

「怖い、気持ち悪い、怖い、怖い……誰か助けてくれ……誰か」

「俺がいる」

 貴明はつかつかとフレディに近寄ると、いきなりフレディの服を掴み殴った。立ち上がろうとするフレディの服の襟を掴んで貴明は睨みつける。

「……貴様がフレディか?」

「佐藤……貴……明、なんでここに……」

 驚いているフレディに、好意とは対極の笑みを貴明は浮かべる。

「なんでだと? 兄を玩具にしてくれた奴を始末するためにだよ。貴様が雅明を囮にしたことはわかってるんだ!」

「それは違う」

 闇の色をまとった声が響き、その部屋に居た全員が振り向いた。そこに居たのは闇の組織「黒の剣」のボスのトビアスだった。長身で恰幅のいい壮年の男で、貴明にも負けないオーラをまとっている。トビアスは佐藤貴明がここへ来たのを知り、あえてやって来たのだった。リカルドもトビアスがいなくては事の収拾がつかないことを悟り、あんなに嫌がっていたのに歓迎して迎え入れたのだ。

「黒狸のお出ましか」

 貴明は歩いてきたトビアスと向き合った。

 ぴりぴりした空気を破ったのは、雅明の悲鳴だった。

「た……貴明が、貴明が」

 貴明はその怯えた声を不思議に思い、兄に振り返った。雅明の顔は白くなっている。蛆虫よりも怖いものを見たかのように。

「そうだ、迎えに来た。日本へ帰ろう」

 兄の手を取ろうとした貴明だったが、雅明に邪険に払われた。

「帰らない!」

「雅明?」

 立ち上がったフレディの背後に隠れ、雅明は言う。

「わ、わ、私を馬鹿にしに来たんだ。きっと笑いものにするために……」

「何を馬鹿なことを。雅明、僕はそんなふうに思ってはいないよ」

 思い切り顔を左右に振り、雅明は叫んだ。

「帰らない、絶対に帰らない。お前のところへなんか行くものか。私はフレディといるんだ」

「雅明!」

 貴明が雅明の右手をとって引っ張ろうとすると、雅明は大声をあげる。

「触るな! 出て行け! 帰れーっ……フレディ以外は出て行けっ」

「アウグスト、落ち着くんだ」

「あう……く……、う、う……」

 フレディが泣き出した雅明の背中を撫でると、雅明はまるで子供の様にフレディに縋った。

「あ……あ、フレディ、フレディ。こいつらを追い出してくれ。できないんならいっそ私を殺してくれ!」

 フレディはトビアスを見、トビアスは貴明を見る。貴明は仕方なく外へ出て行き、残る二人も部屋を出て行った……。

 

 二人きりになると、雅明は発作が治まったようで息を静かについた。太陽の光が明るく差し込む部屋で雅明はベッドの端に腰掛ける。

「フレディ……。私にはお前さえいてくれればいいんだ」

 雅明は近寄ってきたフレディに縋るようなキスをして、その胸に顔を埋める。フレディはそんな雅明を愛おしく思いながらも罪悪感が積もり、複雑な微笑みを返すのだった。

 今は麻薬が抜けていないせいで、こんなふうに雅明は懐いているが、更生したら自分を見なくなるのだろうなと、フレディは思った。雅明の銀髪を優しくなでて頬にキスをすると、雅明はうれしそうに微笑んだ。それがあまりに綺麗に儚げに見え、たまらなくなってフレディは雅明をベッドに押し倒した。

「フレディ、私が欲しいのか?」

 演技だったはずだとフレディは自分に言い聞かせる。でも今湧き上がるこの気持ちはなんなのだろう。これはいけない。こんな事をしたら雅明はますます更生できなくなるとフレディが雅明を離そうとすると、反対に雅明に引っ張られた。

「アウグスト?」

 あの茶色の瞳は虹色を帯びていた。妖艶な誘い込むようなまなざしにフレディはひきこまれそうになる。

「もう大丈夫……。フレディ、私もお前が欲しい」

「アウグスト、違うんだ。もうそんなことはしなくていいんだよ。アレクサンデルの元へも帰らなくて良いし、リカルドはそんなことをするために我々を買ったんじゃない」

 返ってきたのはとろけるような甘いキス。雅明の舌が甘く絡み付いてきてフレディは懸命に理性を呼び起こす。だが、すうっと雅明の指が背中を降りて行き、それだけでフレディの雄に火がついてくる。ふと愛人をしていたアンネが言っていた事を思い出す。

『アウグストに抱かれるとね……、ひたすら天国に連れて行ってくれるの。あれ以上の男はまだいないわ……、トビアスでも感じたことのない快楽。アウグストは光の天使なのかもしれない。地獄へ堕ちる前のあの天使。清らかな雰囲気の中に彼は妖しい魔を持っている気がするの』

 気がついたらフレディは雅明を裸にして組み敷いていた。フレディの下で雅明は顔を紅潮させて喘いでいる。

「フレディ……フレディ、早く、来てくれ……我慢できない」

「アウグスト」

 溶け合った瞬間、フレディはアンネの言った言葉が正しかったことを知った。 

「アウグスト、愛している……」 

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