清らかな手 第2部 第01話
『私を忘れたくなるような恋愛はしないで欲しいね。私はいつだって、どこだって、永遠にお前の中に居たいんだから……』
もうすぐ一年になる。フレディの最愛の人が逝ってしまってから……。
誰もいないプールサイドに立った男が、さぶりとプールに飛び込んだ。徐々に浮き上がってくる身体は魚のようにしなり、やがて見事なフォームで水を掻いて進んでいく。フレディはそれを見やりながら、プールサイドで水を蹴っていた。
ここは佐藤邸から少し離れた所にあるスポーツジムだった。佐藤グループの社員なら誰でも格安で利用する事ができる。大きなプールにいくつもあるスタジオ、器具が沢山備わっているジム、テニスコートなどがあって、沢山の社員達が毎日利用していた。一般の人間も借りる事ができるが、やはり割高で利用者は少ない。
週に何回か二時間ほど必ず空きの場所があり、佐藤の親族が利用する時間になっていた。しかし親族は貴明とその妻麻理子、貴明の母親しか居ない。女性達は殆ど利用しないので、いつも貴明が独占して使っていた。
フレディは、恋人だった雅明が逝った後も佐藤邸に居た。雅明の双子の弟である大企業佐藤グループの社長、佐藤貴明のボディーガード兼情報部員として雇用契約を結び、黒の剣に居た頃よりはるかに平和な日々を過ごしていた。
何回かターンを繰り返して、ざばりとプールサイドへ出た貴明が水を滴らせながら、相変わらずプールサイドで水を蹴っているフレディに声をかけてきた。
「泳がないのか? せっかく来たのに」
「いえ、泳ぎますけど」
フレディはさりげなく貴明の肢体を観察した。並の男よりは遥かにりっぱな体格だ。しなやかに盛り上がった筋肉とかっちりと締まっている腹部や腰、この男が抱きたいという男はそうはいないだろう。恋人だった雅明のような儚さや華奢な感じはまったくこの男からは見受けられない。
(顔は全く同じなのに、まったく心惹かれる事は無いな)
ベンチへ向かう貴明にバスタオルを渡すと、フレディはプールサイドに立ってプールへ飛び込んだ。
やはりあの魅力的な恋人は、この世に一人しか存在しない。顔が似ていてもそれだけだ。それを再確認して、妙な安心感を覚えながらフレディは水を掻いた。
水泳は得意だが、施設の整った所で泳いだ事は余り無い。組織に属していた頃はこのようにスポーツじみたものではなく、生きるために泳いでいた。逃げるために荒れ狂う川や海で懸命に水を掻き、たった一つのミッションの為に命を賭けて水や敵と格闘した。
(平和な国だ)
ここにずっと住んでいたら、雅明はあんな風にならなかっただろうに。そう思わずには言われないほどの豊かさにこの国は満ちていた。
水の抵抗を強く感じ出した頃、フレディはようやくプールサイドに上がった。貴明へ頭を巡らせたが、何処にも居ない。代わりに貴明の秘書の一人が、何故かプールサイド脇のベンチに座っていた。
「社長は……」
「社長は急用が入り、私にここをまかせて出て行かれました」
「ボディーガードを置いていくとは、困った方だ」
「代わりの者をつけましたから」
冷たさの極致のような声で秘書は言った。
フレディはこの秘書が苦手だった。ノーフレームの眼鏡の奥の目が、いつも絡みつくように自分を見ていて監視されている気分になる。大体、社長の秘書が何故社長についていかないのか。ボディーガードを待って一体何になる。
「じゃあ高野、お前も帰れ。こんな所で油売ってないで」
「社長のいいつけでね」
「必要ない。帰ってくれ」
表情一つ変えない高野を睨みつけると、フレディはシャワー室へ入った。
佐藤邸の人間達が自分をまだ信用していない事は、フレディにも分かっている。もともとが外国の闇の組織の人間だ、それもいつも最前線に居たという自分をあっさり信用する馬鹿は居ない。雇われたフレディを危険視して、誰もが警戒を解かない中、雇い主の貴明を除いてやたらとそばにやってくるのが、この高野湊(たかのみなと)だった。もっともそれは、フレディと接触したがらない他の連中の代わりに、貴明からの言伝を伝えに来るという程度のものだったが。
どちらにしろ貴明との契約期間はもう直ぐ切れる。誰とも仲良くする気が無いフレディにとって、嫌われている事はありがたかった。恋人の雅明が居ないところにいつまでも居ても仕方が無い。
シャワーの湯が温かく自分を叩いて流れていく。
(あの日……雨が降っていたな)
雅明の最後の寝顔が、昨日の事のようにフレディの脳裏に蘇った。
『おやすみ、良い夢を……』
その優しい言葉が、雅明と交わした最後の言葉だった。
翌日、もう目覚める事は無い雅明の冷たい頬に触れながらも、フレディは不思議と悲しいとは思わなかった。死に顔は幸せそのもので、雅明が満足して逝った事が一目瞭然だったからだ。
親族だけの小さな葬式の後、雅明はひっそりと佐藤邸の片隅に埋葬された。秋のしめやかな雨が降っていた……。
シャワーの個室から出てきたフレディは、ぎょっとして思わず構えた。高野がタオルを差し出している。
「タオルをどうぞ」
相変わらず眼鏡の奥の黒い目は、何の表情も映さない。
「…………」
受け取りながらフレディは警戒した。シャワーを浴びている間、気配を断ってここでずっと待っていたに違いない。
「そんなに警戒されなくても大丈夫です」
「…………」
拭き終わると、フレディはタオルを高野に投げた。隙の無い動きで受け取りながら高野が言った。
「本当に無口な方だ。だから邸の人間が警戒するんですよ」
「…………」
下着をつけ、シャツを着てスラックスを履く。無口なのはお互いさまだ。この男は必要最小限の会話しかしないと貴明が言っていた。それが自分の前ではべらべらと口を開く。佐藤邸へ戻る車中も高野は話しかけてきたが、フレディは無言を貫いた。殺気が皆無なだけに何を考えているのかさっぱり分からない。
深夜、ほとほととドアを叩く音がした。とっくにベッドに入っていたフレディだったが、即座に目覚めてドアを開ける。案の定高野が立っていた。
「なんだ?」
「夜這いに……と思いまして」
「必要ない帰れ」
にべもなく言うフレディに高野が僅かに微笑んだ。
「冗談ですよ。社長がお呼びです」
「……こんな深夜に?」
珍しい事もあるものだとフレディが思っていると、高野が眼鏡をきらりと光らせた。フレディを観察する時の癖だ。一体何を見ているんだという、その思い込みがフレディに隙を作らせた。
気がついた時には高野の顔が近くにありキスをされていた。押しのけようとするフレディの腕が動くより前に、高野がひらりと後ろへ下がった。
「お前……」
あっけなく間を詰められた事など今まで皆無だった。悔しさを滲ませた目でフレディが僅かに身長の高い高野を睨むと、情欲に絡んだいやに熱い視線ともろにぶつかり、フレディは戦慄した。見たことも無い蛇のような視線に絡み取られ、身体が硬直したように動かなくなった。
「……死地に赴いた人間は、腐るほど世界中に散らばっているんですよ。まだまだ貴方など甘いものだ。私に言わせれば、雅明様のスパイ振りは赤子の手遊び、貴方は幼稚園のお遊戯だ」
「なっ……」
部屋に押し込まれて床に突き飛ばされたフレディは、起き上がる前に高野に組み伏せられた。フレディよりも細いぐらいの高野の何処にこんな力があるのかと、フレディは信じられない思いだった。
「何を……する!」
「わかっているでしょう? 私が貴方を欲しがっていた事は」
喉に焼け付くようなキスが落とされて、忘れていた灼熱が目を覚ました。だがこの男は雅明ではない。雅明以外の男とやるなどフレディは真っ平だった。第一女のようにやられるなどプライドが許さない。
「わかってませんねえ……。貴方が力を出せば出すほど、貴方は自分の力で動けなくなっていくんですよ? まあいいでしょう、貴方のものに挨拶したいですしね」
ズボンの前を割られてまだ萎えているものを掴まれると、やけどをしたような熱さと疼きがフレディを襲った。
「あぐっ……ああっ……!」
「立派ですね。これで雅明様を悦ばせたんですね。さぞあの方も気持ちよかった事でしょう」
高野の唇が重なり、頭の中がかき回されるように舌がぬるぬると口腔内を愛撫する。その心地よさで身体中の肌が泡立ち、フレディの力を奪っていった。高野の手がフレディのものを柔らかく愛撫し始めた事も、力をさらに奪われる原因になった。
「あ……っぁ……」
「一年ぶりでしょうか? 溜まっているでしょうから出してあげます」
「…………だめ……だ……くっ……」
硬く立ち上がったそれを今度は激しく擦りあげられ、その鮮烈な疼きにフレディの身体が跳ね上がった。眼鏡を外した高野の目に愉悦に耐えているフレディが映り、彼の中の嗜虐欲を高めた。
「とても……いい顔です」
「はな……せ! あうっ」
高野の頭が下がり、フレディのものを口に含んで容赦なく吸い上げた。
「ひ……あああ……ああっ……ああっ……な、おま……えっ……」
全てをしぼられるような刺激が、思考を白く染めていく。思えばそれは二年前に、雅明がやったのが最後だった。それ以後フレディは誰とも肌を合わせていない。また、合わせたいとも思わなかった。
「どう……? 久しぶりで……気持ちいいでしょう?」
「……んン……っ……ん……あは……」
つ……と指が絡みつくフレディのものの裏筋に高野の舌がすべり、双球が口に含まれてその中で揉むように舐められた。
「あああっ……それい……じょう……はっ……ああ!」
「イってください。雅明様以外の男によって」
残酷な言葉とは裏腹に、高野の手はとてもやさしく肉棒を締め上げて、達せさせた。快感を我慢しきれずに出された白濁は、被さった高野の唇がヒルの様に吸い付いてすべて飲み込まれていく。
だらりと両腕を床に置いたフレディを、高野は抱き起こす。そして、ぼさぼさになった髪をやさしく掻き揚げて頬にキスをした。青い目には僅かに涙が滲んでいるだけで、まだフレディが完全に屈していない事を現している。
荒い息を繰り返すフレディに、高野はこのまま征服したい思いに駆られたが、残念ながら社長である貴明の呼び出しの方が先だった。手際よく乱れたフレディの服を直すと、ソファに座らせた。
「日本ではね、表と裏の顔を使い分ける事が一般的です。気をつけてくださいね……」
「なんで……こんな……」
「好きだから、ですよ。今まで様子を見ていただけです。今日、貴方の身体をプールで見て、こうしたいのが我慢できなくなりましてね。他の男には見せたくないなあ」
シャツの上から尖ったままの胸の先を摘まれると、たちまちそこから甘い痺れが走り、フレディは身体をびくつかせた。情けない事にさっきからこの男に身体を支配されている。警戒はしていたものの殺気が皆無だったために、フレディはあっさりと支配権を渡してしまった。もし高野が暗殺者だったら殺されていただろう。
「早く社長の私室へ行って下さいね。ああ、有り得ないと思いますけれど、社長に誘惑されないでくださいよ……、あの方はまったく素晴しい美しさですから」
「……二度と、来るな!」
フレディは睨んだつもりだったが、潤んだ目では何の迫力も無かった。
なんとか身体の熱をしずめ、フレディは貴明の部屋に行ったのだが、見せられたのがまたとんでもないものだった。
「トビアスの奴、死んだ人間で金儲けをしていやがる」
パソコンの画面を開きながら貴明が言った。
映っているのは犯されている雅明だった。数人を相手にしているものもあり、目を覆いたくなるようなものばかりだ。それはかつてのボスであるトビアスの組織が経営している風俗のダウンロードサイトで、他にも男娼たちの画像があったが、雅明のものが一番映像が多かった。どうやら崩壊したアレクサンデルの組織のコンピュータファイルから、わざわざ取り出したものらしかった。
「幻の男娼として大人気だそうだ。ダウンロードにも莫大な金がかかる……」
「買ったのですが?」
「いや、少し前に匿名で送りつけられてきた。ウイルスチェックの後開いたらこれだ」
実の兄のこの映像を前に、貴明は眉一つ動かさずに淡々と話す。フレディはたいしたものだと感心した。あのアレクサンデルですら、自分の父親に関する事ではやや感情が入っていたように思われる。
「高野がな……」
「!」
全く唐突に高野の名を貴明が口にし、フレディは胸がドキリとした。それに気付いた風も無く貴明が続ける。
「お前の事を怪しんでいる。本当は暗殺者ではないかと」
「そうですか。ですがそれは邸の人間が全員思っていることでしょう?」
「ふ……、あの銃の腕を見たら、誰でもそう思うだろうな」
一度、佐藤邸の地下にある射撃場で、ボディーガードたちの前でその腕を見せるように言われ、射撃練習をした事がある。明らかに彼らの目が警戒する色に変わった事を、フレディは覚えている。
しかし、フレディは拳銃や武器の所持は許されていない。いつも丸腰だった。
だがそんなものは、暗殺者ではないという証明には全くならない。周りにあるものならなんでも武器になる。
それにこの僅かな隙も見せない男を暗殺するのは至難の技だ。もし暗殺に成功したとしても十中八九邸の人間に殺されるだろう。
貴明に恨みもない、誰かと契約して莫大な報酬があるわけでもないのに、誰がそんな危険を冒すものか。第一フレディは暗殺の仕事は大嫌いで一度たりとも引き受けた事は無い。この目の前の男はそれぐらい調べ上げているはずだ。
フレディはため息をついた。所詮は平和で戦いを知らない日本人だ。本物の戦場を知らない男達は、殺意があるか無いかも分からないらしい。わずかな殺意も見せないプロだと思われているのだとしたら、光栄と思うべきなのかもしれないが……。だがフレディは高野の情欲を見破れなかった。思う様嬲られてしまった自分は彼らの事を馬鹿にはできない。
「彼は外国に行った事は?」
「イギリスの大学に留学して卒業している。そのまま数年働いていたようだな」
「その割には下手な英語ですね」
経歴を疑うフレディに、貴明はにやりと笑った。
「あれには気をつけたほうがいいぞ。ゲイらしいから」
「……っ……そうですか」
先ほどされた事を知っているのか、と、フレディは椅子に座った貴明を見下ろした。貴明はノートパソコンを閉じると頬杖を突いた。
「まあ大丈夫か。お前もゲイだし」
「ばかな事を言わないでください! 確かに私はアウグストを愛していますが、普通に女が好きですよ! アウグストが男だから好きなんじゃない、アウグストだから好きなんです!」
「……だからゲイなんだろう?」
不審そうに眉を潜めると貴明は立ち上がり、隣の私室へフレディを誘った。そこには既に酒が用意してあり、貴明が自らグラスに注いでフレディに手渡した。
「ご自分が対象にされたらとか、考えた事もないのですか?」
深夜、自分のテリトリーに呼ぶなど、誘っているのかと思われても仕方は無い。しかし貴明は動じた様子も無く、ソファに座るとグラスを一気に煽る。フレディは酒の臭いをかいで顔をしかめた。よくもまあこんなキツイ酒を一気に飲むものだ。
「僕を押し倒せるならやってみたらいいよ」
「まあ……、貴方を押し倒したいとは思いませんね。気持ちが悪い」
「雅明と同じだろう?」
「アウグストと貴方は顔しか似ていない。冷酷で真っ黒な帝王など、押し倒したい男はいないでしょうよ」
「ふ……」
貴明は含み笑いをして、空になったグラスに酒を注いだ。そして立ったままのフレディのグラスに自分のグラスをカチリと当てた。
「では乾杯しようか。お前のアウグストに……そして……」
「そして?」
「いや、いい……では、乾杯」
「……乾杯」
喉を通っていく酒は、封印しようとしていたものをどろどろに溶かすかのように熱かった。