清らかな手 第2部 第02話
またかと思いながら、フレディはペットボトルの水を窓の外の庭に捨てた。運ばれてきた昼食も恐らく駄目だろう。ビニール袋に投げ入れると口を結んでゴミ箱に捨てる。腹が減って仕方が無いが、これはもう外食するしかなさそうだ。
ボディーガードと言っても、屋敷の中は平和そのものでまず侵入者など無い。黒の剣の時のように常時気を張るといった事は皆無だった。どちらかというとフレディの仕事は情報分析が圧倒的に多く、ボディーガードの仕事は殆ど無かった。社長の貴明を護る役割の者は決まっていて、貴明の気まぐれで時々フレディが指名されるといった按配だった。
それなのに、だ。
最近食事に妙な薬が混入されるようになった。眠り薬が圧倒的に多く、後は得体の知れないしびれ薬のようだった。薬に関してはフレディは鼻が利くので直ぐにわかる。もし鼻が感じなくても、少し食べただけでわかってしまう。
「俺に何をしようっていうんだ……」
邸の人間は誰も信用できない。居なくなったほうが安全だと思っている者は大勢居る。あと少しで契約期限が来るのだから、それぐらい我慢すればいいのにと思う。よほど目ざわりに思われているのかと苦笑しながらも、それならなぜ一気に殺せる猛毒を入れないんだろうとフレディは不思議に思った。
人一人の死ぐらい、闇に葬り去る力をこの邸の人間は持っているというのに……。
契約期限まで、あと三日だった。
「薬を入れられている?」
貴明が眉をひそませてコーヒーカップをソーサーに戻した。フレディは頷きながら貴明の妻の麻理子が入れてくれた、コーヒーを飲んだ。
「僕の食事は皆麻理子が作るからな。食材は全て調べさせているが、今のところ混入はないし、他の物も入れられていると聞いたことは無い」
「それならば、いいのですが」
やはり狙われているのは自分だと思いながら、フレディはコーヒーに映る自分に目を落とした。貴明が執務机の前に立っているフレディを見上げる。
「ではすべて外食しているのか?」
「ええ……、まああと少しの辛抱ですので」
フレディが微笑みながらソーサーを机の上に置くと、貴明は残念そうに溜息をついた。
「できればずっと居てもらいたいのだが。お前は知識も豊富だし、信用できる」
「知識など……」
「お前は絶対に僕を裏切らない。他の奴はわからないがな」
「…………」
「油断がならない中で、信用できる人間は多く居たほうがいいだろう?」
鷹の目が鋭くフレディを射抜いた。フレディはそれをかわして黙って部屋を出た。
そのまま庭に入り、いつも通っている雅明の墓の前に立った。墓と言っているが墓石は無く、花が咲き乱れているだけである。
雅明の遺言だった。火葬の上、骨は粉々にして土に埋めて欲しい、そして花をその土に植えて欲しいと。花を植えたのはフレディだった。
(……アウグスト)
繊細な花弁が、雅明の優しい指のようにフレディの唇に触れた。
(お前はきっと天国に居るだろうな)
この庭よりももっと華やかでいろいろな花が咲き乱れる神の庭で、今頃は昼寝でもしているかもしれない。断薬の苦痛や望まないセックスから解放されて、おだやかな笑みを浮かべているだろう。
「水なら、先ほどメイドがあげてましたよ」
不意に背後から高野の声が響き、フレディは振り向きざま横に飛びずさった。
「……そんなに警戒せずとも。邪魔はしたくなかったのですが、社長からの伝言がございましてね」
「…………」
「契約満了日まで、秘書の高野湊につけとの事です」
「…………」
頷かないフレディに、高野はやれやれといった感じで眼鏡のずれを人差し指で直した。
「社長の命令は絶対でしょう? あと三日間ぐらい我慢して下さい」
「……社長に何を言った、お前は……」
ざあっと風が吹き、二人の髪や服をもてあそぶ。フレディは睨んでいるが、高野は特別に表情を変えることも無く言った。
「特に何も。社長の人事に私ごときが口を挟めるとでも?」
「…………」
高野はフレディの横に立ち、そのまま雅明の墓の前にしゃがみこんだ。
「おや? こんな所にスズランが咲いていますね?」
「……アウグストが好きだった花だ」
「そうですか。雅明様は花など愛でる様な方ではなかったと伺っておりますが」
スズランの葉先を撫でる高野をフレディは注意深く見つめた。特に怪しい動きは見受けられないが、しきりに警鐘が鳴り響く。
「お前達にアウグストの何が分かる。何を望み、何を愛していたかも知らないくせに」
「これは手厳しい。命日の前にこの邸を去る貴方には言われたくないですが?」
「日本人だけだ、そんなものにこだわるのは」
すっと高野の冷たい手がフレディの握り締められた拳にそえられた。振り払おうとしてフレディは引き寄せられて、抱きしめられる。
「…………っ」
「まあ、そう気負わずに最後の三日間くらいは笑ってください」
「誰が……」
突き飛ばされたフレディは、転びそうになって危うく踏みとどまる。そんなフレディに高野はそっけなく言った。
「さあ、早く来てくださいね。私の仕事場は佐藤邸の執務室だけじゃないんです。隣の本社ビルの秘書課の方が主なのですから」
「……わかった」
フレディは表情を消して先を歩く高野の後ろに続いた。どうと言う事はない、あとたった三日の辛抱ではないか……。
秘書課の二人が続けて季節はずれのインフルエンザにかかり、その分の仕事をにわか秘書のフレディに回されて、フレディはてんてこ舞いになった。幸いな事に、買出しやデータ入力が主な仕事でスケジュール管理や接客応対はなかったので、フレディはそつなくこなせた。
苦手な高野と居る時間は殆ど無く、三日間はあっという間で、すぐに最終日になった。
「ミッドガルドさん。午後の石垣工業様の手土産買ってきてくれる?」
「いいですよ」
「セ・ラ・ヴィの苺ロールケーキを頼むわ。電話はしてあるから……」
「わかりました」
ドイツ語に訳していた書類を置き、フレディは女性秘書からお金を受け取ると、ホワイトボードに買出しと書く。
「高野室長は?」
「ああ、室長は社長と一緒に会議に出てるわ。緊急時以外誰の電話も取り次ぐなとの事よ。まあ近いんだから大丈夫よ」
フレディは少し頭を傾げたが、二人が言うのならそういう事なのだろうと思いなおした。
「そうですね。もし私が帰る前にお戻りになったらお伝え下さい」
「わかりました、気をつけて」
外出する際、屋敷では貴明、本社では高野に必ず口頭で言付ける事が義務になっていた。それは異様な決まりだったが、信用されていない闇の住人の義務だとフレディはなんとも思っていない。佐藤貴明に雇われている人間達にとって、敵対する人間と接触される事はたまった事ではないであろうから……。
セ・ラ・ヴィは佐藤邸の本社から徒歩20分の、駅前の裏道通りにあった。少し敷居が高い洋菓子の店だが、いつも混雑している。しかし、裏道で流行っているのはこの店だけで、あとは人は少なくひっそりとしていた。
目当ての菓子を買ったフレディは、店舗の角を曲がり、表通りに出る細い道に入った。陽射しが入りにくいこの狭い道はじめじめとしていて、人通りが全くない。両隣の家や店舗のいらないもの置き場になっているらしく、ゴミ箱がところどころに置かれひどい腐臭が漂っていた。
(これがなければ楽しい買い物なんだが)
店の右手の道を帰ればいいだけの話だが、その道もかなり狭く店へ続く行列で混雑しているのでフレディはいつも左手のこの裏道を利用するのが常だった。貴明の妻の麻理子がこの店のケーキが好きで、フレディはしょっちゅう買出しに出されていた。手土産のほかにこの麻理子への菓子も余分に買ってある。
静かに歩いていたフレディはいきなり走った。
その刹那、フレディを銃弾が襲う。相手はサイレンサーをつけているようで銃声はかなり静かだ。はるか後方のゴミの山に狙撃者はいる。
「くそっ」
フレディは銃を取ろうとして、丸腰である事を思い出して舌打ちをした。狙撃者が居る所は分かっているが、反撃ができない。ゴミの山に隠れてフレディは息を潜めた。殺気はまだ漂っており、狙撃者はフレディがゴミの山から出てくるのを待っている。
(何故今頃になって。組織を抜けて二年になるというのに……)
じゃり。
出て来ないフレディに焦れたのか、足音がゆっくりと近づいてきた。しかし今動けば撃たれる事は確実だ。フレディはゆっくりと足に力を入れた。ゴミの山はかなり高く、フレディの身体がすっぽりと隠れる。ゴミに出されていた錆びた鉄棒を握り締め、攻撃に備えると心がしんと落ち着いた。
狙撃者の距離を掴んだフレディは鉄棒を突いた。狙撃者は鉄棒をかわして発砲し、その弾がフレディの左足の太腿を掠めた。フレディは怯まず拳銃を握っている手に鉄棒を振り落とす。しかし、狙撃者はそれもかわした。
フレディは身の軽さには自信があったのだが、相手はそれを上回る素早い身のこなしだ。次の攻撃の前に黒い影がくすくす笑った。
「なかなかだね。フレディ」
「……っ!」
聞き覚えのある声にフレディは顔をかっと熱くさせた。目の前で銃を構えているのは高野だった。しかも笑っている。
「何のつもりでこんな事を」
「何のつもり? 君こそどういうつもり? 外出時は社長か私に必ず口頭で連絡ではなかったかな」
「緊急時以外は取り次ぐなという事だっただろう!」
「関係ない。契約違反だ」
フレディは呆れて口が塞がらない。
「殺気は本物だった」
「本気で殺してやろうと思ったからね」
そう言いながら高野が拳銃を胸ポケットにしまう。日本では警官以外の人間は拳銃の所持を許されていないのに、何故この男は持っているのだろうとフレディは不思議に思う。佐藤邸のボディーガードたちでさえ普段は持っていない。暴力団などの闇の世界に身を置かないとそんなものを入手するのは不可能だ。やはり高野はただの秘書ではない。弾筋は相当な実戦経験があると思わせるものだった。
「つかいに出されただけだ」
「それでも電話すべきだったね。社長はお怒りだ。早く帰りますよ」
底冷えがするような声で高野が言う。この男の口調に契約違反以外の何かを含んでいる事にフレディは気がついたが、それが何かさっぱり検討がつかなかった。表通りに停車していた高野の車にフレディは押し込められた。
本社ではなく佐藤邸へ戻ると、貴明が鋭くフレディを睨んで左手を軽く手を上げ、高野以外の人間を執務屋から追い出した。
「…………申し訳ありませんでした」
頭を下げたフレディの足元に貴明が書類を数枚投げつけた。拾ってそれを読んだフレディは目を瞠る。
「これはっ……!」
「どういう事か、教えてもらおうか。裏切り者」
見に覚えがまったくない。しかしそれはフレディが黒の剣に送っていると思わせる、佐藤グループの機密文書の暗号文だった。こんなものを作った覚えもなければ、送った記憶も無い。誰かが仕組んだ罠である事は確実だった。
「私は、やっていません」
そう言うフレディの足を高野が乱暴に払った。床に転がったフレディを高野が押さえつけ、両手を自分のネクタイで縛った。フレディは貴明を見たが、やはり無表情に自分を見下ろしているだけだった
フレディがずっと働いていた情報部は機密文書を扱う。その内容はすべて暗号化されていて、利用する時はすべてIDとパスワードが必要だ。しかもそれは厳重に管理されていて、一人だけのパスワードでは開かない仕組みになっている。同じ時間に社長の貴明がパスワード入力しなければ駄目なのだ。
貴明のパスワードは不定期に変わり、本人しか分からない。
フレディは亡くなった雅明と同様優れたハッカーだった。その人間性を信用して貴明がホワイトハットとして情報部に組み込んだのだが、フレディはその信頼を裏切った事になる。
フレディの裏切りに、貴明が残忍な氷の刃を突きつけた。
「お前のコンピュータからの不正アクセスがこんなにある」
「私なら、自分のコンピュータからアクセスなどしません。それは、誰かが仕組んだ罠です!」
フレディは顎を貴明の靴で軽く蹴られた。
「罠……ねえ? そんな不心得者はうちには居ないはずだがな」
「社長!」
「なら何故、伝言のみを残して外出した? しかも空港直通の駅があるところを歩いていただろう? 逃げる算段をしていたとしか思えないな」
「逃げなどしません! ぐっ……」
腹に貴明の蹴りが入った。そのままぐいぐいと押さえつけられ、嘔吐しそうになるのをフレディは懸命に堪えた。
「しょっちゅうドイツに電話しているだろ? 携帯の履歴を調べられている事をお前は知らないらしい」
「していません!」
日本へ来てから日本以外に電話した事などない。
貴明がふっと笑う。
「僕は甘すぎたようだ。やはりスパイだったお前にこんな事をさせるのではなかったな。信用できると言った雅明の言葉は間違っていたのか……、あれの人間を見る目は麻薬に打たれて狂ってしまったらしい」
「社長!」
懸命に横に首をふるフレディから足を離し、貴明は高野に向き直った。
「こいつの部屋から没収したものを出せ」
「はい」
フレディは高野が持っている小さな瓶を見て、動揺せずには居られなかった。
「それは……」
植物が根ごと液体に浸されている、そのガラス瓶……。
「雅明の墓にお前はスズランを植えていただろう。これは人を死に至らしめる毒を持っている。そしてお前は黒の剣から僕を殺すように言われていただろう!」
「していません。するはずがないっ」
「まだしらを切るか。……高野」
「はい」
後ろに控えていた高野が、冷たい美貌の貴明の横に進み出た。眼鏡の奥の目は、窓からの陽射しにレンズが反射して窺い知れない。
「どうしたらこいつは吐くと思う?」
「この男は痛みによる拷問では陥落しないでしょう。慣れていると思われます。……ですから……」
「……快楽、だな」
フレディはそれを聞いて身体を反転させた体勢からドアに向かって走り出した。冗談ではない、性的なリンチを受けるなど! アレクサンデルの館での雅明を思い出し、フレディは治まりかけていた嘔吐感に耐えながら走った。
だがそこまでだった。ドアにたどり着く前に背後から抱きついてきた高野に押し倒され平手打ちにされた。その細身の身体からは想像もできなかった強い衝撃に、フレディは口の端から血を滴らせて喘ぐ。
「本性見たり……だな。フレディ」
「私はやっていない。何故アウグストの弟である貴方に……」
高野の容赦ない平手打ちがまたフレディの頬を襲った。
「いい加減に観念なさい」
押さえつけられているフレディの横を、貴明が通り過ぎざまに言った。
「吐かせろ。期限は……明後日の朝8時だ。僕の私室を貸してやる」
「お任せ下さい」
貴明の後姿にフレディは叫んだ。
「お待ち下さい! それは貴方を殺すために作ったのではないんですっ……あ、ああっ!」
スラックスの上から力任せに握られ、フレディの額に脂汗が滲んだ。壮絶な痛みに耐えている間に貴明は部屋を出て行き、釈明のチャンスはついえた。鳩尾に熱い衝撃が走り、閉じた瞼の裏に逢いたい人間が浮かぶ。
(アウグスト……)
もうこの世にはいない、恋人の繊細な笑顔がゆっくりと暗闇に消えていった。