清らかな手 第2部 第09話

 仕事中にこんな事を思うのは不謹慎だが、退屈だとフレディは欠伸をかみ殺した。上司の貴明はそんなフレディに背を向けて、将棋に夢中になっている。どこから見ても美麗な西洋人顔の貴明が将棋を指している姿は、ひどく違和感があるものだった。藍染の着物も似合っているようで似合っていない……。フレディの分も用意されていたが、着慣れないものを着ると仕事ができないと断った。

 紅梅会という聞きなれない会合の実態は、ゼネコンの重鎮が集まる将棋会だ。ゴルフなどならわかるのだが、何故将棋なのかさっぱりフレディにはわからない。

 関係無い事だが、チェスに慣れているフレディには将棋のルールが気に食わない。相手から取った駒を自分の陣へ足せるというのを卑怯に感じる。貴明は相手から取った駒でまた意地悪な攻撃を仕掛けていた。

「佐藤さん、腕をあげましたねえ……」

 貴明の相手をしていた初老の男性が、まいったなとはげ頭を撫でている。

「前回、田端さんには惨敗でしたからね。少し勉強したんですよ」

「ははは……、やはり同じ手は通用しませんか」

「悔しくて、後から研究しました」

「本当に参ったなあー。詰められてしまった」

 大体六十畳ほどある会場で、そんな感じの会話が繰り広げられている。人数は二十名ほどだろうか。社長、会長クラスばかりで平均年齢も50代が中心だ。20代の貴明はもっとも若い。

「佐藤君の秘書の……えーと、君、名前は何だったかな」

 貴明達の隣で一局終えた美丈夫な男に、貴明の後ろに座っているフレディは声をかけられた。

「フレディ・ミッドガルドです」

「ミッドガルド君、暇そうだからどうかね一局。佐藤君も構わないだろう?」

 遠慮しますと言おうとしたフレディだったが、貴明がにやりと笑ってフレディの腕を引いて前へ連れ出した。

「どうぞどうぞ。退屈でしょうから」

「社長!」

「こっちはまだ決着がつきそうもありませんから。フレディ、こちらは新田建設の代表取締役の新田幹夫さんだ。お相手して差し上げろ」

「は……あ」

 新田の前に座っていた男はさらに隣に移動して、新たに対戦し始めている。しぶしぶフレディは新田の前に座った。新田は若い頃は貴明のような美男子タイプだったと思われ、妙に甘い雰囲気のある男だ。だがどこか油断ならない影がある。日本特有と思われるその影はなんとも異色な艶やかさも持ち合わせていた。

「ミッドガルド君は将棋は初めてそうだね」

 駒を並べながら新田がのんびり言った。

「チェスならわかりますが」

 ルールを説明してもらい駒を進める。指しながらフレディは新田の視線の先が気になった。新顔だから仕方ないにしても、舐めるように見られるのは気分が悪い。

(まさかこいつ、ゲイじゃないだろうな……)

 隣では貴明と田端が楽しそうに笑っている。自分にはこんな気味の悪い男を押し付けていいご身分だと、わけのわからない怒りがお腹の底を渦巻いた。ゲイは高野だけで十分だ。

「ミッドガルド……というと、ドイツから来たんだね。日本はどうかね」

「いい所です。ですがもう少し文化を大事にするべきではないかと。古い町並みや風景が壊されていくように思えましたね」

 角行を進めるために開けた部分に、新田の飛車が滑り込んできた。桂馬を進めたが、あっさり取られ。新田の飛車が成駒になってしまった。詰まれるのはもうすぐだろう。チェスだったら勝てたかなと思ったフレディだが、それですら勝てた事がないのを思い出し、一人苦笑する。

「……そう思ってくれるとうれしいね。だから数年前にこんな将棋の会なんか作ったんだ。おっと歩はここで成駒になるんだ、ふうん、なかなかだね。しかしここで王手だよ」

 勝負は10分にも満たなかった。

「ご教授ありがとうございます」

「いやいや。君も初めてにしてはなかなか良かったんじゃないかね」

「光栄です」

 新田はまだ何か話したそうにしていたが、フレディは早々に貴明の背後に戻った。しばらくの間フレディをじっと新田は見ていたが、完全に空気を遮断したのを見て諦め、今度は貴明に話しかけた。

「佐藤君。いつもの高野君はどうしてるんだね? 彼は確か二段だった」

「……こういう場は苦手になったと言いましてね」

 貴明の声の温度は変わらないが、どことなく冷たい雰囲気が漂った。貴明の表情は見えないが田端に話すような屈託のなさが少し欠けていた。

「そうかね。残念だ」

「ええ、とても……僕もそう思います」

 しん……と、一瞬空気が冷えた。

 わずかな沈黙で居づらくなったのか、新田はもよおしたようだと言って部屋を出て行った。相変わらずだなあと田端がおかしそうに笑いながら局を再開する。フレディは今の貴明の様子に、新田建設はどういう会社だったかと頭の中でデータをめくる。

(新田建設は……昨年赤字だったとしか印象がない)

 この会に来る前に目を通したデータには、新田建設に関する記述がほとんどなかった。もともと佐藤グループとは交流がない会社らしい。

 外出する貴明に同行する秘書として行動を始め、二ヶ月が経った。最初の頃はいつトビアスが現れるか、不審な輩が現れるかピリピリしていた。しかし不審者は全く姿を現さず平和そのもので、フレディは肩透かしを食らったような気分だった。トビアスもとっくに日本に居る筈なのに、一向に姿を見る事はない。

(これじゃあ本当にただの秘書だ)

 今日こそはと思ったこの会合も、ひたすら将棋を指すのが主旨だという。全てが頓珍漢で意味不明に思えるフレディだった。

「王手」

 静かな貴明の声が、局の終了を告げた。

 夕食の席へ移動する前に貴明は時間をくれと言って、ロビーで愛妻の麻理子に電話を始めた。それはそれは甘い声でなんやらかんやら言っている。あんな声で囁かれたら、麻理子はさぞ天にも昇る心地だろう。フレディには肌が泡立つ気持ち悪さだったが。

「今終わったところ。うん、今回は勝ったよ。前回はあのネックレス取られたけど今回は、ふふ、まあ帰ってのお楽しみ」

 なんと賭け将棋をしていたらしい。お金ではないからよいのか? と考えている横で田端にニコニコ話しかけられた。

「……ミッドガルドさん、でしたか?」

「はい」

「佐藤さんはいい社長だ。君は恵まれてるよ」

「はい」

 どこがいい社長だと内心で舌を出しながら、フレディは表向きな返事をする。田端ははげ頭をまた撫でながら、ソファで麻理子と会話を続ける貴明を見やった。

「まだ知り合いになって数年だが、彼に出会えて本当に良かったと思っているよ。しかし彼は優れている。優れすぎている……それが佐藤さんの弱点だ」

「わかっています」

 才に溺れ落ちていく人間は多い。しかし田端は右手を軽く振って、フレディの同意を否定した。

「才に溺れるのが弱点ではない。佐藤さんが、その才を嫌っているから弱点なんだ」

「意味がわかりませんが」

 はげ頭を撫でるのを止め、田端は子供を見るような目で貴明を見ている。フレディはそれをうらやましいと思った。こんな温かな視線を向けてくれる年長者は自分には存在しなかった。……雅明にも。フレディにとって、年長者はいずれも自分を食い物にしようと企む輩で、常に敵となる存在だった。

「私みたいな凡才にはわからないんだがね。どうも彼は自分を嫌っていたんだよ」

「嫌っていた……」

「この紅梅会にはじめて現れた時、この若さでなんと巨大で重たい責任を背負っているんだって、可哀想に思ったよ。あの時の彼は氷の剣に見えた。溶けないように必死に自分を冷たく凍らせて、その刃で戦い続けているように」

 ロビーは沢山の男達が溢れかえり、談笑のざわめきの中で掠れ気味の田端の声は少し聞きづらかった。

「早世した前社長に代わって、あの年で父親のような連中を抑えるのは大変な事だ。56の私でも大変なのに彼はよくやっている。いつも隙を見せない彼を心配したものだったが、一昨年麻理子さんと結婚した時には本当にほっとしたよ」

「そうですか」

「だからね、ミッドガルドさん」

 並んで立っていた田端が、ふいにフレディに身体の向きを変えた。

「佐藤さんを憎まないでやってくれ。頼むよ」

 フレディはわずかに目を見開いた。自分は殺気を出していただろうか。瞬きを繰り返すフレディに田端はかかと笑った。

「中年の世迷言だよ。外れているなら余り気にしないでくれ。じゃあ私はこれで失礼するよ」

「……はい。お気をつけて」

 納得しないものを腹の中に抱え、フレディは頭を下げた。しかし田端はそんなフレディの横を通り過ぎ様、爆弾を投げつける。

「新田建設の社長に気をつけるんだ。君に目をつけてる……」

 今度こそ驚いて身を起こしたフレディだったが、小太りの田端の後姿は振り返る事もなくロビーから消えていった。

「おい秘書。僕はお腹が空いて仕方がないんだが」

 ぼんやりしていたフレディは、貴明の声に現実に引き戻された。いつの間にか貴明が通話を終えて自分を見上げている。これではボディーガード失格だ。

「予約をとってあります。そこへ行きましょう」

 貴明をレストランへ誘いながら、フレディは新田の姿を目で探した。新田は会のメンバーと連れ立って歩き出したところだった。ロビーの出口へ向かっているので彼は帰るらしい。

「……あいつとはあんまり関わり合いになりたくないね」

 貴明がぼそりと呟いた。

「では何故、先ほど彼と一局指し合わせたんです?」

「特に何も。断ったら波風が立つから面倒。それだけ」

 よくわからない男だと思いながら、フレディはホテルの廊下の先を指した。

「……こちらです」

「ふうん。上品そうでいいところだね」

 志水という日本料理店へ二人は入り、一番奥の部屋へ案内された。貴明に続いて靴を脱ぎ、小さな座敷に上がったフレディは障子を静かに閉めた。

「お酒が欲しい」

 座布団に座った貴明が、上着を脱ぎながら言った。

「いいでしょう。今日の予定は終わりですから」

 午後の三時から六時までの紅梅会の後はフリーだ。ただ今日は、佐藤邸のある東京から少し離れた所に来た為、このレストランがあるホテルに泊まる事になっている。

 貴明が頼んだ日本酒「洗心」がすぐに運ばれてきた。フレディが貴明のお猪口に酒を注ぐと貴明はぐいと飲み干して、フレディにもお猪口を差し出した。

「お前も飲め」

「お言葉ですが、勤務中ですので」

「仕事は終わったけど? まあ、そう言うと思ってね。高野をここに呼んだんだよ。あとボディーガードの石倉も」

 ぱんぱんと貴明が両手を高く鳴らした。すると隣の襖が開き、高野と石倉、他ボディーガード二人が現れた。

 確かに行く先も、夕食を摂る所も室長である高野には報告していた。しかしまさかここに現れるとは思っていなかった。状況を飲み込めないでいるフレディに、高野がいつものように笑った。

「夜が楽しみですね」

 やはり貴明は悪魔だと、フレディは思った。

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