清らかな手 第2部 第19話

 午後十時を回った頃、ようやく狂宴は終わりを告げ、フレディは責め苦から開放された。深く眠っているフレディの身体を丁寧に洗ってやっているトビアスを見て、純がバスの湯に浸かりながら言った。

「旦那様ってさ、好きになればなるほどいじめちゃうんだよね」

「……何の話だ、唐突に」

 シャワーのコックを閉め、トビアスは洗い終えたフレディを横抱きにして広いバスの隅に座った。三メートル平方あるバスは大人三人が余裕で入れる広さだった。

「だって僕とか他の男娼の時と違って、抱き方が段違いにいじわるだもん」

「そうだったかな」

「うん」

 純は無邪気に微笑み、目を覚まさないフレディの頬に、手の水鉄砲で柔らかく湯を飛ばした。

「そういやフレディって僕と同じで身体の毛が薄いよね。髭なんかほとんどないもん」

「……どうでも良い事を見てるんだな、お前は」

「だってさー……、ああもういいよ。旦那様みたいな人に僕達の気持ちなんかわからない」

 ぷんとすねる純を気にも留めず、トビアスは言った。

「明朝三時に起きろ。奴らが来るのは夜明け前のはずだからな」

「なんでわかるのさ」

「情報提供者がいる」

「……まさかハゲのおっさん?」

 トビアスはにやりと笑った。

「……ま、どうでもいいけどさ。それよりフレディにもう一回6yh打つの? 打ったら確実に廃人だけど」

 恐ろしい事をさらりと純は口にした。フレディは眠っている間に自分の運命が決められているのに、目覚める事ができずに眠り続けている。トビアスはその閉じられている瞼をそっと撫でてキスを落とした。

「……そうした方が楽かも知れんな。フレディも我々も……」

「ふふふ。かーわいそーなフレディ♪ じゃあ僕準備してくるね」

 ざばっと水音を立ててバスから出ると、純はスキップがしそうな足取りで出て行った。二人きりになったトビアスは、フレディに何度もキスをして抱きしめた。

「ドイツへ帰ったら、お前を苦しめた偽物の家族に、あの馬糞臭い馬小屋で乱暴な馬の世話をさせよう。蹴られようが噛まれようが治療もしてやらない、風呂もベッドも与えない。馬の餌をおこぼれにやり、馬に怪我をさせたり世話をさぼったりしたら、容赦なく鞭をとばしてやる。あんな奴らにはそれが一番ふさわしい」

 刑務所で出会った時、フレディは奇行が目立つ少年だった。人より見目が良い容姿をしているだけにそれは際立っていた。服を着替えない、その辺で用を足す、食事は作業した汚い手で手づかみで食べようとする、ベッドに入らず廊下でもトイレでも外でも、寝転がるスペースがあれば平気で横たわって眠っていた。

 あいつは言葉が話せる狼少年だ、と有名だった。おなじみの刑務官たちによる暴力も平気で受け、殴ろうが蹴ろうが何も言わない。凍りついた目でじっと見返すだけだった。手を焼いた刑務官たちはトビアスの独房にフレディを放り込み、こいつをなんとかしろと相部屋を申し付けてきた。一人一部屋が鉄則の刑務所内で、それは異例中の異例だった。

「私が皆お前に教えてやったんだ。顔の拭き方も、食器の使い方も、マナーも、何もかも……」

 トビアスのおかげでフレディは刑務所で過ごした数年間で、見る間に人間らしさを身に付け、洗練された物腰を持てるまでに至った。

「恋人に裏切られたお前を組織に受け入れたのは私だ。生き方を教えたのも私だ。それなのにお前はあのアウグストを……、いや、もういいか……、お前はもう私の物なのだから」

 雅明を熱愛していたフレディ。アンネとアンネの実家のマフィアが恐ろしくて近くに居ながらも、想いを告げられなかった。

 着替えさせたフレディをトビアスがベッドに寝かせているところへ、注射器の載っているトレイを持って純が部屋へ入ってきた。

「用意できたよー。うふふ、希釈なしで丸々一瓶。効き目は普通の10倍! あっという間に廃人さんだよ」

「ん……」

 目覚めないフレディの腕を取り、トビアスは何のためらいも無く、人としての尊厳を奪う注射をした。純が微笑みながらその恐ろしい光景を見ている。

 

『こんにちは』

 雅明の葬式の終わった夕方、自室でぼんやりしていたフレディは部屋に入ってきた高野にそう挨拶され、これは誰だったか……と記憶を掘り返した。

『……確か、秘書の……』

『高野湊と申します。一度だけですね顔を合わせたのは』

 そう言われて、高野の人の心を探るような目つきが嫌だった事を思い出した。この黒い目は隠しておきたい辛い思い出を見透かして露呈させ、自分を何もできない子供に戻してしまう。

 フレディはあからさまに目を逸らし、テーブルの上に頬杖を突いた。そこには洋酒の瓶とグラスが置かれている。視線の先には、つい先日まで向こうから雅明が微笑んでくれていたベッドがある。だがもう彼はいない……。フレディは、慣れないお酒が必要なほど寂しくて仕方がないのだった。

『それで、何の用だ』

 早く出て行けと言う言葉を飲み込み、しかし、不快極まりないんだという口調でフレディは言った。高野はそれを綺麗に無視して近寄ってきた。

『何か不足はございませんか?』

『……別に、何も』

『あるでしょう? 遊び暮らせるだけのお金とか。社長が、貴方と雅明様は結婚していたようなものだから、財産分与するとかおっしゃっておいでです。数千万単位の』

 挑発するような言い方で馬鹿にしていると思ったが、フレディは黙って首を横に振っただけだった。

『アウグストの財産じゃない。アウグストの財産であっても何もいらない。金には全く困ってない。だけど……そうだな、できるのなら一年ぐらいはここに居たい。』

『……一年?』

『暫くはアウグストの面影に浸っていたい。大丈夫だ、多分直ぐに慣れる……。慣れたら出て行くから……』

 今は無理そうだが、と、グラスの洋酒を揺らすフレディに高野が言った。

『ですが社長は』

 フレディは激しく横に首を振った。

『何億ユーロ積まれたってアウグストは帰って来ない。金では俺の太陽になれない!』

『貴方は……』

 力なくフレディは笑う。その命が溶けて消えていくような儚さに、高野が目を奪われていることも気づかず、フレディは酒を飲もうとして止め、グラスをテーブルの上に戻した。

『これから一生真っ暗闇だ。俺は、それに慣れなくてはいけないんだ……』

 そう言って俯いた時、高野の指が髪を梳いていくのを感じた。ずうずうしい奴だと思いながらも、フレディは妙にうれしかった。それは月の明かりの様に静かに優しく、寂しいフレディを癒してくれた。

 夢から目覚め、フレディは暗い天井を見上げた。まだ夜は明けていないようで相変わらず暴風雨が泣き喚いている。

「…………?」

起き上がろうとして力が入らない事に気づいた。渾身の力を込めて左腕を上げ、そこに新たな注射針の後を発見する。

(……寝ている間にやられたか。どれだけ打たれたんだろう)

 たかが左腕を上げるだけで猛烈な疲労が襲ってきて、フレディはぐったりとして目を閉じた。ざあざあと窓ガラスを伝う雨の水音は鮮明に聞こえるというのに、自分は動く事が難しい身体になってしまったようだ。

 声を出そうとして口を動かす事も一苦労で、吐息の様な音しか出てこない。

「目覚めたか」 

 ベッドの左側から足音が近づいてきた。身体を動かす事がとても疲労を伴う事がわかっていたので、フレディはそのまま天井を見つめている事にした。やがて想像通りにトビアスの素顔が目に入った。

「6yhを限界近くまで打ったから動けないだろう? 安心しろ、何もかも私が世話をしてやるから。これから夜が明けるまでに、まっすぐに空港へ向かってドイツへ帰る」

 ドイツへ帰る? 冗談じゃない……。そう思ったが、肉体と精神が切り離されてしまったようで表情一つ動かす事はなかった。

(これも6yhの効果だろうな)

 ………………?

 おかしい。

 冷静に判断できる自分に、フレディは心の中で首を傾げた。雅明が麻薬の毒で狂っていた時、こんなふうだっただろうか。本能のままに笑って泣いて喚いていなかったか。それなのに自分は身体が動かないだけで、頭はいつもと同じように働いている。

 その冷静な頭の動きに比例する様に、次第に身体中に力が戻ってくるのを感じる。フレディはさっきは動かすのに疲れて仕方が無かった指先を、トビアスに隠れて動かしてみた。

(……さっきよりは、動く)

 フレディの心の中に希望の様なものが芽生えた。ひょっとするともう少ししたら自分は元のように動けるかもしれない。しかし今それに気づかれのはまずい。フレディは動けないふりを続けた。

「ボス、お車の用意ができました」 

 見覚えのある黒の剣のメンバーが現れ、トビアスに言った。抱き上げられて初めてコートを着させられている事にフレディは気づく。長い髪は左横にまとめて括られ、胸の方へ流されていた。

 雷がまた鳴り始め、夜なのに昼間の様な眩しさの閃光が、窓越しに暗い室内へ走った。ズウ……ンと地響きが建物が揺れ、その中をフレディはトビアスに横抱きにされて廊下へ連れ出された。

 その時だった。

 トビアスの前を歩いていた黒の剣のメンバーが、廊下の角に向かっていきなり発砲した。耳を劈くような銃声がフレディの耳にも響き、フレディはその音の大きさに目を瞠った。すぐにトビアスが元の部屋に戻りドアを閉める。激しい銃声がドアの外で飛び交い、いきなり小さな別荘の中が騒々しくなった。暴風雨が吹き荒れているというのに、外で何故か火の手が上がり、その中を幾数台もの車が近づいてくるのがわかる。

「……どうやって」

 呻くような、信じられないというような、初めてトビアスが動揺する声をフレディの耳にした。フレディを抱きしめる腕に力がこもり、嫌悪感と復讐の怨念の他に、微妙な感情が生まれた。

(トビアスは本当に俺が好きなのか?)

 フレディが自分を抱えているトビアスを見上げた時、ドアが大きな音を立てながら床に倒れた。そこから一人の男が姿を現し、トビアスが銃を構える。

 その銃口の先に、同じように銃口をトビアスに向けた高野が立っていた。

「フレディと弟を、返していただきましょうか?」

 雷が高野に目もくらむような光を投げかけ、雷鳴を轟かせた……。

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