清らかな手 第2部 第21話

 凍りつくように冷たい。

 息が出来なくて、苦しい。

 抱きしめられているから苦しいのではなく、この氷の様な世界に居るから苦しいのだ。しかし、この世界こそが自分の本来の世界ではなかっただろうか。何も感じず、何も見ず、誰も自分を受け入れず、だから自分も誰も受け入れない。それで十分のはずだった。

 だからこのままでもいいか……。目を閉じて暗闇の波の中で漂っていれば、もうあれこれ悩まずにすむ。

 それなのにいきなり眩しいほどの光が瞼越しに差し込み、フレディは一体何が起こったのかと眇めながら目を開けた。そして白く眩しい世界に目が慣れた頃、見知った人間が微笑みながら溶け出でるように現れた。

それはこの一年以上、逢いたくて逢いたくて仕方の無かった恋人だった。

『……アウグスト』

 恐る恐る名前を口にした。この夢が覚めるのがひどく怖かった。フレディが懐かしさに震えそうになりながら手を伸ばし、もう少しでその滑らかな頬に触れるというところで、雅明が微笑みを崩さないまま言った。

『私に触ると、もう二度と戻れなくなるよ』

 ぎくり、とフレディはその手を止めた。そのフレディに雅明はくすくす笑った。

『お前って相変わらず変な奴。あんなに死にたがってたくせに。あんなにトビアスに復讐するって決意したくせに、高野って奴が怪我しただけで全て消し飛んじゃったんだから』

『自殺を邪魔されたから生きるしかなかった。それに怪我をした奴を放って置けるか』

 言いながら何か弁解じみているなとフレディは思った。雅明はうなずいてはくれたが、からかうような目つきが一層深くなった。

『昔のお前なら何があっても実行したよ。お前がそんなふうになるのは、人を愛した時だけだ。お前は私を愛したように高野を愛してしまったんだ』

『まさか……!』

 違うと言おうとしたのに、その言葉は喉でせき止められて消えてしまった。伸ばしていた手を下ろしてしまったフレディを見ながら雅明は残念そうに頭を横に傾けたが、その目は優しい光を放っていてフレディへの温かな愛情で一杯だった。

『……いいんだよ、フレディ。それが私の望みだったんだから』

『俺はあんなに趣味が悪くない』

 口を尖らせたフレディに雅明が大笑いした。

『はははは! 言えてる。あんな根暗なしつこい変態、お前の手には余るだろうね。だけど、抜けてるお前の穴埋めには最適だ。一級のスパイのくせにお前は愛情に異様に弱くて、それに溺れると何もかも駄目になっちゃうんだから困るよ』

 雅明の背後からあの憎たらしいパウルが現れて自分を睨みだし、もう少し二人きりで居たかったフレディは睨み返した。この雅明は自分のものだからという独占欲はどうだ。厚かましいにも程がある。雅明も雅明だ、恋人の前でいちゃつくな。

 しかし、雅明はいい加減な事はしない男だ。フレディは嫌でも雅明が言いたい事を認めるしかなく、さびしそうにその言葉を口にした。

『来るなって言いたいんだな』

 静かに雅明が頷いた。

『そうだよ。お前は私達の分まで生きて幸せにならなきゃ。そうそう! あの馬鹿家族は天国になんか永遠に来させないよ』

『もうあいつらはいいんだ。俺に家族なんて最初からいない』

 何故か雅明がうなだれて悲しそうに顔を曇らせてしまい、フレディは何か悲しませるような事を言っただろうかと不思議に思った。

『……お前を愛している人間は、お前がそう言う度に悲しくて切なくてたまらない気持ちになるんだ』

『どうして? 俺は本当になんとも思わないんだ』

 だからぜんぜん大丈夫だとフレディが言っているのに、雅明は銀色の睫毛を瞬かせて透明な涙を頬に伝わらせていく。フレディはその涙を拭う為に手を伸ばしたが、パウルがそれを遮って雅明の涙を自分の指で拭った。

『これはお前の代わりに泣いてるんだよ。お前が自分のために流すはずだった涙だ』

『……お前は時々妙な事を言って、俺を困らせる。何も悲しい事などないだろうが』

『お前が悲しくなくても、私は悲しいんだから仕方ない』

 フレディは、パウルが優しさを込めて雅明の涙を拭うのが気に入らない。しかし彼らに触れてしまうと死ぬらしいので、彼を殴ることも出来ずフレディは文句を言った。

『それよりその男が厚かましいからイライラする! ずっとそんな調子なのか』

 子供のようにすねた口調に、やっと雅明が泣き止んで笑った。

『仕方ないよ諦めて。お叱言はお前が天寿を全うしてから聞くから』

『逢えるんだよな? 必ずいつか』

 雅明は最後の涙を拭いて頷いた。

『当たり前だよ、だからお前も死に急ぐ必要なんてない。人間いつかは死ぬんだから、それまで精一杯お日様を浴びたほうが生きた意味があるってものだ……、そうじゃないか?』

『……アウグスト』

 また手を伸ばしたフレディに、雅明が後ろへ下がりながら手を優しく振った。憎らしい事に、パウルがずっとその雅明を横から抱きしめて幸せそうにしている。そうやってパウルと二人で、雅明は自分を待っていてくれるのだろう。

 とりまく白の世界が暗闇の世界へ戻っていく。雅明の声が洞窟の中で話しているように、妙に深く響いた。

『いつまでも、ずっと愛してるから……』

 忘れていた冷たさが甦りフレディはまた息が詰まりそうになった。雅明とパウルは暗闇に溶けるように消え、フレディの意識もそこで再び途切れた……。

 

 目覚めた部屋は佐藤邸の自分の部屋だった。点滴の管が下がっていて、その中で液体がぽたりぽたりとゆっくり落ちている。一月ほど帰っていなかっただけなのにひどく懐かしく、胸の中が熱いもので溢れ返り、フレディは込上げるものを我慢するように瞼をきつく閉じた。

「気が付かれたみたいね」

 小鳥のさえずりの様な声が聞こえ、天蓋のカーテンがさっと開いた。顔を出したのは社長の貴明の妻、麻理子だった。フレディの額に温かな手が押し付けられ、熱はないわねと麻理子は一人ごちて微笑んだ。

「……俺は、死んでなかったんですか」

「そうよ、貴方は生きてるの。お医者様を呼ぶわね……」

 しかし、やがてやって来たのは医者ではなくてあの高野だった。相変わらずきっちりとスーツを着込んでいるが、肩の怪我のせいかどこか動きがぎこちない。

「フレディ、目覚めたのですか!」

 右手を取られ、フレディは今は会いたくなかったなと思いながら目を逸らした。麻理子に助けを求めようとしたが、何故かさっきまで居たのにもう居ない。夫婦揃って余計な気を使う習性があるようだった。

「んん……」

 熱い口付けが降ってきて、結局はこれなのかと呆れかえった。しかし、一方でそれに酔って喜んでいる自分も居る。身体は動くようだったが、やはり力はあまり入らないようで、高野の首に回しかけた手をフレディは諦めた。参った事に、絡みつく舌も、吸い付き合う唇も、何もかも甘くてうれしいと思ってしまう。

「フレディ、良かった、良かった……」

 口を離しても高野はフレディにしがみついて離れず、フレディは重たい男の身体の下で苦しい思いを強いられた上に、暫く経ってやって来た貴明と医者に笑われてしまった。

「俺はなんで助かったんですか?」

 医者の診察のあと、フレディはベッド脇の椅子に腰をかけた貴明に聞いた。その傍で目をギラギラさせて高野が立っている。貴明がいなくなればまた抱きついてくるのだろう。

「高野が助けたからさ」

 な、と貴明が高野を見上げ、高野が黙ってうなずいた。その時、貴明の胸に下がっていたPHSが鳴り、二三応答して貴明は椅子から立ち上がった。

「悪いけど、僕は仕事があるからもう行く。高野もお前も当分ここで休め、何かあったら麻理子を呼べ」

「社長!」

 カーテンを開けて出て行こうとした貴明を、高野と二人きりになりたくないフレディは思わず呼び止めてしまった。貴明は一瞬なんだと訝し気に振り返ってくれたが、すがりつくような目をしているフレディを見下ろして、からかうように口元を歪める。

「なあ……フレディ。お前、なんでトビアスを殺せるほど密着していたのに、殺さなかったんだ? それほど怪我をした高野が心配だったか?」

「な、何を突然っ」

 とんでもない指摘をされ、どもったフレディに、貴明は高らかに笑って出て行ってしまった。ふたりきりになってしまうのが嫌で呼び止めたのに、これでは逆効果ではないか……。フレディにとって気まずさにあふれた甘い雰囲気になり、じっと自分を見つめる高野の視線で身体に穴が空きそうだ。

 目を逸らし続けるフレディの頬に高野の手のひらが優しく触れ、顔どころか身体中の温度が上がる。それでもフレディは横を向き続けた。信じたくない。あの時、銃弾を受けて負傷した高野の事しか頭に無かったなんて事は。

「貴方が死んだら、私も死のうと思いました」

 突然変な事を言い出す高野に、フレディは内心でこいつは馬鹿だと思った。

「貴方が彼らと無理心中させられて湖に飛び込んだ時、私は貴方の事しか考えられませんでした。だから誰の静止も聞かずに、何のためらいもなく真っ暗な湖に飛び込みました。あのままだったら私も貴方も一緒に死んでいたでしょう」

 かすかな息遣いと共に高野の唇が重なり、ぎしりとベッドの軋む音がして高野がフレディの横に寝転がった。

「でも別荘が爆発するとの事で皆結局飛び込んで、慣れている連中が私達を湖岸に引き上げてくれました。あの湖の水は湖底から湧き出ている地下水でしてね、常に近くの川の水より10度程水温が低いそうです。田端さんの山小屋が近くに無かったら、その氷のような冷たさの水で皆凍えて死んでいたと思います。爆発で警察が駆けつけてきて、すぐに皆病院に搬送されたのですが……」

 高野が頬を摺り寄せてきた。フレディはされるがままに高野の腕に抱きしめられて、満足感とも息苦しさともとれるため息をついた。高野はそのままじっと動かず、お互いの心音が気になりだした頃、小さな啜り泣きと共に呟いた。

「私はとてもひどい人間です。……貴方の事が心配で、病院で貴方が大丈夫だと聞かされるまで、湖から引き上げられた直後に弟がトビアスと自殺したと知りませんでした」

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