見つめないで 第04話
できたてのそのホテルは、何もかもが綺麗でとても気持ちが良かった。
オープンしたてで混雑しているけれど、もうすこし日にちが経って落ち着いたら、お気に入りにホテルのひとつになりそうだ。
格調が高くて温かい、周一郎さんそのままだ。
義兄への思いに浸っている私の隣を歩きながら、忍さんが私を上から下まで見下ろして、嫌味を言い出した。
「馬子にも衣装って、お前のためにある言葉だな」
「腹黒は、貴方の為にある言葉のようですね」
言い返すと、忍さんは言ってろと不機嫌になり、ぷいと前を向いた。なんだか子供っぽくて笑えてくる。意地悪で嫌味でどうしようもないが、案外素直な部分があり、こういうところは嫌いではない。ちゃらいと思っていた性格は、ある意味、裏表がない性格なのだとこの数日間で私は気づいていた。
それにしても、着慣れないおしゃれなスーツはいささか窮屈だ。
ドレスコードが必要だと言われて、休日をのんびりと部屋の中に篭城して楽しみたかったのに、忍さんにブティックやらサロンやら靴屋やらに連れて行かれ、夕方の今は疲労困憊の一歩手前状態……でもない。
困ったことに、私はなかなか頑丈な身体を持っていて、これくらいのことでは疲れない。むしろ、喜んでいた部分もある……。
日ごろ体験しないことを体験するのって、結構楽しいから。
こんなところは立派に千夏と双子だと思う。ただ私が千夏ほど綺麗じゃないだけで。
ホテルのルームメイクをしているせいで、私は体力と精神力は鋼のように鍛えられてる。
何しろ、ベッドメイクや浴室の掃除を何部屋もすると、かなりの人が一日目で脱落するハードさだし、指紋ひとつ許されない鏡やアメニティ、備品のチェック、無理難題を言うフロントや客やチーフとの格闘。優雅なホテルの裏側は、みんなの体力精神力の戦いの場だ。
私は高校生の時から、アルバイトでこの仕事を始めた。バイトの延長のような形で入った旅館では、ひどく場慣れしているから重宝された。
「まあ、それくらいの図太さが欲しいからな。ま、よっく見とけ」
「特に何を?」
「今回は……、特にワインかな」
「ワイン?」
「そ」
屋上にあるレストランへ続くエレベーターの中は、私と忍さんしか居ない。まだ夕方五時だから、夕食には早いのだろう。
屋上に着いた。
「わ……」
扉が開いた途端、きらびやかな大パノラマが私達を出迎えてくれた。
これはすごい。
昔写真で見た、ギリシャのミコノス島の、紫が入り混じった清涼な夕方を連想させる、都会の風景が広がっていた。
忍さんと私がそのままレストランへ足を踏み入れると、ウェイターが品よく出てきて名前を聞き、個室へ案内してくれた。今の時間帯は、予約がないと入れないらしい。
房のついたカーテンで外部と遮断された席は、落ち着いた色を貴重としたリラックスできる空間になっており、天井の可愛いシャンデリアと、テーブルの上に置かれた花と小さなランプが、妙に懐かしさを誘った。もちろん窓からは先ほどの風景が広がっていて、なんらかの記念日にここを訪れたら最高の夜が過ごせそうだった。
忍さんが引いた椅子に腰掛けると、忍さんは向かい側に座った。
「ここは何料理のレストランですか?」
「フランス料理。お前の好みを聞かなくて悪いが、肉料理のコースを予約で取った」
「別にかまいませんよ」
食前酒のシャンパンと一緒に、カマンベールチーズのアミューズが運ばれてきた。カマンベールチーズは私にはくどく思われて好きではないけれど、少量だったので美味しく感じられた。シャンパンもほどよい甘さだ。
「ワインはどうするんですか? ソムリエでも呼びます?」
「今回は必要ないな。飲みたいものが決まっているからな」
忍さんはメニューのワインの銘柄を目で一撫でして、サン・ヴィルとペルラという赤ワインを頼んだ。
待っている間、私は忍さんが冷たい目でメニューを見ているのが気になった。
「そんな顔で食事すると、まずくなるんじゃないですか?」
「ブス子には、家庭料理がお似合いだからな」
メニューを私に手渡してよく覚えておけと言い、忍さんはため息をついた。
渡された何の変哲もないメニューを見たけど、一体何がため息の理由なのか、皆目見当がつかない。
コース料理はどれもおいしく、ワインも料理に合っていて、忍さんは料理のセンスが本当にいいのだと今更ながら察しが付いた。
食事中、私達はほとんど話さずに舌鼓を打った。
忍さんは、不機嫌というわけでもなく、かといって上機嫌でもなさそうだ。このレストラン自体を吟味するような、そんな感じだった。
デザートを食べ終える頃には、外はネオンが宝石のように煌く夜になっていた。
「支配人が直接偵察なんかして、大丈夫なんですか?」
一番最後のコーヒーを一口飲み、私は忍さんに聞いた。
「よくあることかどうかは知らないが、時間があればするし、されもしてる。あいつはしないだろうがな」
「ここの人たちで、忍さんを知ってる人も居るでしょう?」
「そりゃ居るだろうな。別に構わないさ」
甘党なのか、コーヒークリームと砂糖を大量に放り込み、それを一口飲んで忍さんは顔をしかめた。
「……まずい」
「当たり前です。何杯入れてるんです?」
「もうこれは飲めないから、お前のよこせ」
私の返事も聞かず、忍さんは勝手に私のカップに手を伸ばして飲んだ。
「うまい」
一体何がしたいんだこの男。
嫌がらせというより、女の子にちょっかいを出す小学生男子だ。
そしてまた大きなため息をついてくれるから、こっちがつきたくなるっつーのと突っ込みたくなった。
「ブス子。お前、明日から出勤だけど、わかってんのか?」
忍さんは、不意に話題を変えて、コーヒーを私に押し戻した。もう飲めないわこれ。こいつが口つけたのなんて冗談じゃない。
大体、わかってんのかってなによ。自分が勝手にやったことでしょうが。
俺様もここまでくると、何様って感じだ。
「午後一時に出勤ですよね。わかってます」
「それならいい。まあ、最初はいざこざが起こるだろうが、頑張るんだな」
「殺伐とした職場なんですか?」
なんか面倒くさそうで、嫌だなあ。
「してるしてる。すぐに新入りが辞めるから、派遣で補ったら、今度はその派遣がその日のうちに来なくなる」
「相当ですねそれ」
「ああ」
氷の浮いたグラスを僅かに傾け、忍さんは元に戻した。
「ブス子はどれくらい持つか、見物だな」
なんとまあ、くだらない粗悪な趣味だ。あきれ返る。
「私が一時間で辞めたら、どうするつもりです?」
「ブス子はすぐには辞めないさ。それくらいわかる」
なんじゃそりゃ。
「そんな話を聞かされたせいで、すぐに辞めたくなってきましたけど?」
「そうだな。すぐ辞めたら、周一郎にチクるだけか」
やっぱりそう来たか。
根性悪いわ腹黒いわ、趣味は悪いわ、顔しかいいところがないな、この男。
今度は私がため息を付いて、持っていたメニューを定位置に戻した。もう中身は全部覚えた。何を試されてるのか知らないけど、この仕事は終わりだ。
忍さんは、驚いたように目を瞠った。
「ブス子。もう覚えたのか?」
「記憶力だけはいいんで。もうコーヒーも飲みませんし、帰ります?」
「いや、ここに泊まるが」
「鍵、もらってなかったと思いますけど?」
フロントには寄らず、直接ここへ来たはずだと訝しむと、忍さんはにやりと意地悪い笑みを浮かべた。
「これから貰いに行くんだよ」
最悪だ。
テーブルで重ねた手に、忍さんが意味ありげに己の手を重ねた。
宿泊する部屋は、普通のツインルームだった。
モスグリーンのカーペットに、茶色を貴重とした調度品、ベッドカバーには薔薇の刺繍がセンスよく入っていて、程よい高級感が漂っている。テレビやインターネット接続用の設備も使いやすいように配置されていて、冷蔵庫の飲み物も豊富だし、お茶やコーヒー、紅茶、ハーブティーまである。グラスやカップも整然としている。ユニットバスもカーテンは真新しいし、洗面台の鏡の前にきちんとアメニティが並べられている。何もかもが綺麗で美しい。
一通り見て、私は忍さんに振り返った。
「なんでツインに泊まるんです?」
大金持ちそうなこの男なら、なんとかかんとかスイートなんて部屋を頼みそうだから、意外すぎる気がした。思えば、脅された時も普通の部屋だった。
「ま、ホテルを見るには、手っ取り早いからな」
「そうなんですか?」
忍さんはそうそうに堅苦しいスーツの上着を脱ぎ、ハンガーにかけている。私はベッドに腰掛けて、ハイヒールを行儀悪く脱ぎ捨てた。
ああ、足の先に血がめぐって気持ちがいい。
「……お前、本当に周一郎以外はどーでもいいんだな」
「極論はそうですが、今は貴方相手に気取っても仕方ないんで」
「ふーん」
忍さんは、脱ぎ捨てた私のハイヒールをベッドの脇にきちんと並べた。こいつがお風呂に入ったら、すぐに並べようと思ってたのに。どこまで細かいんだ。
どことなく居心地が悪い思いをしていたら、そのまま忍さんは私の左足に触れた。
ぞくり、と、妖しげな何かが背中で目覚める。
「綺麗な足をしてるな、顔に似合わず」
「それはどうも」
そのまま忍さんの手が這い登ってきて、スカートをまくりあげた。
ちょっとちょっと……、このままする気? スーツがしわになるってば。
私の思いが通じたのか、忍さんはそこまでしかしなかった。
「ガーターじゃないのが、お前らしくていいな」
「あれはフィット感がなくて嫌いです」
「そんなもんか」
私の頬に軽く口付けして、忍さんはバスルームに入っていった。
ぱたんとドアが閉まった瞬間、どっと身体中の力が抜ける……。
「……は」
そのままどさりとベッドに寝転がった。
夜はまだ長い、面倒くさいのはこれからだ。