願わくは、あなたの風に抱かれて 第01話

 宇治はさぞ暑かろうと思っていた彰親の予想は当たっていて、道中、車の中で蒸しあがりそうだと思いながら、何度も扇を仰ぎ続けている。前も後ろも簾を取っ払ってしまいたい。しかしそれはいかにも田舎貴族のやることで、品がなく、さすがに実行に移すことは躊躇われる。

 陰陽頭、安倍彰親は、宇治の院の御所で開かれる宴に招かれている源惇長の一行に加わり、参上している最中だった。院は殊の外楽の音がお好きでいらして、在位中は四季折々に管弦の宴を催しておられた位だ。

 彰親の車の前には、本人の惇長の車が進んでおり、警護の者達が従ってなんとも物々しい。

 左近衛大将兼権中納言という重い身分に相応しい出で立ちなのに、本人はそういうのをあまり好まず、普段は気軽な車や馬で移動することが多いのに、今回この仰々しさに甘んじているのは、正室の珠子が同乗しているからだった。

 惇長は笛、珠子は琴の名手で、この春に結婚した二人の祝いもかねて、院が強く参上を催促されたのともっぱらの評判だ。

(確かにお二人はお似合いだ)

 恋する珠子の面影が目交を過ることはまだ折々あり、己の業の深さを思い知る彰親だったが、これこそが皆が望んだことでもあり、己の恋心はそっと仕舞っておくものだと表面では穏やかな笑みを浮かべている。

 近江の国から太く流れてくる川が見えてくると、その水面の清らかさにいささか暑さも紛れる心地がした。流れは相変わらず早く、飛び去った山鳥の羽が落ちたかと思うと、流れが持ち去っていってしまう。

 この川が見えてきたら、院の御所はすぐ近くだった。

 院の御所へ着くなり惇長夫妻は院のお召しがあり、彰親はそれを楽しく見送った。さぞ院は楽しみにされていたのだろう。

 彰親は自分に当てられた部屋へ入るなり、連れてきた弟子たちに几帳を移動させて、するべきことを指示してから、一人瞑想に入る。これこそが彰親が今回院の御所へ参上した理由であり、院のもう一つのお望みだった。近頃、院の寵姫であられる院の宮の幾子が病がちであられるらしい。医師に見せても一向に良くならず、もしや何者かに呪われているか、物の怪に憑かれているかとご心配に思われたのだろう。しかし、この病を表沙汰にすると世間が騒ぐため、管弦の宴に紛れて、彰親をお召しになったのだった。

 彰親は、都一の呪力の持ち主である。その怨霊や妖調伏の力の凄まじさは彼が幼いころから周囲が知るところであり、また、天文にも詳しいので、皆に重く思われている。本来調伏は僧侶たちの仕事ではあるのだが、彼らも彰親の前では大人しくしている。何しろ段違いなのだ。

 もっともその呪力があまりに人並外れているせいで妬みを買い、祖父の晴明同様、人間ではないのではないかと陰口を叩く者もいて、一方で恐れる者も多く、彰親に親しい友人は数人しかいない。そのうちの一人が惇長であり、珠子だった。

 ややあって、惇長が彰親の部屋へ忍んできた。

「いかがであった?」

「何も。暑さに弱られただけのものでしょう。薬を処方しますのでそれで癒える類のものです。医師は変えた方がよいです。これくらいも見抜けぬようではとてもとても」

 惇長がほっとした笑顔を見せた。結婚してから何かと表情が豊かになったのが好ましい。

「さようか。まったく、珠子の元気を分けて差し上げたいぐらいだったが」

「愚かなことを。気を分ければ姫が今度は病に伏します」

「そうであったな。あまりに元気なので忘れてしまう」

 彰親は弟子の長丸に、予め用意していた薬草を揃えさせると、切ったり、押しつぶしたりして粉にし、調合していく。

 その間にどこからともなく、琴の音が響いてきた。珠子だ。随分と上達したなと心惹かれた。惇長が言った。

「今月に入ってずっと練習をしていた。院にお聞かせするのに恥ずかしい音は許されないと言ってな」

「姫らしい。しかし、兄君のようにはまだまだいかないようですね」

「習い始めて一年やそこらで超えられては、師匠もたまるまいよ」

 珠子には兄が一人いて、近江の豪族の長をしている。血筋は二人とも先の先の帝の宮を父に持っていて貴く、兄の美徳は学問も琴もかなりの領域に達しているようであった。

「院がそなたも何か奏せぬかと仰せだったが」

「御冗談を。今回の宴は三条の宮様をはじめ御身分の重い方ばかり、私のような軽輩者はとてもとても」

「内裏ではあるまいに。それに珠子が残念がる」

「都に戻った折にでも、兄君と一緒に行きますよ。なんですか、新妻をご自慢されるとは本当に浮かれていらっしゃる」

「……そう…か?」

 惇長は薬を受け取って、首を傾げた。本当に人の気持ちの機微に疎い男だ。特に恋愛方面では。こちらはまだ珠子への想いを残しているというのに、そんな男と会わせて何かあったらどうするつもりなのだろうか。

 それでも惇長は、職においては比類をみないほど有能な男なのだ。慕う公卿、地下人、豪族たちは多く、皆この男を頼りにしている。だからこそ、この情緒の解せなさが、彼の欠点でもあり美点であるように彰親には思われた。

 夜、果たして、天上を思わせる楽の音が次々と響き、離れた部屋にひっそりと座している彰親の耳にも漏れ聞こえてきた。同時に、物ならぬ気配が近づいてくる音が聞こえる。彰親は、そっと外に出て庭へ降りた。

 都はもう雨だろう。北の方からぐんぐんと広がってくる暗雲に、彰親は眉を顰めた。

「しばらくは雨ですね……。しかも、禍ごとを一緒に私に降らしてくる」

 ひとりごちて、彰親は部屋へ戻った。

 

 数日にわたって凄まじい大雨だったせいか、川はその名残を色濃く残して増水し、いつもは清らかな水の色も茶色に濁っている。山から運ばれた木切れや草などが激しい流れに浮かんでは消え、また時にはぶつかり合って、あっという間に消えていく。

 一方で夕焼けはとても美しく、肌に触れるそよ風も心地よい。

 かさねは宵の明けきらぬうちから、川と空を交互に眺めつつ、たまに通りかかる旅人たちを見送っている。

 今も、かさねのいる草むらのすぐ前の道を、都へ上っていくであろう貴族の従者風の若い夫婦が通り過ぎて行った。

 不思議なことに、夫婦の視線は川やとお互いと前方だけだ。道端のすぐ手前に袿を被ったかさねが座りこんでいるというのに、全く気付いていない。

 晩夏の夜を賑わしくする虫たちの大合唱ですら、かさねに気づいていない。旅人たちが通りかかる時だけ鳴き止み、姿が見えなくなると再び鳴き始める。

 朝からずっとそれを繰り返している。

 かさねはそこの場所から動かない。動けない。

 昨夜、褥に入ろうとした所を、かさねは局に押し入ってきた覆面の男たちに襲われた。縄で縛りあげられ身動きを封じられたかさねを一人の男が外に運び出し、抱きかかえて馬に乗り大雨の中都を疾走し、この場所まで連れてきて縄をほどくと、ごみを捨てるかのように草むらに投げおろしたのだ。

 幸い生い茂った草のおかげで落馬した時のような衝撃は幾分か緩和されたが、それでも身体中が痛み、激しい雨に打たれるままに朝を迎えた。投げおろされた場所は、都へ上る者達が通る街道沿いから少し離れているだけで、かさねはたくさんの貴族の一行、旅人たち、そのほかの下種たちを見送った。

 昼になる頃には、夏の強さを残している日差しが、草むらに横たわっているかさねの袿を乾かしてくれた。

 偶然にも、旅人親子の子供たちが遊んでいて投げ捨てた瓜が近くに転がってきて、痛む身体を震わせながら、それに手を伸ばした。昨夜から何も口にしておらず、動けないまま太陽の日差しを浴び続けたせいで、喉がからからだったしお腹も空いていた。

 瓜はとても甘くみずみずしかった。

 人心地つき、ようやく起き上がれたが、どこもかしこも痛い。誰もかさねに気づかない。

 公卿の車が通り過ぎていく。旅人たちが、商人たちが、傀儡子たちが通り過ぎていく。

 夕闇も迫って人影が見えなくなった頃、二両の車がやって来た。高位貴族のお忍びのような品の良さを感じさせる一行だ。昼にいくつも見送った受領階級の貴族たちの横柄な感じも、公卿たちの車の威張り散らす空気も見受けられない。

 一両はそのまま通り過ぎたが、二両目がかさねの前で静かに止まった。

 物見の戸が静かに開き、若い男の顔が覗いたがかさねはそちらの方を見向きもしない。ただ、ただ、前方をぼんやりと見つめている。ややあって覗いていた夏色の水干を着た貴族の男が下りてきた。かさねのそばまで草を踏み分けて歩いてきているというのに、かさねは反応しなかった。

「……可哀想に。心を壊されたと見える」

 男の声はやはりかさねには届かない。その時、男の声に反応したかのように、かさねの左右に珍しい唐風のふわふわとした服を着た少女と、髪をみずらに結った少年が現れた。

「壊れてはいないわ。疲れてるのよ」

 少女が言う。

「これは珍しい、桃の花の精と……こちらは猫又か」

 男は楽しそうに二人を上から下まで眺め、ふむと両腕を組んだ。

「お前たちはこの姫の眷属か?」

「そのようなものよ。普段はおしゃべりする仲。この子実の親に捨てられたの。酷いものよ。もとは明るい子だけどさすがに堪えたみたい。本当は殺されかねなかったところを、私たち二人で人間の思考をまげたの」

「大した力ですね。ところで何故、ずっとこの女性を他の者には見えないようにしていたのに、私には見せるのですか?」

 男が問うと、少女は面白くなさそうに鼻をつんとそらした。

「都で屈指の実力を持つ陰陽師、安倍彰親。貴方の前では私たちは無力だからよ。気づいたから来たんでしょ? 本当は違う道を行くつもりだったくせに。惇長様には方違えだと誤魔化したみたいだけど」

 彰親は、切れ長の目を瞬かせて、おやおやと笑った。

「私をご存じとは。でも私は一回の陰陽師に過ぎませんよ。この姫を世間から救ったりはできません」

「とりあえずは保護してあげてよ。もう一つ言うと、貴方の想い人と繋がりのある子よ」

「想い人?」

「しらばっくれるなよ。あんた、惇長様の北の方の珠子様に惚れてたんだろが」

 少年が告げた名に、彰親は参ったなと首の後ろを掻いた。

「なんですか貴方達は。姫の屋敷に居ついていたのですか?」

「違う。ちょっと離れてる場所に居るけど、放っておけなくてこの子が小さいころから遊び相手になってるの」

「護っていたくせに、こんなところに捨てさせたのですか?」

 彰親の声はのんびりしているのに鋭い。声を詰まらせた少女に代わって、少年がこたえた。

「あの家から解放してやりたかったんだ。それに、あんたが宇治に来ているのを知ってた。」

「それで私に面倒ごとを引き受けろと? この姫への情念の呪縛はとても強く熱いものですよ? 誰かにこれ以上はないほど愛されておいでだ。そしてそれを許さない怨念が身体を縛っています」

 そう言いながらも、やれやれといった面持ちで、彰親はかさねの身体を抱き上げる。かさねは見知らぬ男に抱き上げられたというのに何も反抗をしなかった。少女がそっと香しい息を吹きかけるとたちまち目を閉じて眠ってしまう。

「頼むわ。この子を助けてあげて。この子は今度こそは幸せにならなければいけない。そうでないと、都も崩壊するわ」

「……それはそれは」

 彰親はなんとも物騒な眷属たちの物言いに、ため息をつき、かさねを車の中に運び入れた。

 数日前の予見はこの姫だったようである。

 満ちた月が、東の空に輝いている。彰親は、面倒だが仕方がないと諦め、二人の眷属が一緒に牛車に乗り込むと、従者に声をかけて惇長達の車に追いつくように走らせた。

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