願わくは、あなたの風に抱かれて 第02話

 二人の幼い若君と姫君が遊んでいる。棒切れを持って庭に字とも絵とも取れないものを書き、石を置いている。

 何ともなしに御簾越しに見ていると、若君がこちらを棒で指した。

「あちらには妖がいるから行ってはいけないよ」

「妖ってなあに?」

「人に悪いことをする生き物だよ。母上が言ってた。あの松の木の向こうは妖の領域なんだって」

「こっちは大丈夫?」

 姫君が不安そうにこちらを見やる。妖への恐怖が見て取れた。

「大丈夫だよ、ほら、この間、徳の高いお坊様がいらしてたろ? ちゃんと封じてくださったんだ」

「良かった!」

 そこへ一人の公達が庭へ降りてきて二人を迎えに来た。二人は、わあっと声を上げてその公達に駆け寄っていく。

 公達はこちらを見て、ふと、微笑む。

 見目麗しい公達、優しそうだけど、どこか……怖い。

 妖とは彼らの事ではないのか。

 御簾の中で見えないはずだと思いながらも、夢の中でかさねは几帳の陰に隠れた。

 

 涼やかな朝の風が頬を撫でた気がした。

 まず目に入ってきたのは、自分を覗き込んでいるやや年上の女房の顔だった。そして古めかしい天井。新しくはないがきれいに整えられている几帳、御簾……。

 自分の局に似ているが、違う。自分の局はもっともっと古くて……几帳は……。

「ここは……?」

 女房はにこりと微笑んだ。

「まあ、やっと、本当に気づかれたようですね。殿、こちらへ」

 目線だけで女房の視線の先を追うと、端近に夏色の狩衣を着た男が座っていて、静かにいざり寄ってきた。かさねは殿方が近くにいたとは思っていなかったので、慌てて袿を引き上げて、男に笑われた。

「こちらへお連れして以来、姫をお世話したのは私とこの女房の葵ですよ。今更御隠しになっても、お顔を始め、お身体の隅から隅から存じております」

 隅から隅と、具体的なことまで言われ、顔から火が出る思いだ。

「殿。いたいけな姫君になんということをお話しになるのですか。姫、殿は医学の心得がある方ですから、お気になさいますな。今、薬湯をお持ちしますからね」

 待って、殿方と二人きりにしないでと言う間もなく、葵は裾さばきも鮮やかに局を出ていく。どこかで赤子が泣く声がする。

「さあ、起き上がってください」

「あの、えっと」

「恥ずかしいと思われても、もう手遅れですからね。それに、人妻に手を出すような嗜好は持ち合わせておりませんよ、私は」

 起き上がりながら、かさねは尋ねた。

「……人妻?」

 だったのだろうか? 考えを巡らせて、かさねは自分の名前や家族が何一つ浮かんでこない事に気づいた。

 どういうことだろう……。

 嫌な寒気が背中を這い上ってきて、顔を隠していた袿を取り落とした。男の顔が直ぐ傍にあるがそんなことを考えるゆとりもない。自分が誰で何をしていたのかわからないのだから。

 男の手がそっとかさねの額を押さえた。男は酷い汗だと呟いて、傍に置いてある角盥に布を浸して固く絞り、かさねの額に押し当ててくれる。それが気持ちよくてかさねはいささかは落ち着いたが、混乱は酷くなるばかりだ。

「私、なにもわからないのです。名も、住んでいたところも。何故ここに居るのかも」

「そうなっても不思議ではありません。貴女はお産の後直ぐに拐わかされて、宇治の川のほとりに放置されておいでだったのですよ。女性が一番大切にしなければならない時期に……」

 それではまるで、殺されるために誘拐されたようなものだ。男が言葉を濁しても察しが付く。

「後産などは済まされていたようです。思ったより出血はましだったようですが、正気を失っておいででした。今日やっとこうして言葉が交わせるようになったのですよ」

「そうでしたか……。……助かりました。でも、子供は?」

「赤子の姿もそれらしい穢れもありませんでした」

「そう……ですか」

 子供は無事なのだろうか。もしかして子供は別の場所で……。そこまで考えてかさねは身を震わせた。いったい自分はどういう暮らしをしていたのだろうか。

 葵が薬湯を持って戻ってきて、男が受け取り、考え込んでいるかさねに差し出した。

「お飲みなさい。貴女は血虚を通り越して陰虚、気虚になりかけておいでだった。だいぶ良くなってきているのです、続けないと」

 高価な薬のにおいが漂って、一瞬かさねは躊躇った。しかし、この身のだるさには変えられない。

「身体が癒えるまでは、こちらでゆっくり過ごしなさい。公卿の姫ではなくとも、どこかの姫君には違いないでしょう。手を見ればわかりますし、所作も美しい。ですが、今のところどの貴族からも捜索の願いは出ていません。状況からして大っぴらに探すこともできませんし……、貴女の進退については元気になられてから考えましょう」

 それだけ言って、男は薬を飲んでいるかさねを置いて局を出て行った。御簾を掲げる一瞬に、あのさっきの涼やかな風が感じられた。男が入ってきた風だったのだろう。

 葵が親しみを込めた顔で見つめてきた。

「でも本当に気づかれてよろしかったわ。ところで、お乳が張りませんか?」

「え…ええ」

 赤子の鳴き声が続いている。そのせいだろうか。

「実のところ、あの、大変申し訳ないんですけれど、姫様に、助けていただいていたんです。今泣いている子供の母親、えっと、同輩の楓という女房なんですけど、同じくお産したばかりで、困ったことにお乳が出ませんの。……それで」

「私でよろしければ」

 それなら、助けてあげた方がいいだろう。薬などの世話もしてもらっている。お乳をやるのが危険なほどかさねの身体が弱っているなら、さっきの男がさせているはずもない。

 かさねが連れてきてほしいというと、葵は顔を嬉しそうに輝かせた。ほどなくして楓という女房が泣き続けている赤子を連れてきた。

 不思議なことに、母になった覚えもないのに乳をやるやり方を、かさねは知っていた。正気でない間も乳をやっていたのは間違いないだろう。

「姫様、ありがとうございます。今申し上げるしかないので……私は楓と申します。その子は稔子と申します」

「良いお名前ですね。あの、私は名前がわからなくて……」

 乳をやりながらかさねが申し訳なさそうにしていると、葵がにっこり笑った。

「お気になさらず。お名前だけは存じておりますの。かさねというお名前です」

「かさね……?」

 何故知っているのだろうかと首を傾げると、妖に教えてもらったのだという。不

思議そうにしているかさねに、葵が説明した。

「さっき姫様がお会いになったのは、陰陽頭の安倍彰親様です。陰陽師は御存じですよね?」

「自分の事以外はなんとなく。ええと、暦を見たり星を見たりされるんですよね?」

「ええ、彰親の殿は、そこの長官ですの。天文を主にされておいでですが、医学にも通じていらっしゃいますし、何より調伏の力が素晴らしくて、殿の前では妖も怨霊もひれ伏しますのよ。名前は姫様の眷属が教えてくれたのだそうです」

 自分にそんな人間が付いていてくれただろうかと、かさねは不思議に思ったが、この場合は見えない妖か狐狸の類だろう。全く記憶にない。

 その目に見えない鬼神を使役できるのだと葵が自慢し、かさねは感心した。

「凄い方なのですね」

 かさねが瞠目すると、楓がちょっと! と葵の袖を引っ張った。

「そんなとりとめもない話をするんじゃないのよ。殿からおしかりを受けるわ」

 三人で話をしている間に、赤子は腹が満たされたと見え、お乳を飲むのを止めて眠り始めた。まだ身体が本調子でないのでかさねは、二人に静かに横たえられた。

 かさねが礼を言うと、楓がとんでもない、こちらの方がとても助かっていて礼を言いたいぐらいだと礼を述べた。

「よろしかったら、母子ともどもこちらでお過ごしになったらどうでしょう? すぐにお世話できた方がいいと思います」

 かさねの提案に、楓は嬉しそうに頷いた。葵が早速几帳や畳を下女に運ばせて来て、支度を始めた。二人ともてきぱきと動く良い女房たちだ。そこまで考えて、自分の考え方が人を支配する側のものだとかさねは気づいた。

 だが、こんなことをあっさり口にするあたり、おかしな感じがする。身分ある姫君がこんな風に女房に接するだろうか? 距離が近すぎる。

 頭が痛んできた。とても疲れた。とにかくこの屋敷は安全だろう。だとするとどこかは危険だという事なのだが、それに関してかさねは考えるのを止めた。

 とにかく身体を癒そう。

 かさねは眠ろうと目を閉じた。

 

「姫様、俺達に気づいてくれないね」

「仕方ないわ。記憶を失っておいでだもの。でも、そのおかげであの男がどれだけ血眼になって探しても、見つかりっこないから助かるわね」

 桃の木の精と猫又は、かさね達の居る部屋の前の濡れ縁に腰かけている。この館は陰陽師の彰親の屋敷だけあってそういう類の生き物がうようよいるが、二人には干渉してこない。害がないうえ、二人の霊格が遥かに上だからだ。

「でも、彰親の殿はあの男ほど身分がないぞ? 見つかって圧力をかけられたらどうなるのやら」

「馬鹿ねえ。彰親の殿には最大権力者の左府がついてるのよ。特に惇長の大将は世間でもとても重く思われている方、その方達と繋がりがあるのだもの、大丈夫よ」

「それでも心配だよ。いっそ惇長の大将に頼んだ方が良かったんじゃ」

「無理よ。大将には私たちが見えないもの」

 ばっさりと桃の木の精に切られてしまい、猫又は頭を抱えた。

「ああ、のんきに乳なんてやってる場合じゃないのにな」

「この館には心悪しき者は入れないし、入れたとしても長居できないから、安心なさいよ」

「でもなあ……」

 ぶつぶついう猫又を、冷めた目で桃の木の精は見て、さあさと肩を叩いた。

「当分は大丈夫よ。私たちも力を蓄えなきゃ」

 二人の眷属たちはそれぞれの場所へ戻っていく。

 あの涼やかな風が辺り一面を吹き払っていった。

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