願わくは、あなたの風に抱かれて 第03話

 中宮のお住まいになっている弘徽殿に赴いた彰親は、女房の一人に御簾内に招き入れられた。侍従という通り名で、彰親より二つばかり年上の彼女は、結婚して夫がいるにも関わらず宮仕えしている。子は二人いるが、里で養育させているらしい。彼女の夫の丹波の守の藤原内村のように、妻を宮仕えさせることによって、上達部の情報をいち早く入手し、己の立場を有利に運ぼうとしている男達は多い。

 侍従は今日は休みを取り、昼間でもこうして己の局でのんびりしている。中宮のお気に入りの中務などはそういうものが滅多にない。というより、この時代に有り勝ちな、姫と女房と一心同体という状態なのだろう。中宮にとっても中務にとっても、お互いが大切な存在で、常に一緒にいたいと思わせる太い糸で繋がっている。

 侍従は中宮が東宮妃になってから加わった女房で、中堅の存在になる。古参ほど勢力を誇示することもなく、かといって新参ほど軽く扱われることもない。また、侍従は非常に頭のいい女で、何か特に秀でているというものを持っていないことを武器にしている。敵を作らない事が、この後宮では何よりも大切なのだ。

 すっきりと片付いている局は、彰親にとっても居心地がいい。

「宇治ではいかがでしたか?」

「皆さま、見事な楽を奏されました。拝聴している私も、心が浮き立ちました」

「頭の君は奏されましたの?」

 頭の君とは、彰親の役職が陰陽の頭なので付けられた通り名だ。

 彰親は微笑した。

「まさか。あの中で奏するなど、手習いの子供が雅楽頭の前で奏するようなものでしょう。そんな図太い心の臓は持ち合わせておりませんよ」

 ほほと、侍従は袖に口を当てて笑い、彰親に白湯を勧めた。

「大将の君と北の方の合奏はたいそう素晴らしかったとか。院から御歌まで賜っておいでだったと伺いました」

 二人とも吹き出した。彰親も侍従も、惇長と珠子が歌がてんでダメなのを知っているからだ。他愛のないおしゃべりをしながら、ふと彰親は気ぜわしい気配を感じた。少し向こうの局からだ。

「何やら必死になっておいでの方がいらっしゃるようですね」

「ああ……新しい恋人ができたとか言ってたわ。早速喧嘩かしら。若い方は賑わしくていいと思うけど、内裏ではいただけないと思います」

「どなたですか?」

「頭の中将様です」

「へえ。あんなお年を召した方が……」

 白湯を飲もうとしていた侍従が、思い切りむせた。大変だとばかりに彰親が背中を撫でてやると、もう、と睨まれてしまう。

「新しい方が就任されたのをお忘れですか? 今の頭の中将は、右大臣家の藤原躬恒様ですのよ!」

「ああ……」

 そこまで言われて、やっと彰親は思い出した。確か、右府の何人かの妻の一人が、どこかの落ちぶれた貴族の姫君で、その一人息子がそんな名前だった。

「とても清らかな美しさをお持ちで、あの方がこちらへ参内されると大騒ぎになりますのよ」

「なら何故、今大騒ぎにならないんです?」

 後宮の女達は訪れる者達の一挙一動を逐一監視しているかの如くで、鬼の住処だと揶揄っている者も多いくらいなのだ。

 侍従は、ふふ、と笑い、袿の裾から両手を出し、軽くぽんぽんと叩いた。すると、二人の間にふわりと大鷲の妖が舞い降りてきた。侍従と彰親が仲がいいのは、侍従が見鬼(けんき)という、目に見えないものを見ることができる才能の持ち主からだ。そう言って、夫の内村が妻を売り込んできた先が、彰親の所だった。

「貴方の式神が、その翼で頭の中将殿を隠して差し上げているのですか?」

「自ら申し出て……だそうです。理由は話してはくれませんけれど」

 彰親は、じいっとその大鷲を見つめた。大鷲も見つめ返す。大鷲の姿をしているが、真実はもっと大きく、力を持っているだろう。ひょっとすると、侍従を謀っているかもしれない。侍従も気づいて放っているのだろうが。

「まさか、中宮への橋渡しなどしないでしょうね?」

 彰親が冗談とも本音とも取れる言い方をすると、侍従は目を吊り上げた。

「とんでもない! この子はそんなことお願いされても断ります」

「ふうん……」

「あ、信用されてませんのね。酷い方」

「仕方ないでしょう。あんなに美しい方に、この力を持つ式神。不安にならない者がいたら、余程能天気な頭の持ち主です」

「それはそうかもしれませんわね」

 頭のいい侍従はあっさりと頷いた。それが不気味で彰親は思わず身構えてしまう。

「でもその辺は大丈夫。あの方、熱愛している北の方がいらっしゃいますのよ。先々月、に三人目のお子様がお生まれになりましたの」

「先々月……」

 彰親は、扇を僅かに広げ、考える風を装う。侍従から見たら、この彰親の美貌の方が好ましい。頭の中将も美しい殿方なのだが、身分柄何か重苦しい。一方で、彰親は従五位とほどほどの身分なうえ、底抜けに明るいし、穏やかで優しい風を持っている。そんな彰親に憧れる女房達は多く、沢山の求愛の視線を投げかけられているのだが、本人はのらりくらりと交わしてしまう。余程好きな女性が居るのかと皆が疑っているが、彰親はそんな風はちらとも見せないので彼女たちにはわからないままだ。とらえどころのない殿方と言われていて、最初、交流を持っている侍従は酷く妬まれたものだが、侍従は既婚なうえ、夫の内村と仲がとてもいいことと、彰親と二人で局に引っ込んでいても話し声しか聞こえないので、誰も何も言わなくなった。侍従はただの友達だと仲間には説明している。たまに寝たりはするが、それだけのことで、寂しさを感じてもこの関係に色恋はご法度だ。

 だから時折、ちくりと嫌味を言いたくなる。

「物や思うと……といったところでしょうか?」

 侍従がふざけてきて、彰親はげんなりした。

 ※1しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思うと 人の問ふまで という、歌をもとに言っているのだろう。

「そんな色めいたことは皆無ですよ。ご存じな癖に」

 不貞腐れる彰親は少年のようで、侍従はまんざらでもないようだと思ったが、それについては何も言わない。それよりも、と話を転じた。

「どうも、頭の中将様は人を探しておいでのようです」

 そんな話は彰親は知らない。頭の中将程になれば、その身分でいくらでも人が動かせそうなものだし、検非違使達からこちらへ自然と話が流れてくるはずだからだ。陰陽寮で、占いをしてほしいという話も聞いていない。この時代では、むしろ率先して占いを乞われても不思議ではない。

「表立って探せない。けれども必死だと言う事ですね。探しているのは男性ですが? 女性ですか?」

「それすらも伏せておいでみたい。ですからだれも探しようもありません」

 いよいよ怪しい。考えかけて、彰親はそうかもしれない人物を頭から消し去った。

「おかしな探し物ですね」

 話しているところへ、彰親は蔵人達が自分を探している声を聞き、立ちあがった。

「陰陽寮に関りが無ければよろしいのですけど」

 侍従が心配そうに言う。

「聞かなかったことにしておきましょう。正式な申請があれば受けます」

 言うなり、彰親は扇をかちりと閉じた。式神の大鷲が舞い上がって消えていく。

 見ていた侍従が慌てたようだ。己の失態を悟ったらしい。

「気にする必要はありません。でも、あの新しい頭の中将殿、ただの上達部ではなさそうです。あまり関わらないようになさい。私もその人探しが終わるまでここには来ませんから」

「寂しいですが、仕方ありませんね」

 侍従は微笑み、頭の中将に盗み聞きされていた失態を忘れようと努めている。彰親は気にしていないから身体を大切にと言い、局を出た。侍従のものではない焼けつくような視線は、後宮を出たところで消えた。

 その日はずっと寮で仕事をしていたが、彰親の気は晴れなかった。そこへ屋敷へ帰ろうとしている惇長がやってきて、うちへ寄っていかないかと誘ってきた。自分の家にいるかさねが気にかかって仕方がないものの、こればかりはいずれはばれるかと思い直し、彰親はその誘いに乗った。

 惇長の住んでいる桜花殿は、彰親の屋敷の何倍もの広さで、釣り殿や池まである、大貴族ならではの造りである。惇長と珠子との結婚の後は訪れが間遠になっていたので、この屋敷の豪華さに触れるのも久しぶりだ。

「珠子が会いたがってな」

 惇長が北の対に向かいながら言う。本来なら大貴族の妻が、一介の貴族に目通りさせるなど有り得ない事なのだが、本人達は昨年、何度も何度も会っているため、その辺りの感覚が麻痺しているのかもしれない。

 部屋に入るなり、几帳や御簾の陰で大人しくしているかと思われた珠子がそれらを押しのけて出てきた。

「お久しぶりね彰親様。宇治ではまったくお話しできなくって……」

 さすがにこれには彰親もあきれ返った。

「いけませんよ姫。いえ、上。貴方はこの惇長殿の北の方です。いくらよく知っているからと……」

 そばで、珠子つきの女房の一条がおかしそうに笑っている。彼女がもっとも目くじらを立てるべきだというのに、惇長も諦めている様子で、円座を勧めてきたので彰親はそれに大人しく座った。

「何やら貴方達三人で、私に対して謀ろうとしているご様子ですね。一体何なのですか?」

 まだ宵の口だというのに一条が酒を持ってきた。直ぐに下がっていく一条の代わりに、珠子が瓶子を持ち、彰親と惇長の盃に酒を満たした。何杯か飲んでいるうちに、一条はご馳走を運んできて配膳していく。他の女房にやらせればよいものを、彼女一人で厨と北の対を往復しているようである。

「私もお手伝いしたいけれど、一条が絶対駄目だと言うの」

 珠子が文句を言う。彰親は当たり前だと言った。

「どこの世界に、厨へ出向く大貴族の北の方がいるんですか」

 やがてご馳走を並べ終えると、一条もその場に残った。普通、女房は後ろにいるものだが、今日は四人でご馳走を囲んでいる。

「本当になんなのですか?」

 焦れた彰親が問うと、珠子が惇長を見た。惇長が頷いた。

「珠子が身ごもった」

 途端、珠子が頬を赤く染め、得も言われぬ美しさを醸し出した。彰親はとても驚いたが表に出さず、にっこり笑った。

「そうでしたか。それはお目出たい。それで、この宴というわけですね」

「そんなところだ。本当は美徳も呼びたかったのだが、不在でな。だからこの四人ですることになった。特に彰親と一条、お前たちの献身のおかげで私達の今日がある。だから……」

 珠子が続きを口にした。

「今宵は飲み明かしましょうね」

 幸せそのものの二人に、彰親の心に居座っている恋心が小さくなっていく。もう、いいのではないのか。この二人なら大丈夫だ。

「芳子様もお喜びでしょう」

「きっと、な」

 惇長が同意し、珠子に果物などを勧めた。悪阻などないようで、珠子は旺盛な食欲を見せている。大層な身分になっても変わらない珠子に、彰親はその分の惇長の愛情を垣間見る。愛されている自信があってこその、この明るくて美しい珠子なのだ。

 いい気分で夜更かしをして、惇長の車で家まで送ってもらった彰親は、細かい雨の中を帰ってゆく車の向こう側に、山の端に沈んでいく月を見た。東の山の端がわずかに明るい。夜明けはもうすぐそこだ。この雨もすぐに止むだろう。

※2漠漠闇苔新雨地 微微涼露欲秋天 莫對月明思往事 損君顏色減君年。確かにその通りだ……。でも、小雨が降る中でも今夜の月は楽しかった。ですから、これから迎える朝がそんなことを忘れさせてくれるものがあるでしょうね」

 濡れ縁を歩いていくと、果たして、光が漏れている部屋がある。随分早起きだなと思って彰親は通り過ぎかけ、立ち止まった。燈台の火ではない。何か違うものが輝いているのだ。

 部屋を守らせている式神に掛け金を開けさせて中へ入ると、几帳の模様が輝きで浮き出ていた。室内はしんと静まり返っている。彰親は眠っている皆を起こさないようにそうっと歩いて、几帳をめくり、中で眠っているかさねの身体が黄金の光に包まれているのを見た。

 刹那、何者かの視線を感じ、とっさに印を結んで屋敷全体の結界を強化する。弾かれたように桃の木の精と猫又が空中より転び出てきた。

「いきなり何するんだよ」

 猫又の少年が文句を言う。

「人ならざる者の気配が、勝手にこの部屋を覗こうとしたからですよ。心当たりは?」

 彰親が両手をそっと降ろす。桃の木の精がふわりと甘い匂いを漂わせる。これも一種の結界なのだろう、彰親の結界と同化していく。

「彰親の殿。式神と接触したでしょう? 後をつけられていたのよ」

「大鷲ではなかった」

「本人によ」

「…………。頭の中将殿が妖だとでも? 愚かな」 

 彰親が手をポンと叩くと、部屋内にいた式神達が格子戸を次々と開けていく。東の空は赤く染まり、小半時も待たずに太陽が顔を出すだろう。葵が慌てて起きだしてきて、袿を羽織って部屋を出ていく。かさねは深く寝入っているのか起きない。気が足りないので、日が高くなるまで起きられないのだ。

 格子戸越しに覗く木々が、外が明るくなるにしたがって姿を現していく。

※1 平兼盛『拾遺集』。 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

※2 白居易。 漠漠闇苔新雨地 微微涼露欲秋天 莫對月明思往事 損君顏色減君年 

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