願わくは、あなたの風に抱かれて 第04話

 紅葉が深くなる頃、楓の子供はだいぶ大きくなり、最近は頻繁にひっくり返ってうつぶせになるようになった。すぐに頭が重くなって畳に顔を擦りつけて、うーうーと唸っているのが何ともかわいい。表情も出てきて笑顔に心が癒やされる。本当の自分の子供はどうしているのかと、時々かさねは気がかりに思うが、何も思い出せないので、きっと元気でいるだろうと思い直している。
 かさねの状態はだいぶ落ち着いた。高価な薬を惜しげもなく飲ませてくれた彰親に、改めて礼を言うと、彰親はなんでもないのだとゆるく袖を振るだけだった。
 今日は、彰親の新年の装束を縫うのを手伝っている。楓はまだ本調子に戻れないので、見ているだけだ。
 かさねは、何もしない居候生活が心苦しくて、お客人にとんでもないと断る葵に、体調が良い時にボツボツと仕事を教えてもらい、今ではここの女房としても通用するくらい何でもできるようになっている。彰親も気の済むまで居たら良いと言い、女房として居続けるのを歓迎してくれた。
「葵の忙しないところが似やしないか心配でしたが、大丈夫でしたね」
 彰親が揶揄するのを、葵は心外だと言ってむくれた。そういうところが先輩女房らしくないのだが、かさねとしてはやたらと淑女然としていられる方が落ち着かなくて嫌だった。葵のように少々雑でも、さっぱりとした人のほうが良い。
「葵さんにはとても助けていただいています」
 そう言っているかさねの方が、彰親などが見ると先輩女房に見えてしまうのだった……。

 縫い物をつづけている二人に、楓が言った。
「本当にかさねが居てくれて良かったわ。もしあのままだったら、どうなっていたのかしら」
「またそのお話ですか。お互い様なんですよ。私だって、打ち捨てられているところを、どこの誰かもわからないのに皆様が救ってくださったんです」
 かさねがそう言い返し、ごめんなさいねと楓は謝った。何回も言われると重くて苦しいのだ。楓は産後の肥立ちがかさねに比べて上手くいかないようで、乳も出ないまま体調がすぐれず、ほとんど臥せっている。彰親の薬も何故か効かないようだ。彰親が言うには、元の身体がよくないと、効きがどうしても悪いのだという。
 葵が、刺繍の糸を選り分けながら言った。
「楓。あなたはゆっくり休んでて。私とかさねで稔子ちゃんはみてるから。なんの心配もいらないわ」
「うん……ありがとうね、葵」
 やはり元気がない。
「これだもの。昔みたいにもっと憎まれ口を叩いてもいいのよ」
「まあ、ひどい」
 三人でくすくす笑っていたが、楓は疲れたのか褥へ入っていった。寝入ったのを見計らって、葵が溜息をついた。
「やっぱり……背の君がいないのって、重荷よね」
「まだ一度もお会いしてません」
 かさねが言うと、葵は悲しそうに顔を歪めた。
「楓の背の君は、来ないのではなくて来れないの」
「来れない?」
「稔子ちゃんが生まれる一月前に、病気で亡くなられたのよ」
「それは……」
 何という苦しみだ。かさねは縫っていた針を落としそうになった。
 鮮やかな色の糸を針に通し、慣れた手付きで葵は刺繍を始めた。
「私達もだけど、楓もとても気落ちしてしまってね、お産も難産だった。それでお乳も出なくて……どうしようかというところで、かさねがこの家へ来てくれたの。楓が何度も何度もお礼を言うのは仕方ないの。殿も、私も、楓も、きっと亡くなられた楓の背の君も同じ思いだと思うから」
 葵は針の抜き差しを繰り返しながら、静かに言う。
「他の貴族の家は知らないけど、この家は、みんな身寄りがない人ばかりなの。だから、仮の家族なわけ。殿にご兄弟はいらっしゃるけれど、そちらよりこちらを大切にしてくださる。皆、感謝しているわ」
「葵さんも……お家がないのですか?」
「家はここ。ここで生きてここで死ぬの」
 何も思い出せないかさねに、なぜこんなに親切にしてくれるのかようやくわかった。皆同じような境遇なのだ。それゆえに優しいのだ。
「でも、結婚はされませんの?」
 思わず触れてはならない部分にかさねは触れてしまい、葵に軽く睨まれた。
「なぜか誰も言い寄ってくれないのよね! 来客が多くて、直にお会いもしているのに……、見る目がないのよ皆!」
「あ、えっと、例えば殿様とか」
 焦ってかさねが思いつく男性を言うと、葵は爆笑した。
「駄目〜。殿は殿よ。とてもいい主だと思うけどそれはそれ。考えたこともないわ。例えて言うならお兄様ね。お兄様に恋はできないわ。身分違いとかそういう以前の問題よ。かさねこそ、殿はどう思われて?」
 かさねは彰親について考えた。
 美しい殿方だと思う。好ましいと思う。でもそれだけだ。
「……親切な方だとは思いますが」
「ね? 殿って、いい人どまりなの。いまいち押しが足りないと言うか、ふんわりしているというか、風みたいに捉えどころがないの。お仕事柄そうならざるを得ないのかもしれないけど、人の心に共感しすぎて、素通りしてしまわれてる感じよね」
 人でありながら、人として持つべき感情が上手く育っていないということだろうか?
 布の端まで縫って、玉止めをして、また新しい箇所を縫っていく。かさねは裁縫技術に優れていて、かなり重宝されている。なんとなくだが、記憶を無くす前もこうだった気がする。ただ、もっと寂しく悲しい気持ちを抱いていた……。何故だかわからないがそれだけはわかる。
「殿も、いい加減北の方を迎えてくださるといいのだけどね。きっとお美しくて優しい方をお選びになるのは間違いないもの。そういう方がいらっしゃらないのね。後宮は鬼の住処と誰かが言ってたし」
「まあ、本当ですかそれ? たくさんの女性がいらして、豪華絢爛な世界だと思っていました」
 すなおにかさねが言うと、葵はそうね確かに美しいと思うわと頷いた。
「絵巻物ではそう見えるわね。表向きはそうなんでしょ。でも裏ではどろっどろの恋愛の駆け引きの溜まり場よ。恋愛だけじゃなくって、人の欲望が過ぎて、魑魅魍魎が生まれてしまいかねないって、殿がいつもおっしゃってるもの」
「陰陽頭って大変なんですね」
「坊さんもいるはずなんだけどね。それぞれの勤めの場所があるから何とも言えないわ。殿は、重点的に中宮様のところを護っておいでよ。左府の側の方だから」
 左府とは、今の最大権力者の源実和だ。彰親の親友の惇長の父に当たる。彰親は上手く宮廷社会を泳いでいるようだ。

 夕方になってきて、二人は裁縫道具を一旦片付け、格子戸を降ろして几帳の位置を変え、燈台に火を灯した。楓は目覚めなかったが、稔子が起きて手足をばたばたさせている。かさねがそっと抱っこしてやると、ニコニコと笑った。そしてまた手足をばたつかせる。おむつを換えてやると大人しくなり、乳を欲しがるのでやると元気に吸い始めた。
 飲み物を取りに行っていた葵が戻ってきて、いつもの苦い薬湯の茶碗をかさねにすすめた。薬の種類もだいぶ変わった。日々力が戻っていくのをかさねは感じている。
「最初の頃は、かさねも死にそうなのにお乳なんて上げて大丈夫か不安だったわ。今は安心」
「そうですね。あら、楓さんのお薬は?」
「起きてから煎じるわ。取り敢えずはお水だけね」
 茶碗などを邪魔にならないところに移動させて、葵は几帳を捲って楓の寝顔を見ている。
「早く元気になるといいんだけどなあ」
「きっと元気になりますよ。だって、稔子ちゃんがいるんですもの」
 かさねが力を込めて言うと、葵はそうよねと笑った。

 夜になり、その日は稔子の寝付きがとても良かったというのに、かさねは眠れなかった。
 意味もなく心がざわつく。
 寝返りをしきりに打っているうちに、明け方も近くなった。
 眠るのをあきらめて起き上がって袿を羽織り、格子越しに外を見ると、もうすぐ満月になろうとしていた。
(綺麗……)
 もっとよく見てみたくて、濡れ縁へ出た。すると、先客が居た。
 彰親だった。
 彰親は星を見ていたようだった。月を明かりにして何かを書きつけていたが、かさねに気づいて振り返った。
「おや、とても早起きですね」
「殿こそ」
「星は直で見たほうが正確ですからね」
 こんな時間に彰親は勤めをしている。
 かさねは彰親の邪魔にならないように部屋へ戻ろうとした。とても寒かったのもある。ここへ来た時は秋に入ろうとしていて、まだ夏の名残があったが、今は冬に入ろうとしている。袿を羽織っていなかったら震え上がっていただろう。
「……かさね」
 呼び止められて、かさねは振り向いた。
 呼んだのに、彰親は書きつけている手元から目を話さない。
「何でしょう?」
「貴女は、記憶を取り戻したいですか?」
 唐突に聞かれ、かさねは面食らいつつも、正直に言った。
「戻したいです。今のままでは宙ぶらりんで、どこか、自分が自分ではないので落ち着かないんです」
「その記憶が良くないものとしても?」
 ようやく彰親がかさねに顔を向けた。相変わらず綺麗な顔をしているが、熱がまったくない。人としての熱がだ。
「なにかわかったのですか?」
 かさねが聞くと、彰親は首を左右に振った。
「いいえ……何も。ただ、良からぬ気配が漂っておりましてね。うちの式神が落ち着かないのです。貴女が来た頃からです。ですから、何かあると睨んでおります」
 良からぬ気配と聞き、真っ先に浮かんだのは楓のことだ。
「あの私のせいで楓さんが……」
「ああ、聞いたのですか? それは違いますね。彼女の夫が亡くなったのは天命です。身体も時間はかかりますが治ります」
 自分のせいではなく安心したものの、厄介者になっているような気がして、かさねの気持ちは沈んだ。それが表情に出たのだろう、彰親が謝った。
「すみませんね、気を悪くさせました。私はいつも心のままに言葉にしてしまって、女房や姫様方に愛想を尽かされてしまいやすくて」
 寒いからと彰親に促されて、かさねは彰親の部屋へ連れられて入った。最近女房の勤めでしょっちゅう入っているので、全く抵抗がない。最初は学者の部屋のように本がうず高く積まれ、生薬がずらりと並んでいるその有様に、たいそう驚いたものだ。
 火が灯されたままの燈台は、明るく輝きを放っていた。

 向かい合わせに座ると、彰親が言った。
「貴女には見えないようですが、見慣れない妖達が、家の周囲を徘徊しています」
 それは尋常ではない。自分のせいかとかさねは不安に思った。
「私、呪われているのでしょうか?」
「貴女が正気に戻られた時にもお話しましたが、貴女は誰かに恐ろしく愛され、誰かに激しく憎まれておいでです。どちらも拮抗していて、大変危険な状態なのです。できうる限り外に出ないほうがいいと申し上げたくなる程」
 恐ろしい現実を淡々と口にする彰親の方が、遥かに恐ろしいようにかさねには思われた。
 彰親は続ける。
「ですが、ずっと家屋敷に閉じこもるというわけにもいきません。相手の正体を掴まないといつまで経っても貴女は自由になれない。どう思われます?」
「それよりも気になることが」
「なんです?」
「私は殺されようとして打ち捨てられていたのですよね。憎んでいる方は私は死んでいると思っているはずなのに、どうしていつまでも憎んでいるのですか?」
 彰親はそうですねと腕を組んだ。
「おそらく、憎んでいる者は、貴女を激しく愛している相手が好きなのでしょう。ところが相手は、殺したはずの貴女にいつまでも心を残しておいでだから、それが許せないのだと思います」
 かさねは、常にない心持ちで、自分を憎んでいる相手を軽蔑した。
 それに追従する形で、誰かが心の中で呟く。
(そんなふうだから愛されないのよ)
 自分であって、自分でない声だ。きょろきょろとあたりを見回し、じっと自分を見つめている彰親と目が合った。
 呟きは続いた。
(ああ嫌だわ人間って、どこまで自分勝手で愚かなの。欲深くて救いようのない塵芥の分際で、私達を操ろうとするのだわ。汚らわしい)
 次から次へと思ってもいない想念が浮かび出てきて、胸が詰まって逆上せたかさねは、その場に倒れ込んだ。
 汗がじっとりと滲んで、気持ちが悪い。
 誰かが、自分の中に、居る。
 でもその誰かは、自分でもある。
 そんな感覚がかさねを包んだ。

 瞬間、かさねの身体を黄金の光が包んだ。
「な……に?」
 ふわりと優しい風が吹いてきて、身体が楽になってきた。瞑っていた目をあけると、彰親が何か唱えていた。風は、彰親から起こっていた。何故かかさねはたまらなくなって、だるさを我慢して起き上がり、彰親に思い切り抱きついた。殆どぶつかる勢いに彰親は一瞬苦しそうにしたが、唱えるのを止めない。その間も風はかさねの胎内を駆け巡り、ざわざわと蠢く嫌な気配を吹き消していく。
 短いようで長い時間だった。
 彰親はずっと唱え続けている。
 ぐったりとしているうちに白白と夜が明けてきた。小鳥が鳴く声と同時に、もっと遠くで鶏が鳴いた。