願わくは、あなたの風に抱かれて 第05話

 彰親がようやく唱えるのを止めた。
 しばらく二人はそのままだった。
 静寂を破ったのはかさねだ。
「私じゃない私が……出てました」
「そうですね。しかも人間ではありませんでした」
 彰親の声は、優しい風を吹かせていると思えないほど冷たい。感情という感情が削ぎ落とされていた。それがかさねの不安の闇を増大させた。彰親にはかさねの正体が視えているのだ。一体どんなふうに視えているのだろうか。怖いが、知らないほうが怖かった。
 かさねは、彰親の袖を強く握った。そうでないと何かの力に持っていかれそうだった。
「私、先の世では……人間ではないのかも」
 一瞬彰親は押し黙った。やはりそうなのだ。
「今人間ならよいでしょう」
「そう……でしょうか」
「先の世の貴女は、人間嫌いだったようです。でも、今はその人間。ならば、思い切り人を愛すればいいのではないですか?」
 よくわからない論理だが、かさねを励まそうとしているのはわかった。もう座れるようになったので、かさねは謝りながら起き上がり、距離を取った。傍目から見たら子供でも恋人ない自分が、仕える主人に抱きつくなど異常だ。
 さらりと髪が流れた。
「え?」
 髪が、金色に輝いている。
「なんで……」
 驚いているかさねに、彰親が言った。
「なぜかはわかりませんが、以前も同じようなことがありました。貴女は眠っていてお気づきではなかった」
 自分は今も人間ではないのかという不安が、再びじわりと滲み出した。
「ご不安なのはごもっともですが、貴女が不安に思う対象はご自分ではなく、激しい感情をぶつけてくる者達でしょう。私は数え切れぬほど妖を見ていますが、貴女はとても綺麗です。姿も魂魄も」
 彰親の風は相変わらず優しい。
「でも、人でないかもしれないなんて……」
「人でなくても、命であることは同じ。心があることも同じ。気にされませんように。貴女は一介の姫君に過ぎないでしょう? 中宮や主上なら、お悩みになる必要も出てくるでしょうが」
「殿はどう思われますか?」
「同じです。魂魄の色というのは滅多に変わりませんからね」
 葵の声がして、彰親が入るようにと返事をした。
 まだ髪の色が戻っていないので、かさねは隠れようとして慌て、近くの本の山を崩してしまった。葵は角盥を置きつつ、かさねをちらりと見て、驚きに目を見開いた。
 かさねは隠れたいのに隠れられなくて、袿の中に縮こまった。
 酷いと彰親を恨んだが、もう遅い。
 彰親は涼しい顔をしている。

「まあ! すごく綺麗。かさねってばやはり美人ね」
 葵の口から出てきたのは、意外な言葉だった。
 彰親が先程までの仏頂面を崩して、口を開けて笑いだした。
 かさねは、ぽかんとした。
 葵は彰親のものだと思われる櫛を持って、かさねにいざりよってきた。
「いっつも綺麗だなと思ってたのよ。うーん、こうやって見るとやはりいいわ。髢(かつら)にしたいぐらい。でも美人じゃないと似合わないわよね。つやつやとして手触りもいいわ! 素敵」
 素敵、素敵と繰り返しながら、葵はかさねの髪を梳り始めた。
 髪は金色のままだ。
「あ、の、葵さん」
「何よ」
「私、の……髪、変な色ですよね?」
「変な色? 私のこのくるくるした髪に対する挑戦なのかしら? 真っ直ぐで見事な金色の髪よね。でもすぐ黒髪に戻っちゃうのよね……。ま、黒髪もとても綺麗だからね」
 何と言い返せばわからないかさねに、ようやく大笑いを治めた彰親が言った。
「葵は強力な見鬼です。最初から貴女のその姿が視えてるんです」
「殿はお気づきではありませんでしたね」
 葵が言う。
 葵に視えて彰親に視えないというのが、かさねには驚きだった。
 彰親が苦笑した。
「私でも視えないものはあります。葵は大体のものが私以上に視えてしまうのです。それで気味悪がられてしまうのですが、やはり、貴女は違うようですね、かさね」
「違うって言われましても。驚くだけですよ。だって私、人ではないかもしれませんのに、怖くないのですか?」
 今度は葵と彰親二人で大笑いを始めた。
 葵は顔を真っ赤にして、袖口で必死に口元を隠している。
「もう、かさねってば最高。気になるところ、そこなのね。ほほほ!」
 なんなのか困惑しているうちに、かさねの髪は黒に戻っていった。

 彰親が顔を洗うと、二人で髪を整えた。綺麗にしてくれてありがとうと彰親は二人に礼を言い、
「人は、異能を嫌うものです。私も重宝されている一方で、気味悪がられています。この屋敷に居る者全員がそうです。ですから、かさね、貴女のような人は貴重です」
 そう言われても、自分は人間ではないかもしれないのだ。
 かさねがそう言おうとすると、葵が言った。
「馬鹿ねえ。髪の色が変わるぐらいでそれがどうなのよ。そりゃあ、棘がいっぱいついた蔓にでもなったら嫌でしょうけど、ただ金色に変わるだけじゃない。素晴らしいわ」
 なんだか納得がいかない。
「おそらく」
 彰親の声がとても低いものになり、葵とかさねは緊張した。
「かさね、貴女の異能が欲しくてたまらない者が居るのでしょう。それが何なのかはわかりませんが、激しく憎む者も、愛する者も、それにひどく執着している」
「それなのに、殺されかけたんです」
「利用していたのは一人だけではない。有り難みがわからぬ感情的な性格の者がしでかしたのでしょう。葵、かさねの先の世の姿は視えませんか?」
 彰親に聞かれて、葵がじっとかさねを見つめる。
「髪が金色に変わるほかは残念がら視えませんわ。でも、記憶が戻れば視えると思います」
「やはりそうですか。かさね、貴女はどうしたいですか? 先程も伺いましたが記憶を取り戻したいですか? 外に出れば相当の危険が待っています。それと承知でも取り戻したいと?」
 それに関しては、かさねの答えは同じだ。
「はい」
 彰親は頷いた。
「近いうちに、左大将の屋敷へ女房としてあがってもらいます。ああ、楓のことなら心配いりませんよ。ちゃんと代わりの人を呼んでありますから」
「せっかくうちの女房になってもらったばかりですのに」
 葵が残念そうに言う。かさねだって残念だ。葵とはもっともっと親しくなりたい。
 彰親は、おやおや仲が良くてうらやましいと戯け、
「うちの女房のままあちらへ出向いてもらうだけです」
 と慰めると、葵は、
「誰に狙われているかわかりませんのに」
 と咎めた。
 彰親は扇を手にして、なんとなく手元で弄んだ。
「さて、相手がそこまで強気に出れるかどうか。この件は、左大将も了承済みです。さらに高貴な方にも関わることかもしれませんのでね」
 そこでぱしりと扇を閉じた。
「まあ」
 葵はそれで矛を収め、かさねと二人で彰親の部屋から下がった。

 二人が下がると、すぐに猫又と桃の木の精が現れた。
「聞いてないわよ。狙われているのにどうすんの!」
 食って掛かる桃の木の精に、彰親はさてと首を傾げた。
「左大将の屋敷はこちらとは比べ物にならないくらい、警備が厳重です。無礼者が入れるところではありませんよ」
「だって、相手は……」
 続けようとした言葉を彰親が遮った。
「いい加減、そこのところを話しなさい。宮中でも中宮のところで不穏な動きを見せる方が居る。かさねのことは全て左大将に話してあります。繋がりがあると見て、左大将は気を揉んでおられる」
「あいつは中宮様には興味ないよ。かさねだけ。だからここにずっと居させてくれよ」
「かさねが望んでいません。もともとそういう性質の姫でしょう? 私が押し留めても、無駄ですよ。私は力づくで人をどうこうするのは好きではありませんからね」
「だからと言って……」
「妖なりの事情があるのでしょうが、人にも事情があります。成る程、かさねは人ではないかもしれませんが、日常的には人としてこちらで生活している。護ってやらねばなりません。この場合は心を、ですが。つらい過去でも思い出さねば成らぬ。それを乗り越えねば幸せなど夢のまた夢。一生ここで、正体のわからない敵に怯えて暮らさせるなんて、人でなしのすることでしょうよ」
 二人の妖は声を詰まらせ、居心地が悪そうにした。
 彰親から見れば、二人はかさねを大切にしすぎだ。それはかえって彼女の本質を歪めてしまいかねないのを、彰親は危惧している。
 どうやら二人もそれは自覚しているようだ。
「かさねはどうして私達が思い出せないのかしら?」
 桃の木の精がポツリと寂しそうに言った。
 それは彰親にだってわからない。
「かさねは貴方達のような存在も含めて、記憶を取り戻したいのではありませんか? 生きていて辛いことばかりなんて有り得ません。悪いことにも、良いことにも終わりがあるように、どちらか片方だけだなんて、それこそ欲に塗れた人の考えです。少しはかさねを信じなさい」
 ぴしゃりと彰親に言いつけられ、二人は漸く納得したようだった。
「じゃあ、かさねに術かけてやってよ。髪の色が人前で変わるなんて、本人はずっと嫌がってたから」
「すごく気にしてたの」
 二人はとても心配そうだ。
 元よりそのつもりだ。自分たちのような人が稀なのはよく知っている。
 彰親は微笑した。