願わくは、あなたの風に抱かれて 第08話

「かさね、気づきましたか?」

 彰親の声に、自分はいつの間に寝ていたのかと思いながら目を開けたかさねは、とても間近に彰親の顔があって飛び上がりそうなほど驚いた。これは膝枕というものではないだろうか。慌てて起き上がろうとしてくらくらとし、慌てなくてもいいですよと彰親の優しい手がゆっくりと起き上がらせてくれる。両肩の彰親の手が熱く感じた。

「かさね、大丈夫?」

 これも間近に珠子の心配そうな顔があった。

「あ、上……。失礼を」

 後ろへ下がろうとした先には、惇長と見知らぬ僧が座っている。珠子の反対側には一条が居て、逃げ場がない、

「あの、……その、一体何がなんだか」

 さらりと黄金の色の髪が見え、かさねは慌てた。

「……あ、これは!」

 隠れようにも几帳は皆の後ろで、屏風は更にその奥だ。

 隠しておきたかった髪の色が露呈してしまい、かさねは涙ぐみながら顔を袖で隠して突っ伏した。もう消えてしまいたい。

「だから言ったではありませんか。かさねはとても繊細な人なの。殿方が三人も同じ部屋においでになれば、恥ずかしいに決まっているわ」

 珠子が大丈夫よと言いながら、震えているかさねを背を撫でてくれた。違うそうではないと言いたいが、感情が高ぶりすぎて言葉にならない。

「女房殿の方が北の方に見えるな。私も出家していなければ……」

 水恵の言葉に珠子が反応した。

「かさねは貴方には差し上げられませんからね!」

「何を言っている。世を捨てておる私が……」

「坊主が一番危険なのよ!」

 明後日の方向へ会話が流れていっており、彰親がくすくす笑うのが聞こえた。

「さあ、かさね。わかったでしょう? この人達も葵と同じで、貴女の正体など大したことないとわかっておいでなんですよ。髪の色など何色でもよろしいでしょう?」

 その言葉に、震えながらもそっと袖から顔を上げると、皆と目が合った。皆、温かく、優しい目だった。

 惇長が珠子に言った。

「そなたもこのかさね位、奥ゆかしくしてくれると良いのだが」

「しているじゃありませんか。本当なら、この人の顔を打って、部屋から追い出してるところよ。かさねを狙っている好色坊主なんですもの」

 珠子が水恵を打つ真似をする。一条がはしたないと声を上げるが、珠子は聞いていない。

「おお怖い怖い」

 大して怖くなさそうに水恵が笑いながら言い、珠子は目をつり上げたが、惇長に制されて大人しくなった。

 遠くで風がごうと吹き、蔀戸がガタガタと揺れた。気を失っていたのはそう長い時間ではないらしく、部屋はまだ明るかった。沢山居た女房たちは皆下がっているようで気配もない。

 ようやく落ち着いてきて、かさねは自分の失態を侘びたが、珠子は失態でもなんでもないと慰めてくれた。一条も頷く。

「ありがたく思いますが、どうして私は……」

 何があったのか、かさねが思い出そうとしていると、心配そうに珠子が見つめてきた。

「妖が気を失ったかさねをを攫おうとしたのを、彰親様とこの僧都が祓ってくださったの」 

 見つけた。

 不意に耳の底から男の声が甦ってくる。

 震えが止まったかと思ったのに、また震えが始まった。

 見つかってしまったのだ。あの、自分に執着していた男に。

『やっと逢えましたね。ずっと探しておりました』

『貴女の子はどうしてこんなに可愛いのでしょうね』

『何を言っているんです? あの女が子を産もうが産まなかろうが、貴女には関係ありませんよ。私は貴女の子が欲しいのです』

『ご苦労さまでしたね。近いうちにお迎えにあがりますから。屋敷も新しくしたんです。子供達も一緒に行きましょう』

『ふふ。貴女は前の世でも現し世でも変わらないですね。この私を……』

 堰を切ったように忘れていた記憶が戻ってきた。それは一気にかさねの身体を染め上げていく。動揺はないが、あの男との記憶と念が凄まじく、酷く疲れるのを感じた。汗がじっとりと額を濡らすのを、彰親が懐紙で押さえてくれた。

「……記憶が戻りましたか?」

 彰親がかさねにしか聞こえない声で、低く優しく囁く。

 かさねは黙って頷いた。髪はもう黒に戻っていたが、身体の震えは先程より酷い。

「かさね、顔色が悪いわ。横になっては……」

 さらに珠子が何かを言う前に、彰親がさっとかさねの身体を抱き上げた。

「上の部屋では恐れ多くて、かさねも落ち着かないでしょう。当てられた局に戻ります」

 突然の事でかさねはびっくりした。

「あ、あ、あの! 彰親様。私自分で」

 かさねの反論を聞かずに、彰親はそのままずかずかと歩いていく。途中で出会う女房達が嬉しそうに悲鳴を上げるのが聞こえ、恥ずかしくてたまらずかさねは何度も降ろしてくれるように頼んだが、彰親は外の男達の冷やかしもものともせずに、かさねを局へ運び入れ、隣の局からそっとこちらを伺っていた紅梅の君に、褥を設えてもらうように頼んだ。寝るどころではないかさねは、降ろされるとすぐに彰親を引きずって褥から出て、几帳を引き寄せると、円座に座らせ睨みつけた。

「どうしてこんな目立つまねをされるんですか! 明日からどんな噂されるか……」

「腰が立たない女人を無理に歩かせるような、情けない殿方と思われたくありませんからね」

 しれっと言い放った彰親は、紅梅の君から白湯や果物の皿を受け取り、落ち着きなさいとかさねに白湯の椀を差し出した。ずっと居て欲しい紅梅の君は、頑張ってねとかさねの耳元で囁き、さっさと局を出ていってしまう。

「気を失っただけで疲れてなんていません!」

「でも貴女、あの四人の前であんなに恥ずかしそうにしていたでしょう? お疲れなのは本当ですし」

「それなら一人で退出させてくださったらよいじゃありませんの! 目立たないようにしていたのに……!」

「そりゃ無理というものでしょう。貴女が気を失っている間、妖が荒らしまくってくれた部屋を片付けに、幾人も女房達が上の部屋に出入りしていたんです。皆に見られていますよ。あ、髪の色は貴女が目覚めてから黄金色になったので、私達しか見ていませんけれど」

 ありがたいようなありがたくないような心遣いだ。珠子はどう思っただろう。他の皆も変な誤解を絶対にしている。具合が悪い女人を抱いているように見えなかったのだけは確かだ。特に紅梅の君には!

 もんもんとしているかさねの顔が楽しいのか、彰親は笑った。

「そうそう、濡れ縁で顔を隠されたのは大変よろしかったですよ。男どもに貴女の美しい顔を見せたら、皆、貴女に恋慕してしまいますから」

「……そうですか」

 もうなにかどうでもよくなってきて、かさねは白湯に口をつけた。彰親も同じように白湯に口をつけ、局は静まり返った。珠子が女房たちを呼び戻したのか、さっきまで居た部屋の方から女房たちの笑いさざめく声がする。

 冷たい風がどこからともなく入ってきたので、彰親は白湯を置き、埋めてあった炭櫃の火をおこして、かさねに差し出した。

 もう彰親は笑っていない。

「……あれは人間でした。貴女と同じように前世が妖だったようですね。今はとても高貴な生まれの方です。名はご存知ですか?」

「いいえ」

「藤原躬恒殿。三位の中将でいらっしゃいます」

「……姉の婿君ですが、御名は聞いておりませんでした。……そんな高貴な方がうちみたいな受領階級の姫を正妻にされていたんですね」

「身分違いを超えての激しい恋と世間では言われていますが、実は先日離婚されたのです。原因は姉君が浮気相手の子供をお産みになったせいだとか」

「まさか」

 記憶の戻ったかさねから見る姉は、躬恒を深く愛していた。浮気などとんでもない。そう言うと、彰親は少し笑った。

「四人いるお子様方の中で、三人だけを連れて自分の屋敷へ住まわせているそうです。すべての糸が繋がりました。その三人、貴女の子供でしょう? 姉君の子供だけ置いていったのでしょう」

 かさねは黙って頷いた。

 彰親は扇を出して顔を隠した。かさねの何かに耐えている顔を見ているのが辛かったからなのだが、きっと呆れているからだとかさねは勘違いをし、唇を噛み締めた。

「……姉は子を産めぬ身体だと言われていました。それでは世間体が悪いと……、それで私が代わりに三人産みました。でも、三人目を生む前に姉は一人出産したんです。その後に私が妊娠して、立場を弁えておらぬ、自分の夫を奪うつもりかと酷く叱責されて、何度も命を狙われるようになりました。でも皆、不思議なことに直前で頓挫して……」

「躬恒殿の力はとてもお強い。躬恒殿がすべて防いだのでしょう。解せないのは、なぜ、誘拐された件では何も手出ししなかったのか」

 彰親が、広げていた扇をぱちりと閉じると、桃の木の精と猫又が暗がりから飛び出してきた。

「まあ! 小桃に疾風!」

 暗い顔をしていたかさねが、一気に明るさを取り戻して笑顔になった。二人は自分が見えるようになったかさねに大喜びだ。

「ずっとそばに居たのよ。でも、姫様は力を失っておいででした」

 桃の木の精こと、小桃が説明すると、かさねは笑顔で礼を言った。

 疾風が彰親に向き直った。

「あの誘拐事件。本当はもう一組居たんだよ。躬恒がかさねを連れ去ろうと計画していたのさ」

 疾風が語り始める。

「ようやく話す気になりましたか」

 彰親がため息まじりに言うと、疾風は頬を膨らませた。

「姫様の記憶が戻らないと、姫様の意思に関係なく動いて躬恒を刺激する可能性があったからさ。俺達はぼろぼろになっていたかさねの身体を元に戻すまでは、動いてほしくなかったんだ。まあ、結局こういう有様だけど」

「躬恒殿の執着は凄まじい。一つの綻びに一気に攻め込んでくるあたり、大した戦術家とも言えるでしょう。ここは、幾重にも結界が張られている惇長の大将殿のお屋敷。手出しは出来ないと思っていたのに、先程の失態ですから……、大した力をお持ちなようだ」

 彰親は閉じた扇でこめかみを突いた。疾風が悔しそうに唇を歪める。

「あいつは、前世でもすげえ妖で、頂点に近い存在だったんだ。でも人間に生まれ変わってからのほうが強いよ。なぜだか知らないけれど」

「彼は、先の帝の七番目の皇子。先祖返りで強く出たのかも知れません。帝はすなわち神と言っても良い」

「神世の時代ならともかく、今になって強く出るなんて有り得るかしら?」

 小桃が首を傾げた。 

「今だからこそかも知れません。釈迦が入滅してもう千年を過ぎようとしています。末法に確実に入っていますから。亡くなった祖父の晴明が、己が生まれた頃から戦乱の音が聞こえていて、徐々に大きくなっているとよく言っていました。地方の方がそれが強いとのこと」

「隣の国も新しくなっているものね」

 三人が話し合っているのを、かさねは黙って聞いていた。かさねは末法も戦乱もどうでも良かった。自分さえ良ければ世間などどうでもいいという、自分勝手な考えからではない。前世からの染み付いている怜悧な精神が、大きな時代の流れには誰も逆らえないということを知っているからだ。

 大切なのは怯えて暮らすことではなく、家族を身近な人を大切にすること、愛し合うことなのだ。そのひとつひとつの小さな思いが世界を愛に包んでくれるというのに、人間は誰も気づいてくれない。見えない力を望んで戦ったり、陥れたり、呪ったり、幸運な人を羨んだり……欲にまみれて不幸を自ら招き寄せてしまっている。

 悲しいことに、人間に生まれ変わって得た家族は、愛をくれず、一番厭う欲に塗れた考えしか持っていなかった。

 かさねが取り戻した記憶は今世だけではなく、妖だった前世もある。しかしそれを今言う気にはなれない。

(もうだめ……、もうおしまい)

 躬恒に勝てる存在など、この世にない。

 彰親だって無理だ。

 記憶のない頃なら持てた希望も、今では持ちようもない。

 抜け目のない躬恒のことだ、きっとこの屋敷の中に自分の配下を紛れ込ませているだろう。近いうちに接触してくるはずだ。

 金色草。

 こんなものの生まれ変わりのせいで、生まれた時から人の汚い欲望を目の当たりにしてきた。前世の記憶など前世で封印したはずなのに、こうしてまた取り戻してしまった。

 どうして御仏は、私の小さな願いを叶えてくださらないのだろうか。

 かさねは檜扇を広げて顔を隠し、静かに涙を流した。

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