願わくは、あなたの風に抱かれて 第09話
「ねえねえ。どうだった?」
翌日、早速、かさねの局にやってきた紅梅の君が、目を輝かせながら聞いてきた。
かさねは裁縫道具の箱を置いて、縫う予定の布を広げた。
「どうとは?」
「嫌ね。彰親様よ」
針に糸を通しながら、かさねは言った。玉止めを確かめて、端から慎重に縫っていく。
「彰親様ならあれからすぐにお帰りになったわ。これからはもっとお忙しいらしいから、当分こちらへお渡りはないみたい」
「ええ? 寂しくないの?」
「別に寂しくはないわ。貴女や皆さんもおいでだもの」
「そうじゃなくって! 恋人が来ないのって寂しくない?」
かさねはもう少しで、縫っている針で指を突き刺すところだった。そう誤解されるだろうとは思ってはいたが、あけすけすぎる。一旦布を置いて、異様に近くに迫っている紅梅の君に向き合った。
「昨日は私が倒れたからこちらへ運んでいただいただけです。恋人ではありません」
「ええ? そうなの? 残念だわ」
なぜ残念がるのか不思議だが、人は自分のことではない恋愛話が大好きだから仕方ない。紅梅の君は特にその傾向が強い。ここで釘を刺しておく必要があるだろう。
「言い忘れていましたが、私は、結婚はするつもりはありませんから」
かさねが強く言うと、紅梅の君は信じられないものを見るような目をした。
「どうして?」
「……実はね、昨日、記憶が戻って、お付き合いしていた殿方と色々あって、殿方はもうたくさんと泣いていたのを思い出したの……」
「相手はひどい人だったの?」
紅梅の君の目からからかいの色が消え、気遣わしげなものが加わった。
「正妻がいらしたの。その方に疎まれて、逃げて、その最中に事故に遭って、記憶を失ったみたい」
まるきり嘘ではないので、かさねが辛そうに言うと、紅梅の君は黙り込んだ。重い雰囲気にさせてしまって申し訳ないが、この手の話はできる限りしてほしくない。ならば、させないようにすればよいのだ。だから敢えてかさねは重い過去を口にした。思っていたとおり紅梅の君は別の話題にすぐ切り替えてくれ、二人は縫い物を始めた。
かさねは前世でも同じ名前だった。偶然としか言いようがない。
住んでいたのは都の隣の国の近江で、大きな湖の近くにある小さな山の中で暮らしていた。
父母は物心がついた時からおらず、世話役の婆が一人、かさねの世話をしてくれていた。婆はいつもこう言うのだった。我らは人ではなく妖という存在だ。里へ降りてはいけない。降りたら最後、もう二度とここへは戻れなくなると。
「どうして戻れなくなるの?」
「人は欲が深い。でも、妖はもっと深いのじゃ。奴らに見つからぬようにせねばならん。ここの山から動かなければ、悪い連中はお前に気づかないよ」
「私が殺されてしまうというの?」
「いっそ殺されたほうがましじゃ。とにかく降りてはならん。迎えが来るまでは」
迎えとはなんだと聞いても、婆は教えてくれなかった。
婆が老衰で亡くなると、桃の木の精の小桃という少女と猫又の疾風という少年がやって来て、生活の面倒を見てくれたが、二人は物資を運んでくれるだけでほとんど口を利いてくれず、かさねは一人ぼっちで、獣たちだけを相手に、それでも平穏な毎日を送っていた。
長い長い年月だった。気が遠くなるほど四季の移り変わりを見送り、人とは違う永遠に近い生を送っていたかさねの元に、一人の男があらわれた。
よく晴れていた、その日、小さな庵の前で、石に腰掛けて自分の服を縫っていたかさねは、慰みに飼っていた白猫のみぞれが、低い声で唸り始めたので、みぞれが睨む方向を見た。僅かな空地になっている向こうの木々の中から、眩しい光が近づいてくる。煮炊きの静かな炎ではなく、強い黄金の輝きのそれは、かさねの前までやってくると人の形になった。
凛々しく、若く、匂うような美丈夫だった。水色の袖がたっぷりとした服を着て、頭にきらきら輝く冠を被り、長い黒髪を金銀で装飾された七色に輝く紐で二つに分けて結び、前方へ流している。腰には玉造りの剣を佩いていた。
男の妖は、かさねに手を差し出してきた。
「初めて会う。かさねとはお前だろう。我の名は躬恒、お前は我の妻に、我はお前の夫になり、家族になる」
「……家族に?」
「そう決められていた」
「誰に?」
「我の父に。父は妖の王だ。王には我もお前も逆らえぬ。逃げようなどと思わぬことだ」
傲岸不遜な態度だったが、乱暴な感じではなかった。
見上げたまま差し出した手を取らないかさねに、躬恒は首を傾げた。
「嫌か?」
嫌とか好きとか、そういう感覚がかさねにはなかった。ただ単に、夫や妻とは何なのか。家族になってどうするのだろうか。それは楽しいことなのか悲しいことなのかわからない。差し出されたままの手を前にかさねが戸惑っていると、
「触れられるのは嫌か?」
と、今度は寂しそうに聞いてきた。かさねは嫌なのかどうなのか判断するために、おずおずと右手を差し出して、躬恒の手のひらに載せてみた。思ったより熱く目を見開くと、躬恒は楽しそうな笑い声をあげた。そして左手もぎゅっと優しく握ってくれた。
「どうだ?」
「……嫌ではありません。楽しい……かな?」
「今はそれで良い」
「なぜ貴方は目が青いのですか?」
かさねの目は黄金色だ。見慣れない色だなと見つめていると、躬恒は目をぱちぱちとさせた。
「人間たちは皆黒いぞ。我らのような目の色は気味悪がられる。そなたは里に降りてないようだから知らないだろうが」
「そうなんですか?」
「彼らは我ら妖を、人外の忌まれるべき生き物だと言う。かさねはこれをどう思う?」
なぜ色が違うだけで忌まれるのか、かさねにはわからない。自分は人間には何も悪いことなどしていない。一人でここで暮らしているだけだ。食べ物や縫い物は、躬恒の言う妖たちが持ってきてくれる。
そう言うと、躬恒はうなずいた。
「小桃と疾風は父の手下だ。そなたを見守っている」
「亡くなった婆も?」
「そうだ。だが彼らはそなたの家族ではない。手下だ」
「…………」
二人共あまり口を利いてくれないのは、手下だったからなのか。手下とは何だろうと思うほど、かさねは何も知らない。
躬恒はかさねの庵を見上げ、小さなところに住んでいると言い、かさねが中に案内すると入口の低さに額をぶつけ、今度はかさねが笑った。
躬恒は額に手を当てて不満そうにしていたが、かさねの笑顔にすぐ機嫌を直した。
「そなたは、笑っている方が良い」
その青い目はとても優しい色で、かさねは急に気恥ずかしくなり、繋いでいる手を離して顔を隠した。そんなかさねを抱きしめながら、躬恒はその耳元に囁いた。
「そうやって、我を好きになれば良い。そしてお前が妻になってもいいと思う日が来たら、夫にしてくれ」
それは春の終わりの出来事だった。
躬恒が来てから、かさねの毎日は楽しいものになった。躬恒は婆よりもたくさんの事を知っていて、花や獣達の名前、字の書き方、歌の詠み方、女達はまずしない蹴鞠なども教えてくれた。中でも一番素晴らしかったのは琵琶を奏することで、風の音とも、水のせせらぎとも、木のざわめきとも違う、脈動感が溢れ弾けるようでいて繊細な音色に心惹かれた。ある時は甘く切なく、ある時は清浄で密やかな音を奏でる琵琶にかさねはすっかり夢中になり、躬恒にせがんで教えてもらうようになった。かさねにもともとその才能があったのか、ほどなくして躬恒が舌を巻くほど上達し、代わりにかさねが弾いてみせるようになった。
季節はいつしか夏になっていた。
夏の山は昼は暑いが、夜は涼しい風が時折吹いて、里より過ごしやすい。
月の明るい夜、庵の戸を開け放って、二人は涼みながら琵琶を奏でていた。
かさねは自分で作った曲を披露した。
「こんな曲まで作れるとは、すごいなかさねは。私はお前が生まれる前から弾いていたというのに、そのような事はできぬ」
「躬恒様が教えてくださったからです。あとこの琵琶も教えてくれます」
奏しながらかさねは自慢する。それはとても愛らしかった。
「琵琶が話すのか?」
「はい。そこの指の運びは違う、こうすればよいと」
「ほうそれはそれは。我には教えてくれぬぞ。薄情な琵琶だ」
躬恒がかさねの抱えている琵琶を突くと、かさねはだめですよと笑いながら叱った。
「そんなことをするなら、もう二度と音を出してやらないですって」
「む、それは困る……!」
琵琶の名前は『月夜』だと、琵琶自身が教えてくれた。異国から流れに流れて、躬恒の手に辿り着いたのだと。かさねは月夜の最初の持ち主の少女にとても似ているらしい。だからかさねのもとに居たいのだという。
初めて聞く話だと、躬恒は感慨深げに琵琶を見つめた。
「琵琶がそう言うのなら、それはかさねにやる。明らかに音が違う故真実言うておるのだろう」
「本当ですか? うれしい!」
かさねが琵琶を抱きしめると、抱きつく相手が違うと躬恒が拗ねたので、琵琶を置いて躬恒に抱きついた。
涼しい風がそよと吹き、二人はそのまま床へ倒れた。
躬恒の顔が近づき、かさねは目を閉じて口づけを受け入れた。
「我は、お前が欲しい」
唇を離した躬恒は苦しそうだった。出会ってから月は幾度となく姿を変えている。かさねの中でも躬恒への心の動きは変わっていた。婆よりも近くに居てくれ、優しい言葉や穏やかな時をくれる男だ。
ずっとこのまま、時が止まればいい。
「私も……」
かさねの言葉に、躬恒がそうかと嬉しそうに微笑んで抱き締めてきたので、かさねは両手を伸ばして躬恒の首に抱きついた。
互いの服が横へ落ちていく。
躬恒が与えてくれる熱と甘さに、かさねは喜んで身を委ねた……。