願わくは、あなたの風に抱かれて 第14話
我が娘が男児を孕むように。
憎いあの女を不幸に突き落としたい。
今度の除目で上国の国司になりたい。
唸るほどの財宝が欲しい。
あの姫が欲しい。なのにあやつが邪魔をして、なんとか排除したいが……。
幸せそうにしているあの男を病気にして苦しませて欲しい。
…………。
……。
かさねは、邪な願いばかりを叶え続け、人間への憎悪で心が一杯になっていた。里で豊かに暮らしていたあの人達も、こんな内面を抱えていたのだろうか。表ではさも無害そうな笑顔を浮かべていたのに。なんと汚らわしく卑しい存在なのだろう。
こんなに醜い願い事をしておきながら、自分は幸せになりたいと彼らは言う。
人を不幸にし、人から奪ったものに囲まれてどう幸せになるというのか。
幸せは分け合うものであって、奪うものではない。
そこでかさねは、ふと、自分に立ち返る。
どうして躬恒は助けてくれないのだろう。
どうして会いに来てくれないのだろう。
王になったのではなかったのか。
誰よりも強い王になったというのに、月華と彼女の父親にまだ頭が上がらないというのか……。
今日は雪が降っている。
屋根の一部が完全に壊れ、そこから雪が庵の中に降り積もって、太陽の日差しを浴びると溶けていく。
もうここへ来て幾日過ぎたかは忘れてしまった。
炭櫃は月華が意地悪く寄越さないため、身体を温めることも出来ない。
こんなに凍えているのに躬恒は来ない。
わが宿は道もなきまで荒れにけり つれなき人を待つとせしまに
雪が大風と一緒になって庵を叩くが今にも壊れそうなのに庵は壊れない。ただ、その隙間風はかさねを凍えさせ、震える小さな白い手を紫色に変えていく。
「姫様。温石を持ってきたよ。せめてこれでも抱いてくれよ」
疾風が泣きながら言う。
かさねは笑顔を失いながらも、それを黙って受け取った。もう話すことも億劫だ。窶れていても彼女は美しかったが、躬恒に恋していた頃に比べると、著しく精彩さを欠いていて、二人を暗い気分にさせた。
「姫様。今日は歌を歌うわ。姫様は聞いているだけでいいわ。今日はもう誰にも会う必要はないらしいから」
小桃が可憐な歌を歌ってくれるが、喉が枯れ果てて何も返せない。
また夜になり朝になる……。
雪が止んだ。
太陽の光が差し込む中、かさねは寝台に腰掛けたまま呆けていた。
このところずっと眠っていない。
人間とは違って眠らなくとも死なないが、それでも身体には良くなく、頭がまともに働かない。
…………。
『山から降りてはならぬと言うたのに何故降りた!』
突如、婆が現れた。
『今の己の姿は言いつけに逆らった罰じゃ! 愚か者めが!』
違うの婆様。
逆らったわけではないのです。操られているのです。きっと躬恒様に。私の意志は、あの再会した日からありません。逆らえないようになっているのです。
どうしたら良かったのでしょうか。
胸が悲しみに傷んでも涙は出てこない。
感情さえも支配されている。
彰親が言っていたように、やはり躬恒はかさねを愛してなどいなかった。
こんな仕打ちを平気にできるのだ。愛していたら絶対に出来ないことだ。
悲しいのに涙が出てこないのは何故だろう。
『そなたは心を失ったのじゃ。愛を失うと妖とてそうなる。お前に清らかなものなどない。憎しみと欲望で満ち満ちておる。人間どもを蔑んでいるようじゃがお前が自分の顔を見たら、同じになっていることを知るであろうよ』
あの人間たちと同じ顔になっている。そんな事あるはずがない。
『嘘ではないわ。それ、そこの雪が溶けて水が鏡のようになっておる、覗いてみよ』
よろよろとかさねは覗いてみる。
悲鳴も出ない。
このうつろな顔をしたのが今の自分だというのか。
がさがさの指で、がさがさの頬を触れてみる。
髪も潤いをなくして乾燥しており、使い古した布切れのように煤けてしまっている。
『幸せになる望みを何故叶えぬ? 幸せを願わねば幸せなど来ないのじゃ! さあ行け!』
……幸せとは何だろう?
立ち上がり、ふらふらとかさねは戸口まで歩いた。
『今封印を解いてやった。開けるが良い』
『…………』
なんとなしに手で押すと、あんなに強固だった封印が弾き飛び、扉が開きながら壊れた。外へ出るのと同時に庵も轟音を立てながらぼろぼろに崩れ、ただの残骸になった。宮殿から女の妖達が慌てて山道を登ってくるのが見えた。
「戻れかさね! そこから動くことは叶わぬぞ!」
彼女たちは兵士だ。槍や刀、鋭い爪を散らかせる者、炎、弓矢、それぞれを持ってかさねを取り囲む。
皆、かさねと同じ妖だというのに、敵意で殺気立っている。そして、その目は婆と同じように汚いものを見ているかのように、憎悪が滲んでいた。
王の、躬恒の命令を遂行しても、憎まれているようだ。
突然、かさねは声を立てて笑い出した。
女達は狂ったのかと身構え、取り押さえるために攻撃を開始する。しかし、そのどれもがかさねを刺すことはおろか、身を掠ることも出来なかった。笑い終えたかさねが、胸が悪くなるような臭気を発したあと膨れ始め、自分の体の二倍はある本性を現したからだ。
本来ならば、金色に輝く美しい草木であるはずなのに、今のかさねはどす黒い灰色に気味の悪い斑点がある木肌に、腐臭を発する黒い霧を漂わせていた。
「月華様がおっしゃっていた通りだ。下品な正体を現しおった!」
「滅するのじゃ!」
女達が襲いかかってくる。
対して、かさねは不気味な枝をざわりと震えさせると、躊躇いもなく女達を串刺しにした。
「ぎゃ──────っ!!!!」
たちまちその場は阿鼻叫喚の地獄と化した。先程まで生きて動いていたものが、骨と肉の切れ端になり、積もっている雪を真っ赤に染める。
「ぎゃあ!」
「ひい!」
「がはぁっ……!」
枝葉の攻撃は止まない。また、ある者は木肌が避けて生じた、牙の生えた口に運び込まれ、生きたまま喰われていく。
「撃て! 殺すのじゃ!」
「駄目……攻撃が効かぬどうなっておる!」
「王を呼べ、あ、来るな! ぎひいいッ!!!」
次々にかさねはその枝で女達を殺し、喰らい、その力を吸い取っていった。
騒ぎを聞きつけた男たちが呪力を使ってかさねを封じようとしたが、幾人もの妖の力を吸い取ったかさねの前では無力だった。すぐに黒く腐臭を漂わせた枝が男たちに次々と襲いかかる。
「ぐぁ!」
「化け物だ、助けてくれ!」
「ぎいぃっ!」
思うがままに肉を喰らって血を啜り、骨を噛み砕いてますます大きくなったかさねは、そのままずるずると宮殿にまで歩いていった。
「なんとまあ醜い姿になったものよ」
門の上に月華が居た。
風を呼んでかさねを吹き払おうと攻撃をしてきたが、今のかさねにとってはそよ風に過ぎない。なおも攻撃してくるので、面倒くさくなってその美貌を引っ叩くと、宮殿の外へ飛ばされていった。
「月華様が……! おのれええ」
また幾人もの妖が襲いかかってくる。何百もの妖を喰らい、血に飽いていたかさねは、彼らを無視してひたすら宮殿の奥に居るであろう躬恒を探した。宮殿の中は天上の住人の住まいはかくやとばかりに美しかったが、今のかさねにはどうでもいいことだった。
ただ聞きたい。
自分を愛しているのかどうかを……。
庭の池に出たところで、たくさんの兵に守られた向こう側に居る、躬恒が見えた。
躬恒が言った。
「何故このようなことになっているのだ? あれが本当にかさねだというのか? それより山に居るはずのかさねが何故ここに居る?」
そばに控えている老人が躬恒に進言した。
「躬恒様が長い瞑想に入られた際、かさねの山に良からぬ動きがございました。このままでは良からぬ企てに使われる危険がと懸念し、月華が躬恒様に変化してここに連れて来させ、精進潔斎させておりましたが、人間たちの呪にすでに奥深くまで染まっていたようです。今やあれは汚らわしき存在。滅してしまいなされ」
「馬鹿なことを! かさねは我の妻だぞ!」
「あれはもともとああいう下品の存在。妻などとんでもない」
躬恒はふるふると首を横に振った。
「できぬ!」
かさねは狼狽している躬恒と、老人を目指して進んだ。老人はあの月華の父親だったが、それすらかさねにはどうでもいいことだ。とにかく躬恒に聞かねば。
だが、躬恒を囲んでいる兵たちは、これまでの兵より格段に強く、進めなくなった。それどころか押されて後退する。ばきりと音がして、右腕だった部分が黒い血を撒き散らしながら雪の上へ落ちた。視線の先に、先程飛ばしたはずの月華が居た。
「躬恒様。この剣は、あらゆる邪悪を断ち切る剣です。さあ!」
「そなたまでかさねを殺せというのか。お前は……っ。本当はかさねを精進潔斎などさせていなかったのであろう!」
「まあほほほ。何をおっしゃられるのやら」
「王になって国を制圧した我を、山へ戻さなかったのはお前たちであろうが」
「ふふふ。奥の宮で遊んでおいでだったくせに。その間、このかさねは他の男に抱かれていたのですよ」
「まさかかさねが……」
「王はご存じなかったのですね。ああ、伝え忘れていました。金色草は願いを叶える見返りに命を要求しますの。拒んだ場合は、主に性交で力を奪うのです。貴方がそれをしなかったがために死にかけていた姫を、人間がまぐわって癒やしていたのですわ」
「そんな……」
躬恒は剣を握らされて、蹲ったかさねを見た。兵たちに燃やされ、槍であらゆるところを貫かれ、左足を切断されている。断末魔の悲鳴をあげるのが普通だが、声が枯れているのか封印されてしまったままなのか、かさねはそのまま声にならない腐臭がきつい呼吸を繰り返す。
赤く染まった目が、自分に向かって歩いてくる躬恒を見上げた。
差し伸べようとした左腕が、月華の父が放った衝撃の風で砕け散った。左足を失い、両腕をなくしたかさねは、その場に倒れた。
躬恒が駆け寄ってきた。
「我が至らぬばかりにそなたが……。何ということだ」
躬恒は汚れるのも構わずにかさねを抱き起こした。
(躬恒様……)
「我が愚かだった。王になって慢心したのだ! すまぬ、すまぬかさね! そなたを一番愛しているというのに」
月華が化けた躬恒が語った言葉を、躬恒本人も口にする。
かさねは目を閉じた。
もうこのまま死んでしまいたい。
「かさね。死ぬな! 我が今……」
「王よお止めなされ!」
「躬恒様!」
「可哀相に……、術で感情が支配されている。これは……月華のものだな」
月華は己の企てを王である躬恒に暴かれても、涼しい顔だ。王になっても躬恒は二人より力が弱かった。どうしてもこの二人に勝てない。それは自然かさねを詰る気持ちに変化し、山へ帰ることを躊躇わせた。罵倒してかさねを責めそうだったからである。
「我の不徳の至すところであったのに、そなたのせいにするとは……。愚かしい」
「嘆いている場合ですか! さあ早く……」
傀儡である夫の心を奪った矮小な女妖を、夫自らが殺すという最高の見世物を眼の前で見たい月華は、剣を躬恒に握らせようとする。躬恒はかさねから目を離し、周囲を見た。誰も王である自分より、月華親子と心を同じくして、かさねを滅することを望んでいるようだった。
再び、婆が姿を現した。
『腐りきったこの世界の王よ。自分でその責任を取れ。かさねを然るべき道へ還すがいい』
「……わかった」
結界を破る気が迫ってきている。かさねを召喚しているその主の波動は強く迷いがなかった。躬恒はその気の侵入を許すために、結界を解除した。
光輝く五芒星の柱が、かさねの倒れている地面から出現する。
「なんだ!」
「なんじゃこれはっ」
月華も月華の父親も狼狽える。躬恒は消えていくかさねを見送ったあと、婆の力を借りて皆に振り返った。王としながらも、月華親子に及ばない躬恒を軽く見ていた妖達は、今まで見たこともない躬恒の気迫に怯えた……。
躬恒による、真の粛清が始まった。
五芒星に導かれて、かさねはある人間の屋敷の庭に現れた。小桃と疾風が涙で頬を濡らしながら、本性から人の形に戻った、手足を欠損して血みどろのかさねに走り寄ってきた。
「かさね様! ああ! 何という。遅かったか……」
「…………」
かさねは、二人に微笑もうとしたができなかった。この姿に戻った途端、身体を蝕む激痛で歯を食いしばるのがやっとだ。
「何と哀れな……」
二人の背後に居る、白い髭を長く伸ばした老人が呪を小さく唱えると、出血がやんだ。だが、失った両腕と左足はそのままだった。
「金色草よ。もうお前の命は残りわずかじゃ。声を出せるようにしてやった。言い残すことがあれば言え」
霞んで見えにくい視界の端に、彰親が見えた。彰親は必死になって、かさねの痛みを取り去ろうと両手から気を放出させていた。
「命は……」
「何だ?」
「命は皆同じ重さよ。人間にはそれがわからない……皆、私の力を欲して狂っていくの」
月華の呪に雁字搦めにされていても、すべての記憶は残っていた。嫌な欲望を叶えて、さらに欲を募らせた人間たちは次第におかしくなり、病み、狂っていった。
「かさね」
彰親がボロボロと涙を零した。心が同化し、かさねのこれまでを瞬時に悟ったのだ。
「私はずっと一人ぼっち……」
「違う。私が居る! 皆居る! 一人なんかじゃない!」
懸命に彰親が叫ぶ。
躬恒の姿がふと脳裏に浮かんだ。あんなにも好きだったのに、今は冷めている。
「……純粋に私を愛してくれる人が居てくれたら、それだけで、いいの」
躬恒はかさねを裏切ってはいなかったが、ただ一人の女としては愛してはくれなかった。それが寂しい。一番なんていらない。男の傲慢だ。
寂しい。
寂しい。
決して助からない。もうかさねの命は消えていく。それを認めたくない彰親が、右足以外を失ったかさねを抱きかかえて泣き叫んだ。
「かさね。自分が助かるように祈ってください! お願いだから!!」
「彰親……」
「そうしたら、今度は自分が幸せになれるように祈って。いいじゃないか、自分のために自分の力を使って何が悪い! そんなに辛い目に遭ったんだ。その権利がある! 祈れ! 早く! 私の命を捧げるから早く!!!」
血を吐くような必死さで彰親がかさねに懇願する。それは、愛を失ったと思っていたかさねには十分すぎるほどの光であり、温かさだった。小桃も疾風も同じだった。
(そうか……一人ではなかったんだ)
自分がおかしかったのだ。
自分が負けてしまったから、優しい皆を悲しませている。
(皆、ありがとう……)
枯れていたはずの涙が蘇り、かさねの頬を濡らした。
婆がまた現れた。
もう怒ってはいない。だが、笑ってもいない。
(わかっているわ、婆様)
自分は、金色草。幸せになる願いを叶えるのだ。
かさねは小さく微笑んだ。
「皆が私を忘れますように」
途端、かさねの身体があの時のように光り輝いた。
続けて、崩れ始めた身体が完全消滅する前にもう一つ祈った。
「……、幸せ……………に……」
それはもう、思いだけで言葉にはならなかった。彰親が抱きしめていた人の姿のかさねは消え、しおれて枯れた草花になった。
「嘘だ………っ。そんな……うわああああああああああーっっ!」
彰親は常にない激情に身を任せた。
かつてのかさねの姿が、切ないほどに美しく思い出せるのに、消えてしまった。
雪はいよいよ激しく降り、すべてを白く染めていく。
「彰親。その妖は幸せに包まれて死んだ」
「死んではなんにもなりません……お祖父様」
老人は、かの有名な安倍晴明だった。その霊力を頼って疾風と小桃が、月華達の妨害をなんとか躱してこの屋敷へ命からがらたどり着いたのが、今朝のことだった。事態を重く見た晴明がすぐにかさねを召喚したのだが……。
彰親の涙は止まらない。
「……なんで祈らなかったんだ、かさね。死ぬ間際まで人のことばかり……。かさね……」
かさねの願いが雪になって降ってきて、その場に居る全員が倒れ伏した。
そして、次に皆が目覚めた時、誰の記憶からもかさねの存在は消えていた。
その場に居なかった躬恒だけが、かさねを求めて探していた。
「かさね。かさね。応えておくれ……。我の懺悔を聞いておくれ」
月華も父親も他の妖たちも誰も居ない宮殿は、昨日までの活気が嘘のように閑散としている……。