願わくは、あなたの風に抱かれて 第15話
話は今の代へ戻る。
それから数日が過ぎて、年の瀬も迫った夕暮れのひととき、かさねは一人局の中で過ごしていた。紅梅の君は恋人が来るらしい。
楽しい交際をしている彼女を見るたびに、こういう恋をしてみたかったとかさねは思わずにはいられない。
大勢の妻がいた躬恒。
人間に生まれ変わった今でもあの美貌だ。大勢居るに違いない。
それにしても、前世はなんという苦痛に満ちた世界だったのだろう。だが今も大して変わっていない。きっと、前世のさらに前世で余程深い罪を犯したのに違いない。そうでなければ連続して不幸な生というのは有り得ない。皆そういう知識を得ている。
「躬恒様。同じお名前なのは不思議だけれど」
皆が結界を強化してくれたので、躬恒はこの屋敷には入ってこれない。だがかさねはそんなものは破られてしまうことを知っていたし、彰親達だって同じように思っているに違いなかった。完全な術は、相手は死するまで完成しない。かさねを躬恒が殺すわけがないので術の完成はないのだった。
「でも、私はどうしたって躬恒様を愛することはないわ」
今の生では二人の子をなした仲だが、それは子を産めない姉の身代わりだった。躬恒が美しい殿方でも心は最初から動かなかった。姉はひどく誤解しているようだが本当にかさねの心は前世の裏切られた悲しみと絶望の時のままで、躬恒には全く惹かれないのだ。
「私達はどうして人として生まれ変わったのかしらね」
ひとりごちてかさねは微笑む。人に生まれ変わっても心は全く変わっていない。人であれば幸せになれるとでも思っていたのだろうか。
燈台の火をぼんやり見つめていると、人が局へ入って大きく揺れた。振り返ると珠子が何故かそこに立っていた。
「ま……! 上! このようなところに」
「だって心配だったんだもの! 貴女は全然来てくれないし。大丈夫よ、殿はご存知だし一条だって許してくれたもの」
何やら大きな包みを抱えていた珠子は、それを床へ降ろした。中身は皆食べ物だった。
「あらまあ……昔みたいですね」
そうやって、かさねは貧乏な珠子の家へ食べ物を持っていって分け合って食べていた。今回は逆だが。
「夕餉は召し上がってないのですか?」
「これが夕餉よ。一条が用意してくれたの」
明日は一条に礼を言わなくてはならないだろう。しかし新参が上臈に声などかけられるかどうかわからなかった。
「そういえば殿は今夜は……」
「彰親様や水恵といろいろ話すことがあるんですって。あれだけの事があったんですもの。当たり前だわ」
かさねは自分の局にあったお湯をお椀に注いで、珠子に静かに手渡した。
「私のために申し訳ないです」
「どうもね、それだけじゃないみたい。政のいざこざも絡んでいるようよ。頭の中将殿は右府の方ですもの。でも今の右府はそんなに老獪な方ではないそうだから、他のなにかだと思うわ」
「私達には難しいですね」
「そうね頭が痛くなるわ。それより彰親様から伺ったのだけど……かさね、貴女は私より相当大変なのに私の面倒を見てくれたり、私のために髪を切ってくれたそうじゃない。本当に申し訳ないしありがたくて……」
それは、彰親が、珠子にかさねのこれまでの経緯を告げてもいいかどうか聞いてきたことだった。かさねが言うべきだったが、正常でいられる自信がなかったので、彰親の人柄も信じて、代わりに説明してもらったのだ。
「私、上をとてもお慕い申し上げております。ですから、当然のことです」
「でも」
「上だって同じことをされたと思います。先日だって、私を守ってくださったじゃありませんか」
かさねが微笑むと、珠子は美しい目からはらはらと涙を零し、細い指でそれを払った。
ああ、この人はとても深く愛されている……羨望がかさねの中で渦を巻いたが、静かにそれを沈めた。心の鬼を暴れさせてはならない。おそらくこの鬼が、躬恒が付け入ってくる隙をつくるのだ。
隣の局からは楽しげに話す声が聞こえる。恋人と楽しんでいるのだろう。静かな局はどことなく男を待っている感じで、入口へ歩いては戻っているようだった。皆、北の方の珠子がこんな所に居ると知ったら落ち着かないだろうと、かさねは内心でおかしくてしかたなくなってきた。
珠子はそういう女性なのだ。居るだけで皆を明るくしてくれ、優しい気持ちにさせてくれる。
「変わらないんですね、上は」
「そんなに人ってころころ変わらないわ。あ、でも少し変わったことがあるの。私にお兄様がいらしたのよ。お顔は私そっくりだけど、彰親様ぐらいの呪力をお持ちなのよ」
初耳でかさねは心底驚いた。
「まあ。それは素敵ですね」
「もうすぐこちらにおいでになってくださるわ。今は近江の浅井に住んでおいでなのよ」
「北の郷ですね」
「そうなの。一度だけ伺ったら、素敵な奥様と女の子が一人いたの。私、叔母にもなってしまったの」
「意外な所に……ですね」
「そう思うでしょ? うふふ。かさねも一緒に行きましょうね。来年の春も行きたいわ」
「それはいけませんよ。身籠っておいでですのに」
かさねが首を横に振ると、珠子はそうよね……と残念そうな顔をした。
「向こうから来ていただけたらと思うけど、義姉上様は身分がないから恐れ多いの一点張りなのよ。でも、お気持ちはわかるわ。私もそう思うもの」
「私もそう思います。またでいいではありませんか。兄君だけでも」
「そうね。うん、そうよね」
珠子は素直に頷いて、お椀の湯を啜った。
二人であらかた食べた後、珠子が言った。
「かさねはもう、結婚は考えられない?」
「…………」
どう答えたものかとかさねは迷った。紅梅の君には即答でしないと言えるが、幸せな結婚生活を送っている珠子に言って良いものかどうか。ケチをつけることになってしまいやしないか。
「当分は……いいです」
迷いながらかさねはそう答えた。
「彰親様じゃ駄目?」
「は?」
驚いて、思わず失礼な聞き方をしてしまい、かさねは慌てた。それを見て珠子はおかしそうにくすくす笑った。
「だって、どういう時空の捻れか知らないけど、前世ではそんなに悪い仲ではなかったんでしょう?」
「それはそうですけれど。あの時の彰親様はまだ子供で」
「そうなの?」
あの気の受け渡しについてはさすがの彰親も口にしなかったようだ。赤裸々すぎて、珠子がそんな話を聞いたら卒倒しそうな気がする。淫らな気持ちで挑んだ行為ではなかったにしても、傍目には秘事にしか見えないのだから。
「でも私も……まだ少女みたいな感じでした。そういうのはなかったですね」
「じゃあこれからね」
珠子は彰親とかさねをくっつけたいらしい。
彰親は主人であり、そういう対象ではない、からかってきたりはするもののそれだけだ。怪しい雰囲気などなりようもなかった。向こうも同じはずだ。
そう言うと、かさねはそうかしらねと首を傾げた。
「彰親様は、滅多に人をからかったりされないわよ? もともと人への関心が薄い方だし、それに、これは殿が話しておいでだったのだけど、彰親様は妖を相手にお仕事をされる方だから、言葉というものにひどく気を使われるらしいわ」
「……そうかもしれませんけれど。とにかく殿は殿です。考えるだけでも恐れ多くて」
「おかしなことを言うわね。ご実家と彰親様は同じぐらいの身分でしょう? 貴女の姉君と頭の中将の結婚ぐらいの格差ならわかるけれど、恐れ多いっていうのどうかしらね?」
痛い所を突かれてしまい、かさねは口を閉じた。
「でもま、今は主人と女房ですものね。かさねは真面目だからそう思っちゃうのね。だけどねかさね、私、あんなに人に必死になってる彰親様、初めて見たわ」
けぶるように珠子は微笑んだ。
「常に冷静さを自らに強いていらっしゃる彰親様が、貴女について話す時、貴女を私が嫌ったりしないようにとても気を使われていたの。おかしかったわ、私がかさねを嫌ったりするなんてありえないのに。家の人は貴女を悪く言っていたそうだけど、私までそう思うんじゃないかって、ね。怒っといたわよもちろん! 貴女の両親や姉に怒りを持ちこそすれ、貴女を悪く思えるはずがないわ。気の毒で腹が立って仕方はなかったけどね。何も知らなかった自分にも。半年ほど来てくれない時があった時が2度あったけれど、身籠っていて来れなかったのね。辛かったでしょう?」
辛くなどなかった。辛いという気持ちですら消えてしまっていた。あの家では完全に心を殺して生きていた。珠子という存在があったから生きながらえられたのだ。
「上。私が隠していただけですのよ。ばれていたら私の苦労が水の泡になってしまいます。もう、この話はなしにしてください。私は、上が、今もこうして親しくしてくださるのがとてもうれしいのです」
「かさね」
「上が幸せで本当に嬉しいんです。心からそう思っています」
かさねの話す声を、偲んで来ていた彰親が局の外で聞いていた。
彰親は持っている扇を握りしめ、吐息のように小さく細く、それでいて切なく呟いた。
「かさね。貴女という人は、今の世に生まれ変わっても、自分ではなく、人の幸せばかり願うのですか……?」
二人は話題が転じて、今度は新しい流行歌について盛り上がり始めた。
彰親は二人の楽しげな声を背に、寝殿へ戻っていった。