願わくは、あなたの風に抱かれて 第16話

 やがて新年を迎えた。

 朔日は皆で新年を祝い、それはそれはにぎやかだった。仲睦まじい惇長夫婦と正妻である珠子が懐妊中であることも手伝って、新たな春へ期待に誰もがうきうきしている。

 もう一つめでたいことがあった。紅梅の君が結婚したのだ。それに伴って屋敷勤めを辞めると言うのでそれは寂しいことだったが、時折かさねが家を訪問するということで話は落ち着いた。

「でも随分と突然な話ね」

 珠子へ新年の挨拶した後、それぞれ話をしている女房達の間を潜り抜けて、部屋の隅の方でかさねが言うと、紅梅の君は幸せそうに笑った。

「突然じゃないわ。何年も前からの仲なの。彼以上の人が居るかと思っていたけど居ないことに気づいたから結婚したのよ」

「幼馴染なの?」

「そう。今は蔵人をしているわ。ぎりぎり殿上できる身分と言われているけれど、私から見たらお成り遊ばしてるって感じ。あいつがねえって思うわ」

「随分辛辣ね」

 かさねが咎めると、紅梅の君は小さく舌を出した。

「だってあいつだって、お前が左大将様の所の女房ねえ。信じられない、何も出来ないくせにって言ってるんだから」

「まあ!」

 つまりは腹に何も含むところがないということなのだろう。幼い頃からのつきあいがあり、それに存分に甘え、お互いを深く信頼しあっているからこその辛口といったところか。惚気を聞かされてかさねはご馳走様という感じだ。話を聞いていた、紅梅の君より少し年上の独身の女房の、松風の君が言った。

「駄目よ蘇芳。新婚夫婦は舞い上がってるから遠慮がなくって頭がいかれてるから」

「ま、それはどういう意味ですの」

「そのまんまよ」

 恋人が居ない松風の君は、紅梅の君がうらやましいのだろうが、多分にからかいが入っていた。

「ま、そんな事言って惚気けていられるのは今のうちよ。そのうち殿方は他の女に手を出したりするからね。鬼になるわよこっちは」

 そう言うのは、先日局で大喧嘩をした、年かさの女房の蛍の君だ。美人だが幸せではないらしく言い方に険がある。新婚の紅梅の君に言うことではなかった。

 しかし紅梅の君は負けてない。

「似た物同士が引っ付きますものね」

 かちんときた蛍の君は紅梅の君を睨んだが、すぐにそれは治まった。蛍の君はそうかもしれないわと言い、お膳が来たわと言いながら離れていった。

 松風の君が紅梅の君に振り返った。

「いくらなんでも貴女、言いすぎよ。蛍の君は心底お疲れでいらっしゃるのに。まったく」

「だって、私達は……」

 松風の君は声を潜めた。

「新婚当時はそうでも、時の移り変わりで心が離れていくこともあるのよ。どちらが良いとか悪いとかじゃないのよ。若いからわからないんだろうけど、やたらと角を立てるものじゃないわ。特にこのお屋敷ではね。あ、もうすぐ辞めるにしても、どこでも同じよ。背の君を大事にしたいのなら敵を作らないことよ? あとで蛍の君に謝っておきなさい。結局離婚されたそうだから。おめでたい時に皆を暗くさせたくないとおっしゃっていて、知る人は少ないけれど」

 二人が何も言えないでいると、一条が松風の君を呼ぶ声がした。

「そういうわけ。ほわほわとしていてもいいけど、ほどほどにね?」

 

 紅梅の君は、やってしまったとばかりに、扇で顔を隠した。

「かさね……私は家を守っていけるのかしら?」

「いけるのかしらではなくて、守っていかなきゃ。家族は大切だもの」

「そうね……そうよね」

 言いながらもかさねは紅梅の君が羨ましかった。家族がかさねにはないのだから。

 夕方、局へ戻ると、彰親が居た。

「お早いお戻りですね」

「あ、これは」

 かさねはその場に座って姿勢を正して新年の祝いを述べた。

「貴女にもよい春であるといいですね」

 彰親が微笑んでくれ、かさねも微笑んだ。

「葵も楓も稔子も元気にやっています。すべてが片付いたら里帰りしましょう」

「そうですね。私も皆にお会いしたいです」 

 彰親は涼やかな目を和ませた。

「文をたくさん預かっておりますよ。後でご覧なさい」

 文箱を渡され、かさねは嬉しくなってそれに頬ずりした。

 小桃と疾風にも会いたいのだが、二人はそばに居るだろうに姿を現してくれない。妖だった過去を思い出すから、姿を現さないのだろうと見当をつけているが、そんなことはないのにとかさねは思っている。

「あともうひとつ、これ」

 彰親が布に包まれたやや大きなものをかさねの前に押し出した。

 まさかと思った。これがここにあるはずがない。

「どうして……」

 そう言いながら布を開いていくと、果たして、あの月夜という名の琵琶がそこにあった。

「うちの塗籠の奥の奥に仕舞われていました。祖父のものだと思っていて、時折奏しておりましたが……、先日の件で貴女の記憶と同調して思い出しました。何らかの形でうちに来ていたんですね。これには妖の気配がします。生きているのでしょう」

 躬恒がくれた琵琶だ。何もかもが当時のままで古びておらず、相変わらず美しい琵琶だ。当時は月夜がいろいろ語ってくれたが、今は何も語らない。何も聞こえない。

「奏してみてもよろしいでしょうか?」

「もちろん。貴女のものですから」

 今のかさねは奏していなくても、妖のかさねは奏していた記憶がある。手運びはやや覚束なかったがすぐに感覚は取り戻せた。

 やや寂しげな哀切な音はおめでたい新年には少しふさわしいと思えなかったが、かさねは幸福だった時を思い出しながら、弾いた。琵琶を教えてくれたのは躬恒だ。あの時かさねと躬恒は確かに愛し合っていたはずだった……。

 時折音が途切れるのは、そこで二人で歌っていたからだ。

 寝殿の方でも楽の音が流れているので、特にかさねの琵琶の音は目立たない。そう思ってかさねは気にせずに奏していたのだが、やがて聞こえるのが自分の琵琶だけになっていると気づいた。

「続けて」

 彰親が言う。

 かさねは気を取り直して再び奏した。何か意味があるのだろう。目を閉じながら弦を弾いていると、琵琶から思念が流れ込んできた。

『やっと会えた。かさね』

 懐かしい月夜の声だ。男とも女とも取れる不思議な声だった。

『お前が月華に攫われてからずっとひとりだったのを、この男の祖父がこちらへ連れてきてくれたのだよ。呼び声が聞こえたからと言っていた。どうやってたどり着けたものかわからぬが』

 琵琶は語り続ける。

『ここで待っていればお前と逢えると信じていた。ようやく逢えて嬉しい』

 目を開けると、異国の青年が立っていた。金色の髪に青い目をしている。

 青年は、驚いているかさねに口づけて消えた。

 琵琶を見下ろした。

 彰親も目を瞠っていたが、ふふと笑った。

「余程貴女に会いたかったんでしょうね」

「……姿を見たのは初めてです」

「琵琶を奏すると、具現化できるのかもしれません。貴女を愛しいと思っているのが伝わってきますよ。妬けますね」

「……はあ」

 気の抜けたような返事しか、かさねは返せない。それほど驚いていた。

 ごうと風が鳴った。吹雪いてきたらしい。

 琵琶の音が止んだので皆ざわめきを取り戻し、いつもより賑わしくなった。

「ここでの生活は変わりないようですね」

 彰親が酒の杯をかさねに手渡してきたが、かさねはその前に銚子を取った。彰親は仕方ないなという風で杯を差し出し、かさねはそれを酒で満たした。それを飲んだ彰親が盃をかさねは受取り、今度は彰親が銚子を持って満たしてくれた。

「わざわざ殿がお持ちくださったのですか?」

「一条です。貴女は新参なので気を使うでしょうが、私は客人ですからね。気にしないことです」

 そうは言われても気になる。彰親が言った。

「彼女は素性と経緯をすべて知っています。なので貴女も客人扱いなんですよ。向こうにしてみれば、客人を女房扱いしている方が余程気を使うでしょうね。程々のところで折れてあげてください。彼女も撫子の御方の懐妊騒ぎでこれからますます疲れてしまうでしょうから」

「存じ上げませんでした」

 撫子の御方とは、ここの主の惇長の妹君で中宮でいらっしゃる方だ。

「今日発表されたばかりですからね。多分ここを里として進呈されるでしょうから、ますます賑わしくなりますよ」

「でも、上も懐妊されて……」

 彰親は静かに頷いた。

「だから、ですよ。この場合は一緒においでの方が手間が省けますから」

 不穏な気配に悩まされているのはかさねだけではない。政敵が多い惇長もだ。かさねとは比較にならないだろう。中宮は主上に一番愛されていらっしゃる方だ。面白くない女御や更衣、その親族の公達は多い。

「昨年の秋に兵部卿宮殿のご息女であられる、梅壺の女御が男子を出産されましたからね。次はこちらですので、凄まじい嫉妬が集中していますよ。怪しげな僧が出入りする屋敷もあると報告が来ていますし、実際その類の妖もうろついています」

 酒を飲んだおかげで、寒い中ほかほかとしてきた。かさねは月夜を丁寧に布でくるんで、隅の方へ片付けた。

「きっとその琵琶は貴女を守ってくれるでしょうから、持ってきたのですよ」

「私は何も出来ませんのに」

 かさねは申し訳ない気持ちだ。

「先の世で守りきれなかったので、今は守りたいんです。絶対に守りますからね」

「殿……」

「あんな思いはもう二度としたくないのです。小桃と疾風も同じです。ひょっとすると頭の中将殿も同じなのかもしれませんが、わかりません」

「躬恒様は私を愛してなどいらっしゃいません。よく子供を生む女として重宝されているのでしょう」

 随分と自分を卑下する物言いだが、実際そのように扱われていたのだから、そう思っても仕方がない節がある。

「子どもたちを大切にされているのなら、私からは何も言うことはありません。どこかでお伝えできれば良いのですが、それどころではない恐ろしい御声でした。私の気持ちなど汲んでくださらないでしょう」

「……かさね」

 かさねの中には、涙を流す前世のかさねが居る。躬恒は月華の方を愛していたに違いない。かさねなど物の数にはいらなかったのだ。大切にしているかに思えたのは、かさねの願いを叶える力が欲しかったからなのだ。かさねはそう思って傷ついていた。

 俯いていると、影が指し、気づいたら彰親の胸の中だった。

(…………え?)

「皆、貴女を愛しています。今度こそは幸せになるはずです」

 幸せ。

 幸せとはなんだろう?

 かさねの想いは、前世で殺された時から、凍りついたままだ。

 珠子の存在が癒やしてくれても、それは冷え切っていて溶けることはない。

 顎に手がかかり、彰親の顔が迫ってきて、何だろうと思っていると口付けられた。

(何……?)

 口付けはすぐに終わった。

 顔を赤くして目をぱちくりするかさねを、彰親が優しい目で見下ろしている。

「妖の貴女にもしましたよね?」

(あ、なんだ。気の補充か。びっくりした) 

 何故か立て掛けておいた琵琶が、どんと音を立てて床に転がった。転ばないように立て掛けたはずだったのに。

「おやおや」

 彰親はおかしそうに含み笑いをする。

「もう、殿、壊れているかもしれませんのに!」

 かさねは軽く怒りながら彰親の胸の中から出て、琵琶を再び立て掛けた。

 この瞬間が幸せだということを、かさねは知らない。

  

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