願わくは、あなたの風に抱かれて 第17話

 あの方は、今宵もおいでにならない……。

 女は几帳に囲まれた暗い室内で、長い髪を数本口の端に噛みながら悔しそうに顔を歪める。

 こんなにも愛しているのに、あの方は何も返してくださらない。

 最初はそれでも良いと思っていた。いつかきっと、この想いに気づいてくださって、妻に迎えてくださると思っていたのに。

 幾度身体を重ねても、あの方から熱は感じない。それすらも近ごろは無くなってしまった。

 誰かがあの方の心の中に住んでいる。

 皆気づいていないけれど、私は知っている。

 1月の下旬、撫子の御方が桜花殿に里帰りされた。惇長は寝殿を撫子の御方にお譲りし、自身は珠子の住んでいる北の対へ移動した。以前里として進呈したこともあり、全て滞りなく行われ、皆安堵していた。

「だからと言って、私の局に入り浸るのはどうかと思いますよ」

 かさねは縫い物をしながら、脇息にぐったりと凭れている珠子に言った。珠子は少しお腹が膨らんできていて、つわりはないがどこか苦しそうだ。

「だって、あちらは人がひっきりなしに来て疲れてしまうのよ。たまには休みたいわ。色々大変なのはわかっていたけれど、想像以上よ」

「そちらよりはマシでしょうけれどこちらも同じものですよ。殿も一条様もおいでなのですから、お二人におまかせになっては……」

「そうはいかないのよ。義母様もおいでくださってるから、何かと助けていただいているし」

 成る程、普段は居ない姑が同じ部屋に居るとなると、気が滅入るというものだろう。ただでさえ珠子は何も知らないお姫様なのだから。

「第一惇長様もいけないのよ。私の顔を見ると、お前は身重なのだから寝ていろ。何もするな! っておっしゃるから。それで義母様が……」

 そこまで言うなり、珠子は唐突に涙を零し始めた。

「何も出来ないのだから寝ていなさい……って」

 泣き出した珠子にも驚いたが、何も出来ないという言葉はいただけない。かさねは咄嗟に慰める言葉が見つからなかった。とりあえず妊婦を刺激してはいけないので、疲れているのだからとかさねは自分の褥を用意して珠子を横にさせた。珠子は少しやつれたようだ。可哀相に、元来人見知りなのに、大勢の女房たちを前に、あれやこれや気を揉んでいるのだろう。

 枕に頭を預けて、珠子がこちらを見た。

「ねえ……かさね」

「はい」

 かさねはしっかりと珠子を袿で包んだ。さらに自分の綿入りの大袿を掛ける。これで寒くはないだろう。外は朝から雪が降り続けており、とても冷えるのだ。

「私、結婚しないほうが良かったのかしら?」

「また上らしくないことを口にされます。殿は上をとても深く愛しておいでです。失礼ながら私達は当てられっぱなしです」

「でも私、何もして差し上げられないの」

「お腹にお子様がおいででしょう? 北の方としてのあれこれは、まだ昨年始まったばかりです。昨日や今日でできるはずがございません。私が思いますに、義母様は、上に期待しすぎておいでなのではないでしょうか? そんな気がします」

「期待はずれだったのね……」

 また美しい瞳に涙が溢れ始めたので、恐れ多いと思いながらも、かさねは珠子の左手をしっかりと握った。

「違いますよ! 義母様がいけないのです! 長年北の方でいらっしゃるご自分と、昨年なられたばかりの上と一緒にするなんて、それこそお姫様育ちも良いところですわ!」

 かさねは、珠子を励ましたい一心でそう言った。

「……かさねってば。ふふ。でもありがとう」

「大丈夫ですよ。上ならすぐに逆転できますからね!」

「そうね……頑張るわ」

 珠子は微笑み、本当に疲れているようで、そのまま寝入ってしまった。

 大貴族の北の方というものは、本当に大変そうだ。

 もう自分は結婚しないからいいが。

 かさねは刺繍していた布をたぐりよせ、刺繍を再開しようとして、とんとんと誰かが格子を叩く音に気づいた。

「おりますよ」

「入ります」

 初めて見る老婦人が入ってきた。随分と貫禄があり、何故か後ろで一条が難しい顔をしている。

 若い頃は随分綺麗な人だったのだろうなという感じの老婦人は、かさねの横に座った。

 何か思いつめているようで、顔つきが厳しい。一体誰だと一条を見やるが、一条ははらはらとするばかりで何も言えないようだ。着ているものから、一介の女房ではないことは確かだ。

「そなたが、陰陽頭の女房殿ですか?」

「……はい」

「ふうん……」

 値踏みされている。一体何なのだろう。だが、かさねは何の失態も犯した記憶はないので、その視線にじっと耐えた。老婦人の視線は几帳を隔てた向こう側で眠っている珠子にも注がれたが、すぐにかさねへ戻ってきた。

「私は、世間知らずの姫君ですか?」

「え?」

「姫様育ちも良いところだとさっき言っていたでしょう?」

「芙蓉の上様! この者は……」

 一条が何かを言おうとして口を挟んだが、老婦人に睨まれて口を噤んだ。

 どうやら、例の義母君らしい。

 下手な言い訳は出来ないし、そう思ったのは確かだ。かさねは黙って頷いた。

「それはそなたも同じでしょう? 誰の耳があるやもしれぬ場で、よく言えたものです」

 扇を広げ、目線だけで睨んでくる芙蓉の上は、なかなかの迫力だ。大変なことを聞かれてしまったと思ってももう遅い。

「失礼しました……私は、」

「違う」

 芙蓉の上は睨むのを止め、目を和ませた。

「ただ……」

 扇を閉じ、それを静かに膝の上に置いた芙蓉の上は、深くため息をついた。

「桜花の上は幸せだなと思っただけです」

 桜花の上と、珠子は外では呼ばれているらしい。

 一条が、芙蓉の上の袖を軽く引いたが、芙蓉の上はそれをうるさそうに払った。

「一条、誰かに白湯を持たせて。桜花はこちらにいるとわかったのだから、大将にもそう伝えておきなさい。中宮にも」

「はい、では……」

 誰かが忙しなくこちらへ向かう足音が近づいてきた。

 心配そうにしながらも出ていく一条と入れ替わるように、彰親が局に飛び込んできて、芙蓉の上に気づいて、さっと隠れたが、こちら側を向いていた芙蓉の上の目をごまかせるはずもなく、呼び入れられた。

「彰親、こちらへ来なさい」

「いえ、あの、ですね」

 彰親は居心地が悪そうにもじもじとしている。珍しいこともあるもので、かさねはじっと彰親を見つめた。

「今更何を他人ぶっておるのやら。惇長とそなたを我が子同然に育てたのは私ですよ。さ、さっさとこちらへおいでなさい」

「……まいりますね。相変わらずでいらっしゃる。惇長殿はとっくに逃げましたよ」

「あとで呼びます。まったく、妻を放って妹にかまけて、情けない」

 おずおずと彰親が下座に座ろうとしたので、かさねは慌てて自分の座を彰親に譲ろうとしたが、彰親本人に留められた。どうやらこの芙蓉の上が怖いらしい。

「そなたの意中の女房がどのような姫かと思って見に来たのですよ。そうしたら桜花殿がいらして、泣いているので驚いて隣に隠れていました」

 それで話が筒抜けだったのだ。隣の紅梅の君はさぞ驚いたことだろう。

「またそんなことを。大殿にお叱りを受けますよ」

「かまうものですか。どうせあの方は何もできないのですからね。それよりもまあ……、こんな可愛らしい方とどのようにして知り合ったの?」

「ご勘弁ください」

「その様子を見ると、何もできていないようですね。どうしてお前はそう奥手なのやら。前の恋は癒えたのでしょう?」

「前の恋?」

 思わず口を挟んでしまい、僭越だったとかさねは袖で慌てて口を隠した。しかし、芙蓉の上は気にした風もない。

「誰かに恋して失恋したみたいなのよ。惇長に聞いても教えてくれないし」

「まあ」

「だからどこかの姫をと思っていたら、惇長が、そなたのことを言ってきたのよ」

「…………」

 明らかに惇長が、彰親とかさねを弾除けに使っているのが見受けられる。かさねは彰親とそういう仲ではない。

 彰親は困ったようにかさねを見て、芙蓉の方に言った。

「それでこちらへいらしたんですね。左府の北の方が突然現れて、蘇芳も隣の紅梅も胸が潰れるほど驚いたでしょう。昔から突飛な行動をされる。すぐに左府が参られますからね。早く中宮のところへお戻りくださいよ」

 芙蓉の上はつまらなそうに扇を広げて扇いだ。

「そなたらは直ぐに親を邪魔にする。冷たいのう」

「邪魔も何も、こちらはいくらでも女房がおりますので人手が余っているくらいなんですよ。そこへ上がいらっしゃると、そりゃ、桜花の上も気を病まれますよ。あんな言い方なさって! ただでさえ最初のお産で気が不安定なのに……」

「こちらも言い過ぎたと思って謝りに来たのよ」

「だとしても先触れもなくおいでになるのは駄目です!」

 芙蓉の上が何かを言う前にと彰親が焦っているのがわかる。こうして見ていると、芙蓉の上は明るくさっぱりとした性格で、嫌な人ではなく、きつく言い過ぎたと反省しておいでのようだ。  

 どちらにしろ自分の先程の言葉は失言だ。いくら珠子を励ますためと言っても良くないことだった。だが、先程止められてしまって、切り出し方がわからない。彰親を見ると、小さく首を横に振った。

 ほどなくして一条が、左府が迎えに来ていることを告げ、嵐のように現れた芙蓉の上は名残惜しそうに局を出ていった。

「はーーーーーーーっ。全くあの方は」

 疲れたと言わんばかりに彰親が肩を落としたのがおかしくて、かさねはくすくす笑った。

「楽しい方みたいですね」

「ええ、楽しいしとてもいい方ですよ。惇長殿も私も、我が子のようにかわいがってくださいました。だから頭があがらなくて……。すみませんでしたね」

「いえ、私はいいんです。それよりも上は」

「居所がわかったのですから、そのままにしてあげてください。夜にはお目覚めでしょうし。のんびりしている上とあの方じゃあ、そらこんなふうになりますよ。今回は完全に惇長殿の手落ちですよ。本当なら撫子の御方がお叱りになるんでしょうけど、御方はつわりが重くていらして……」

「大変ですね」

「ええ。今の所呪の気配はありませんが、油断はなりません。それが心配で芙蓉の上もいらしたんでしょう」

 戻らなくてはと彰親は立ち上がりかけ、何故か座り込んだ。

「殿?」

 切れ長の茶色の瞳にじっと見つめられると、なんだか胸の奥がもぞもぞとする。

「ねえかさね。芙蓉の上にばらされてしまいましたので、白状します。貴女が好きです」

「……殿?」

 熱でもあるのかとかさねは首を傾げた。そのかさねに彰親の腕が伸びてきて、いつぞやと同じように抱きしめられた。

「私の初恋は妖の貴女で、結婚するのは今は人間の貴女にしたいです」

 驚きすぎて、かさねは言葉も出ない。

「幾返り咲き散る花をながめつつ 物思ひくらす春に逢ふらむ……そんな年月でした。私は貴女に記憶を消されても、ずっと貴女を探していました。昨年それは別の人だと思っていましたが、本当は、かさね、貴女だったのですね」

 かさねは何も言わないまま、抱きしめられていた。

 相変わらず彰親は優しい風を持っている。

 だが、駄目だ。

 この人には幸せになって欲しい。前世で多くの命を奪った、自分のような人間では駄目なのだ。

 それにかさねは近づいてくる躬恒の気配を、肌でずっと感じていた。

 まだ彼を恋しいのだろうか?

 絶望しながらも躬恒のことが頭から離れない。

  

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