白の神子姫と竜の魔法 第32話

 あれ?

 いつまで待っても衝撃が来ない。それどころか、ジークフリードは私を離し、黒竜公を追う。

「お待ちを! 父上」

 黒竜公は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

 ジークフリードは片膝をついた。私は、彼がそんなふうに人に傅くのをはじめて見た。

 どうしたの? ジークフリード。私を……。

「……できません」

「何?」

 驚いて問い返す黒竜公の声と、オトフリートが「馬鹿な」と言う言葉が重なった。

「今何と言った?」

 黒竜公が戻ってくる。ジークフリードは、片膝をついて頭を下げたまま動かない。

「できませんと、申し上げました」

「この私に逆らうと言うのか!」

 実の息子であるジークフリードを、黒竜公は情け容赦なく蹴飛ばした。ジークフリードはまともに蹴りを受け、そのまま床に転がった。

「私はお前を、そのような腑抜けに育てた覚えは無い!」

「お止めください!」

 部屋の出入り口にたむろしている使用人たちを掻き分けて、ジーナが駆け込んできた。そしてジークフリードに駆け寄り、切れた唇から流れる血を、自分のハンカチで押さえた。

「なんということを……」

 ジークフリードをわが子のように抱きしめ、ジーナは肩を震わせて泣いた。

「案ずるな、ジーナ」

「でも」

「いいのだ」

 ジークフリードはジーナにハンカチを返して、ふらりと立ちがあがり、黒竜公を静かに見つめた。その黒の双眸には悲しみと諦めが色濃く滲んでいて、見ているだけで胸が締め付けられる。

「父上、私は貴方に育てられたのではない。私とクララを育ててくれたのは、このジーナとそこに居る城の者たちだ……!」

「愚か者めが!」

 黒竜公の右手が竜の手に変化し、ジークフリードの胸を切りつけた。避けなかったから、服が引き裂かれて血が流れた。前に垂れ下がっていた黒髪も切られ、血と共に下へ落ちていく。

「いつからお前は、そんな軟弱者に成り下がった。宰相たるもの、いらぬ感情は切り捨てろ」

「なら父上、貴方は、自分や国の為に母上を殺せるのですか?」

「黙れ!」

 激昂した黒竜公が、銀色の光の衝撃波を振り上げた右の手のひらから放った。ジークフリードは衝撃波を真正面から受け止め、後ろにあった天蓋が落ちている寝台と壁にぶつかって転がった。次いで、部屋の窓も壁も全てが破壊され、破片が私のほうへ飛んできた。

「きゃあっ!」

 破片が突き刺さると思った刹那、近くに座り込んでいた瀕死のオトフリートが、バリヤーを作って避けてくれた。

 体力が消耗するから、魔力を使わせたくないのに、オトフリートはバリヤーを張るのを止めない。この人は、この人なりに、私を大事に思ってくれている。そんな価値ないのに。

 私は、オトフリートの傍らに膝をついた。

「……見ていなさい、彼らの正体を。そうしたら貴女は目が覚める。だが、私が描いていたものとは、筋書きが変わりそうだ」

 寂しそうにオトフリートは笑う。ジーナが寄ってきて、どくどくと血を流し続ける傷口の応急手当を始めた。脂汗がひどくて顔色が土気色になっている。直ぐにでも手術をしたほうがいいほどの傷なのに、オトフリートは座り続けた。

 黒竜公があの魔法のノートを出現させ、あちこち傷を負ったジークフリートに投げつけた。

「書け。その娘の死を!」

「できませんと申し上げました」

「お前は、私にいつから逆らうようになった……?」

 地の底を這うような、低い声は、黒竜公の怒りを強く現していた。普通の人なら失神するであろう恐ろしい形相に、ジークフリードは動じない。

「確かに私は、リン王后を愛していました。だが、今は鈴を愛しているのです」

「まだ言うのか、ジークフリード!」

 また衝撃波が放たれる。ジークフリードはまた避けなかった。しかし今度は、ジークフリードを傷つけるには及ばず、彼の中に吸い込まれていった。

 黒竜公は、自分よりも息子の魔力が上回ったのを目の当たりにし、切れ長の目を見開いた。

「お前……!」

 ジークフリードはノートを開いた。相変わらず、文字が次々と浮かび上がっている。

 それをやわらかく見つめながら、ジークフリードは竜の爪でなぞった。

「相手を束縛し、意のままに操るノート。私は、鈴が言う事を聞かなければ使うつもりで、これを作り出しました」

「フィン」

 私の声にジークフリードは反応し、こちらを見てくれた。愛しさに満ちた瞳で。

「……でも、どうしてもできなかった」

 静かにノートは閉じられる。

「魔法で相手を意のままに操ったら、また、母上のような人間をまた生み出してしまう。そんなおろかな真似がどうしてできよう」

 オトフリートがそこに口を挟んだ。

「宰相。しかし貴方は、最初に鈴を脅した」

 こくりとジークフリードはうなずく。

「確かにそうだ。だが、私は絶対に相手を操るまいと、鈴が逆らった時に決めた。脅しに逆らい怒りに燃えるその心は、自由であるべきだと思った」

 オトフリートは深くため息をついた。

「蘭の思いは、確かにお前に受け継がれているようだ……」

 ゆっくりとオトフリートは床へ倒れていく。さすがにもう横にならなければ、起きてはいられないのだろう。

 大きく崩れた壁や窓から強風が入り込み、部屋の中を駆け抜けた。

 黒竜公は竜の手を普通の手に戻し、目を細めて自嘲気味に笑った。何故か、自分を見捨てて置きざりにする親に縋り付く幼子が、その姿と重なった。

「そういうことか……」

「どうしたの……?」

 黒竜公に抱かれているラン様が、何度か目を瞬きして黒竜公を見上げ、なんと優しく口付けた。

「なんでもありませんよ、ラン。行きましょうか」

 たちまち黒竜公の声が甘くなる。

 黒竜公は私たちを一瞥して、再び身を翻す。そのまま出て行くのかと思いきや、立ち止まった。

「オトフリート。すべて失敗したな」

「いかなる罰をも覚悟しております」

 オトフリートが言う。

「お前には、それすら受ける価値は無い」

 冷たく言い捨て、黒竜公は部屋を出て行った。

 黒竜公は、ジークフリードと私が共にあることを、許してくれたのだ……

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