天使のキス ~Deux anges~ 第04話

 午後十時、麻理子は貴明の部屋の、隣の控え室に入った。

 応接室は静かだ。貴明は在室だが呼ばれる気配はない。あのにやにやの貴明なら、入ったと知れた途端に何かを言ってくると、麻理子は警戒していたので、拍子抜けした。

 貴明からの呼び出しが無い限り、何をしても構わないのが夜勤のいい所であり、また一方で、なくてもいいと思う所でもある。

 本などを読んで時間を潰している間に、深夜零時になった。

「はー……」

 はっきり言って、暇だ。

 いつもどおり、貴明は、メイドを呼ぶつもりはないらしい。ひょっとするともう寝てしまったのかもしれない。

 零時を過ぎたら、仮眠をとってもいいことになっている。

 麻理子は昼間の仕事疲れもあって、照明を暗くし、そのまま控え室のベッドに横たわった。

 目を閉じると、心が鎧を外してしまう為、開放されたやるせない思いがわきあがってくる。

 今日も二人の男性社員に告白されたが、麻理子は断った。どちらとも、誠実そうで素敵な男性だったのに、どうしてもつき合う気になれない。二十七歳という年齢もあり、この年の女につきあいたいという男は、結婚を前提にした交際を求めてくるのだ。

 麻理子は、どうしてもそれに対して、イエスとは言えない。

 貴明の義父から押し付けられた借金のため、絶望した麻理子の父親は母親を伴って自殺し、会社は倒産した。住んでいた屋敷は、叔父が他人に奪われない様にと配慮してくれて、なんとか現存しているようだが、帰ろうとは思わない。

 元華族の令嬢から、借金まみれの普通の生活以下への転落。

 親の借金を子供が負う必要は無い。しかし、独りぼっちの麻理子は、借金返済という生きる支えがないと倒れてしまいそうだった。大好きだった父母がいない世界に、耐えられないのだ。なのに、その生きる支えの為に、麻理子は結婚という物には踏み切れないのだった。

 当然、男女交際をしようとも思わない。

 なのにどこか寂しい。

 いつしか寝入り、夢の中で、麻理子は幸せな日々に戻っていた。父母がいて、使用人にかしずかれている。皆笑っている。

 麻理子の作ったケーキを前に、皆がテーブルにつき、父が切り分けてくれるのを、わくわくとして待つ。

 麻理子の前に父がケーキの皿を差し出してくれ、それを受け取ろうとした途端、いきなり世界が真っ暗になった。

 全てが消え、暗闇の中に一人立ちすくむ。

 誰もいない。

 闇から抜け出そうと必死で走った。走っても走っても何も見えない。

 疲れて倒れ込み、ぜいぜいと息をしていると、誰かが傍にやってきて、その手が額に触れた。

 誰だろうと見上げたところで、麻理子は目が覚めた。

「大丈夫か?」

 貴明がベッドに腰掛けて、心配そうに、麻理子の額に手を当てていた。

 一瞬、麻理子は自分がどこにいるのか、わからなかった。

(え? ……ここどこだっけ? 何!?)

 麻理子と目が合うと、貴明は手を離した。

 自分の枕元に男がいる! という状況に、麻理子は驚き、しどろもどろ言った。

「あ、あの、なんでここにいらっしゃるのですか?」

「……ひどくうなされてた。君、汗びっしょりだよ。苦しそうな声が聞こえてくるから、気になって見に来たんだが。大丈夫か?」

「私……夢見てて……」

 わざわざ様子を見てもらうとは、これでは逆だ。麻理子は自分を情けなく思った。

 汗で貼り付いた上着が気持ち悪い。しかし、嫌な動悸は治まっており、呼吸も普通に戻りつつある。

「その様子だと、もう大丈夫みたいだな。着替えたらワイングラス二つ持ってきて。話がある」

「話?」

「そう」 

 時計は、深夜一時を回っていた。

 貴明が控え室を出て行った後、しばらく麻理子は呆然としていた。

(……と、いけない。お待たせしたら)

 控え室のシャワー室でシャワーを浴び、用意しておいた新しいメイド服に着替え、ワイングラスをトレイに置きながら、話とは一体なんだろうと考えたが、何も浮かばなかった。

 仕事で何か、重大なミスでもおこしただろうか。

 しかしそれなら、メイド長から注意を受けるのが普通だ。

 貴明の部屋は、ソファの間にあるランプが、柔らかな光を投げかけているだけで薄暗かった。

 入ってきた麻理子に、貴明は自分と反対側のソファを指し、座るようにうながした。

 ワイングラスをテーブルに並べてから座り、改めて対面すると、麻理子はなんだか緊張してきた。

昼のように接近していなのに、貴明もシャワーを浴びたてなのか、覚えのある石鹸の匂いがする。服は普段着の白のシャツを、ボタンをいくつかはずしてくつろげ、深緑のスラックスを履いていた。あの長い髪は左肩の方へ纏めて束ね、前へたらされており、うっとうしく感じない。

 貴明は、テーブルに用意していた、高級そうな白ワインボトルの栓を開け、それぞれのグラスに注いだ。

「……今日、断るかと思った」

「すみません」

 麻理子は、貴明が差し出した、グラスを受け取りながら謝罪した。

「謝るってことは、一旦断ったんだな」

 貴明はグラスを一気にあおり、空になったグラスに自分でワインを注いだ。そして、ふと気づいた様に言った。

「あれ? 君……扉を閉めたのか?」

「え、あ? ああはい……。開け放しはよくありませんから」

「この部屋に繋がる扉は、防犯システムが働いてるから、閉めたら朝の八時まで開かないんだぞ?」

「ええっ?」

 という事は、これから朝の八時まで、この部屋に貴明と二人きりだ。焦っている麻理子を見て、貴明はくすくす笑った。

「僕はうれしいけど、君は嫌だよねえ。安心して? 僕の持ってるカードキーで、直ぐに開けられるからね」

(そ、そうなの? よかったあ!)

 ほっとしている麻理子に首をすくめ、貴明はソファに凭れた。

 あの息が詰まる沈黙になる前に、麻理子は口を開いた。

「あの、社長は、今まで夜勤で呼び出しを、された事はないと聞きましたが」

「ああ、そうだけど? それが何か?」

 何かと聞かれると麻理子は困る。貴明は茶色の瞳をきらりとさせた。

「ま……そのワイン飲んでよ。君、好きなんだろお酒」

 まさか、変な薬が入ってはいないだろうなと、麻理子は怪しみながら、ワインを見た。

 失礼かもしれないが、このニヤニヤ笑う貴明ならやりかねない。いつもの冷たい息苦しいブリザードの様な貴明なら、信用できるのにと、麻理子は向かい側の上司を上目遣いに見やった。

 その視線を、貴明は別の意味に捉え、

「それじゃあ物足りないの? 君はなんでもべらぼうに強いらしいから、ウォッカの方がいいかな」

と、言った。ずうずうしいと思われたと勘違いし、麻理子は焦った。

「いえ、結構です、これで」

 もうどうなってもいい。なるようになれとばかりに、麻理子は一気にワインを飲んだ。すっきりとした甘さで美味しい。

 飲みっぷりが素晴らしいと貴明は喜び、どんどん注いでくれた。あっという間にボトルは空になり、貴明は、今度はウォッカの透明なボトルと、氷の入ったグラスを持ってきた。

 透明な液体が静かに注がれると、氷が繊細な音をたてて、ランプの光で煌めいた。

「あの、私、あんまり強いのは……」

「べつにしおらしくしなくてもいい、全然酔わないって聞いてるよ。……僕と同じだ」

「同じ?」

 貴明は真面目な顔でうなずいて、ウォッカを半分程飲み、深くため息をついた。

「いつも心を凍らせておかないと、足元をすくわれる。あまりの冷たさに耐えきれなくなった時、にこれを飲んで、本来の自分に帰る生活をずっと続けてる」

 麻理子は、社長である貴明が、ただの使用人に過ぎない自分に、そんな弱音を曝け出すのが信じられなかった。最近の貴明は、いちいち麻理子を驚かせる。

 何かを企んでいるという風でもない。

 隣の貴明は、妙に疲れた寂しげな横顔だった。

「何故私に、そんな話をされるのですか? 赤の他人の私に。それに私は…」

「君は媚を売って来ないから、安心できる」

 貴明は、またウォッカを飲んだ。そして、その熱さに耐えきれないのか、右腕をだらしなくソファの背もたれに回し、頭をもたげた。他の男ならただの酔っ払いで、自堕落に見える姿でも、貴明がすると様になって気だるさが美しい。

「こんな大金持ちで、代表取締役社長で、ほどほどの容姿に恵まれたらね、それ目当ての連中しか寄って来ないんだよ。あいつらが欲しいのは地位と財産だけさ、僕自身じゃない。僕は自分ほど悪辣で愚かで神に見放された男を知らないからね。正体を知ったら、皆顔を青くして逃げ出すはずさ」

 貴明は自嘲気味に笑った。

「死んだ親父がそういう人間だったから、継ぐまで、こんな家も会社も、潰れちまえばいいって思った。そうしたら、この家から自由になれる」

「あの、社長……」

「そう思ってたけど、結局はこの道しか僕にはなかったから、全て継いだ。だけど時々思う。佐藤グループを継いでいなかったら、どんな人生が待っていたのだろうとね」

 そこまで言って、貴明は頭を横に振った。

「いや、やはりこの道しかなかったろうね。何をしても、僕には不向きで駄目になっていただろう、君にも出会えなかったろうし。ふふ」

 無邪気な笑顔は、かえって麻理子の警戒を誘った。

「………最近の社長は、随分とおしゃべりですね」

 この三年、あんなに素っ気無かった男なのに、ここ数日の変わりようは別人のようだ。

 貴明によって潰された会社は数多くある。会社のためなら手段を選ばず、経営手腕のあまりの冷酷さに恐れをなす社員も多い。そんな男が、麻理子にこのような話をするのは、何かを企んでいるのではと思わずにはいられない。

 貴明は、麻理子に視線をうつした。魅惑的な色が滲む瞳に、目が離せない。

「……やめたんだよ。親父のしでかした事に、遠慮する必要はないとね」

「やめた?」

「そう、君の両親が亡くなったのは、僕のせいじゃない。そうだろう?」

「それは……まあ……」

 貴明が、麻理子の家の事情について、こうもあからさまにするのは初めてだった。敵意が引きずり出されようとするのを、麻理子は使用人の仮面で隠そうとしたが、鷹のように鋭い目がさせてくれなかった。

 家の悪辣な過去を暴かれたら、困るのは貴明の方なのに、何故か麻理子の方がびくびくしている。

「だから、必要以上に拒絶するのはやめた。それだけ。君もそう思って欲しい」

「……そんなの……無理……」

 麻理子は、頭を横に振った。

「鍵を開けて下さい。これ以上ご一緒するのは苦痛です。社長にとっては関係ないお話だとしても、私には関係あります。借金は依然としてありますし」

「そう……」

「私は、ワイン一杯飲むのも値段を見ます。それくらい切り詰めてるんです。そんなの、社長にはわかっていただけないでしょう? 酔いたくても酔えないんです。だから……私……」

 借金放棄をしなかったのは、自分だ。貴明と義父の前社長は不仲だったと聞くから、この借金は貴明には迷惑なだけの話で、まったくと言っていいほど関係ない。会社に対しての借金ではなく、個人に対してのものだったのだから。

 結局、今まで自分が望んで、悲劇のヒロインを演じていたようなものだ。それをたった数分で暴かれて、麻理子は自分が惨めだった。

 立ち上がった麻理子は、その腕を貴明に掴まれて動けなくなった。

 惨めさの裏返しに睨みつけた麻理子の視線を、静かに貴明は受け止めた。たくさんの修羅場を掻い潜っている貴明には、麻理子の睨みなど、蚊に刺されるよりの感じない痛みのようだ。

「そんなに僕が嫌いか?」

「……嫌いではないです、でも、ついていけません」

「では好きか?」

 何故、好きか嫌いか問答になるのだ。

 振りほどこうとした腕は一旦離され、腰を抱き込まれた。おかげで、貴明の領域に深く入る結果になった。

「言わないってことは、好きだと判断してもいいのかな。お酒に酔えない毎日を、送らせていたとは知らなかった、そこまでさせた責任は、さすがに取ったほうがいいだろうな。どれぐらいで酔えるか知らないんだろう? おまけにその様子だと、ビールやワインでも、千円以下の安価な種類しか知らないようだ。そりゃ、酔えやしないさ」

 図星をさされ、麻理子は顔を赤くした。確かに、水のようなお酒しかしらない自分は、酒豪とは片腹痛い。

「このお酒、比較的安価な方だけど……。君には万を超えただけで高価だろうから、飲んだことはないだろう?」

 言いながら貴明が、麻理子のウォッカのグラスを手に取った。反対側の腕で麻理子は腰を抱かれている。あの昼間の事件が、今のような深夜に再現され、胸は今までの中で最高に高鳴って、逆上せて顔が熱い。

 嫌いな相手なのに、両手は自由なのに、麻理子は貴明の顔を見つめるだけで、何もできなかった。

「おわびに人生で初めて、姫を酔わせて差し上げよう」

「ひめ? 酔わせてって……」

 呆気に取られる麻理子に、貴明はにっこり微笑み、グラスのウォッカを飲んだ。

「あの、社長が飲んだら……」

 麻理子が言えたのは、そこまでで、気がついたら、貴明にソファに押し倒され、唇を奪われていた。

 口を塞がれて息苦しく、思わず口を開くと、貴明の舌がぬるりと入ってきて、ウォッカが注ぎ込まれた。麻理子はびっくりしたが、息苦しさから、飲み下すしか無かった。炎のように熱い酒だ。飲みきれないウォッカが筋になって口から流れていく。

「ん……ふっ!」

 この間の様な、一瞬のキスではなかった。

 舌を吸い上げられ、絡められ、舐められ、たちまち麻理子の頭の中を真っ白にしていく。吸い込む息ですら、吸い込まれている様なキスで、息苦しくて叫べない。

 動こうにも完璧に組み伏せられていて、びくともしない。

 貴明は、何回も何回もキスを繰り返し、麻理子の唇をむさぼった。

 そのうち甘いしびれが身体中に広がり、麻理子は完全に何も考えられなくなった。感じるのは貴明の柔らかくて熱い唇、熱い身体、力強く伝わってくる鼓動。それが自分の鼓動と重なり、心地よかった。

 貴明の身体も熱い。

 これがお酒に酔うという、感覚なのだろうか。

 それは、嫌なものではなく、むしろ好ましいものに思われた。

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