天使のキス ~Deux anges~ 第11話

 貴明が運転する車は、羅臼の海岸沿いを走っていた。海風が強く、車全体が衝撃を伝えてくる。朝とはうってかわって、海は白波が立っていた。助手席に麻理子、運転席の後ろは亜美、助手席の後ろは和紀が座っていた。

「あ、国後島が見えるわよ」

 亜美がはしゃいだ。さっき知床五湖を訪れた時には、雲と霧に隠されて見えなかった島が、海の強い風に吹き払われて現れたようだ。

「南に見えるのが羅臼山、北が爺爺岳よ」

 麻理子が言うと、

「本当にここは、日本の北の果てなんだな」

 と、貴明がぽつりとつぶやいた。

 ガイドブックを見ながら、和紀が亜美に言った。

「ここの海岸をしばらく行くと、野付半島があるけど、行くか?」

「野付半島?」

 亜美はあまり行く気がなさそうだったが、和紀が、めずらしいクロユリの群生地だと付け加えると、にわかに行く気を示した。貴明がそちらの方へ進路を取り、ちらりと麻理子を見たが、麻理子は海ばかりを見ていて気づいていなかった。

 車は、すぐにネイチャーセンターへ着いた。

 しかし、ある程度元気になったとはいえ、まだ本調子ではない麻理子は、車を降りなかった。三人でトドワラへ行くように促すと、和紀が、麻理子さんを見ているから、佐藤社長と亜美の二人で行ってきてください、と申し出てくれた。

「でもそれじゃ、和紀さんに悪いです」

「構いませんよ。まだ病み上がりの人を、放っておけませんからね」

 嫌がるかと思ったが、貴明は何も言わずに、亜美を伴ってトドワラへ続く道を歩いて行った。

 海の風が、車体を揺らした。

「本当は、私クロユリって嫌いなの」

 麻理子は、助手席から空へ流れる雲を見ながら、白状した。和紀は不思議そうに、首をかしげた。

「どうしてです。日本でも、そうそこら中には咲いていない、珍しい花ですよ」

「あと、トドワラも嫌い。あの潮風のせいで枯れ果てた木を見ると、気分が悪くなりそう」

「あれがここの売りなのに。……北海道へは、初めてではありませんでしたか?」

 くすくすと麻理子は笑った。

「初めてよ。今朝ネットで調べただけ。もしかしたら、皆ここに来るかもって思って。今頃、亜美もがっかりしてるかもね。クロユリにどんなイメージがわいていたのかしら? 亜美は華やかなものが大好きなのに」

 ネイチャーセンター内に喫茶店があるので、そちらで話でもしましょうと、和紀は麻理子を連れ出した。車を出た途端、海からの強風が、二人の髪や衣服をもてあそんだ。

 麻理子はバックから携帯端末を出し、空を流れる雲をカメラで撮った。

「空なんか撮って、どうするんです?」 

「東京では、こんな空は見れないからめずらしくて。昔から青空や雲に憧れてたの。自由でいいなって」

「東京でも、見られるでしょう?」

「でもこんなに綺麗じゃないわ。力強くもないし」

「都会は空気が濁っているし、高いビルが、大空をはばむように建っていますからね」

「都会は寂しいわ。沢山の人がいても、いつも一人きり……」

「沢山の人に囲まれていたら、一人ではないでしょう。会社に同僚もいるでしょう? 毎日誰かと話したりしていませんか?」

 不思議そうな和紀に。麻理子は首を微かに横に振った。

「和紀さんは、ご存じないのかしら……。本当の孤独は沢山の人がいるのに、その人たちと心が分かち合えない事だわ」

「勇佑さんでは、分かち合えないのですか?」

「あの人は……家族ではないわ」

 どれだけ慕っていても、勇佑は従兄で、家族にはなりえない。

「雲になりたいわ。風に乗って、いきたい所へ飛んでいけるんですもの」

 麻理子は腕を伸ばして、雲をつかむような動作をした。本当に風に乗って雲に乗り、飛んでいってしまうのではと、和紀が心配してしまうほど、麻理子は儚く見えた。

 喫茶店内は、観光客でごったがえしていた。和紀は何か視線を感じて、その方向を見ると、男連中が麻理子を見ている視線だった。麻理子は目立たないが、辺りを払う美しさだった。

 和紀は、妹の亜美のほうが若いし、美しいと思っている。しかし、麻理子の美しさは外面的なものだけではなく、内面から強く出ているようである。それが心地よい余韻となって、視覚に訴えかけてくるのだ。

 麻理子は借金を返す為に、生きているようなものだと亜美は言っていた。和紀は、そのために必死で働いているから、その真摯さが彼女の美しさの源だと思っていた。しかし、そうでもなさそうだ。

 何があろうと諦めない、生きる事へのひたむきさが、麻理子を美しくさせるのだろう。

 考えてみれば、それはあの貴明と同じだ。二人とも心の中に炎を持っているが、それを他人にはあまり見せない。だがその炎がちらちらと表に出てきた時に、人は二人の魅力の虜になるのではないだろうか。

 そしてその炎は、和紀も亜美も持っていないものだった。だから和紀は、もやもやとした嫉妬心が、出てくるのを押さえられなかった。

 この世で手に入らないものはないと思っていたのに、確実に手に入らないものが、目の前に存在するのが許せない。

 和紀は自分の才能にも、容姿にも、自信を持っている。女達はこちらから声をかけなくても寄ってきたし、大病院の院長という地位も、約束されている。

 だが、麻理子は自分に全く興味をしめさない。無関心なのだ。和紀は、それがプライドに障ってしかたがない。それは貴明に袖にされて、屈辱を覚えていた、麻理子の同僚の園子と同じ感情だった。

「麻理子さんは、男性とおつきあいされたことは、ないのですか?」

「ありません」

「一度も?」

「一度も……。これからもないと思います」

「貴女のような人が、もったいないですね。じゃあ、試しに私でもいかがですか?」

「ありがとうございます。でも、ご遠慮しておきますわ」

「私より、佐藤社長の方が、魅力的ですか?」

 麻理子は首を横に振った。

「そんなことではありません。和紀さんには、もっとふさわしい女性がいらっしゃると思います。未来の大病院の院長に、ふさわしい方が。貴方はご自分のお立場を、大事にされないといけませんわ」

 ありきたりな断りかただったが、正確に和紀の弱点を突いていた。

「やはり、貴女は、佐藤社長が好きなのでしょう?」

 しつこく、和紀が食い下がる。

「嫌いな人は、いらっしゃらないのではないですか? 亜美だってそうなんですから」

 自分は嫌ってたなと思いつつも、敢えて麻理子は訂正をしない。

「僕を嫌いという人はいます。だから彼だって、誰彼なしに好かれているとは限りません。むしろ嫌っている人間は僕より多いはずです。あれだけの大きな会社を、率いて成功し続けている。その分敵が多いんですよ、彼は成る程、非常に魅力的ですが、同時にあれほど危険な男はいませんよ。例の高校時代の話に限らずね」

 いきなり、麻理子は声をたてて笑った。呆気に取られている和紀に、麻理子は笑いながら言った。

「亜美が言ったのよ。貴方は、プレイボーイだから気をつけてって。ホントその通りね」

 和紀は赤面した。麻理子は、ウェイトレスが運んできてくれた、グラスの水を飲んだ。

「さあ、もうそんなことは、どうでもいいじゃないですか。二人が帰ってくる前に、いろいろ食べましょうよ。私、一昨日からまともに食べていないので、食欲旺盛なんですよ」

 ウェイトレスにいろいろ注文している麻理子を見て、和紀は黙り込むしかなかった。

 三十分ほど経った頃、貴明と亜美が喫茶店へ入ってきた。二人は、ずらりと並んだ食べ物を見て、心底あきれ返った。ゆうに五人分はある。

「麻理子さん、食べ過ぎですよ、それ」

 あきれ顔で言う亜美に、麻理子はそうかなと首をかしげ、それならと二人にも注文した食べ物をすすめた。和紀は、もう食べられないと腹をさすっている。

「そんなに食べたら太るよ、麻理子。君はこちらへ来た時から、病気の時以外は食べ過ぎだよ……」

 と、貴明も言った。

 麻理子は、痩せの大食いというのにふさわしいくらい、よく食べ、よく飲むのを亜美は思い出していた。その彼女の背後に、何かがぶつかってきた。

「きゃあ」 

 ぶつかってきた観光客ごと、亜美は転びかかった。その亜美を貴明は、いつかの麻理子と同じように抱きかかえた。

 それを見た麻理子の胸に、ナイフが刺さったような痛みが走った。どうしてかわからないが、二人が並んでいる所を、見るのがものすごく嫌だ。

「あ、ありがとうございます、社長」

 亜美が礼を言った。観光客は、亜美と貴明に謝って、急ぎ足で外へ出て行った。バスに乗り遅れかけていたらしく、窓からでも、発車しようとしているバスが見えた。

 麻理子は立ち上がった。

「お会計は私が済ませておきますから、皆さんは召し上がっててください。私、やっぱりトドワラが見たくなったから、行ってきます。貴明様がおっしゃるとおり、運動しないと太りそう」

「でも麻理子は、身体が本調子ではないのだろう?」

 貴明が目を細めた。

「ゆっくりいけば……、たぶん大丈夫です」

 怪しく思われているのがわかっていても、どうにも我慢できない。麻理子は逃げる様にその場を立ち去り、レジでレシートを渡した。その金額にさすがに食べ過ぎたかなと、思いながら代金を支払おうとしていると、横にクレジットカードが置かれた。

「カードは、使用できますか?」

 貴明が店員に尋ねると、店員は使用できますと言って、カードを受け取った。麻理子は慌てた。

「あの、私が支払うのでいいですよ!」

 そう麻理子が言っても、貴明はさっさとサインしてカード決済してしまう。そして、麻理子の手を強く引き、外へ連れ出した。本当は行く気は無かったから、こんな風にされると困ってしまう。行くと見せかけて車の中に居るつもりだったのだ。

 たちまちあの強風が二人を出迎えた。駐車場は車が沢山停まっていたが、人は、喫茶店やネイチャーセンターに吸い込まれているらしく、誰も無かった。

「一人で行かせない」

 貴明はそう言って歩き始めた。麻理子は立ち止まった。

「私一人で行きたいんです。第一、貴明様お食事まだでしょう? 召し上がってきてください」

「嫌だ。一人で行ったら、帰ってこなくなるかもしれない」

 再び、貴明は麻理子の手を引っ張った。だが、麻理子はその手を払って、トドワラへ続く道へ駆け足気味に歩き出した。貴明は直ぐ後ろをついてくる。ネイチャーセンターの壁と喫茶店の壁の間の、袋小路に間違って麻理子は入ってしまい、引き返そうとしたが、貴明が前に立ちはだかった。

「何を怒ってるの?」

「怒ってなんかいません。本当に太りそうだから、運動しようと思っただけです」

 病み上がりなのに運動すると言うなど、麻理子は支離滅裂な行動をしている。貴明には、トドワラへ行くという嘘は、あっさりと見抜かれているようだ。

「じゃあなんで、そんな泣きそうな目をしてるの?」

 貴明が優しい声で言った。壁に遮られて弱まった風が、長い金髪をふわっと舞い上げた。 

「泣きそうになんか、なっていません」

 麻理子は貴明に背を向けた。でも、そう言った後から涙が出てきた。何故泣くのか自分でもわからなかった。 

 後ろから貴明に抱きしめられ、頭に顔をうずめられた。振りほどこうとして麻理子は暴れたが、余計にきつく抱きしめられ、苦しくなるだけなので諦めた。

「さっき、亜美君を助けたのを怒ったの? 仕方ないじゃないか、転んだりしたら痛いだろう」

「そんなんじゃないです」

「じゃあこっち見て。僕の顔を見て言って」

「嫌」

 しかし、麻理子は貴明のほうへ向けさせられた。貴明から見た麻理子の顔は、嫉妬や恥ずかしさや、いろんな感情がせめぎあって、とても綺麗だった。貴明がからかうよう麻理子を覗き込んだ。

「麻理子って綺麗だね」

「離してください。それ以上されると私……」

「それ以上されると?」

 貴明に壁へ押し付けられた。麻理子が見上げると、貴明はにっこり笑った。

(この人は、なんて魅惑的な微笑みが、できるんだろう)

 危険な男なのに、愛などないというのに、心のどこかで、貴明が何かをしてくれるのを、麻理子は期待してしまっている。一度覚えた温もりがどうしたって、麻理子を離そうとしない。

「キスして欲しい?」

 甘い声で貴明が囁いた。ドキンと麻理子の鼓動が強くなる。それは弱まらず、どんどん強くなる。

『心を許してはいけない』

『彼は、殺人を依頼した』

 勇佑と、和紀の声が、麻理子を現実へ引き戻した。麻理子は首を横に振った。

「いえ、いいです。私は慣れてないんです、こういうの」

「……強引にされるほうが好き?」

 貴明の目が、きらりと光った。

 顔が赤くなるのが、自分ではっきりわかる。違うと言おうとした時には、貴明の美麗な顔がすぐそこで、ついばむ様に軽くキスしてきたかと思うと、次には熱く唇を押し付けられた。

「ん」

 少し唇を離し、貴明がまた囁いた。

「逆らうな、僕に合わせろ」

 また唇が重なり、今度は舌が入ってくる。柔らかな舌が、やさしく口の中を這い回り、麻理子は、逆らわずされるがままになった。角度が変わっても、キスは続いた。熱く甘いキスに、麻理子はぼうっとした。甘い毒が全身に回り、身体から力を奪っていく。終わった時には、貴明に、いつのまにか抱きかかえられていた。

「車に戻っていようか? 立っていられないみたいだし」

「……………」

 キスの余韻で、ぼんやりした麻理子は、愛おしそうに貴明に頬擦りされた。心の片隅でしきりに警鐘が鳴り響いても、心地よさのほうが上回った。

(私は馬鹿だ。お兄様の警告を、信じたくないと思ってる)

 静かに目を閉じた麻理子に、貴明が、頬を寄せたまま切なそうに微笑んだ。

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