天使のキス ~Deux anges~ 第12話

 平地では晴れて暖かだったというのに、山の中へ入るに従ってだんだん雲が増えて寒くなり、霧がかってきた。そして、摩周湖に着こうとする頃には、周りはすっかり濃い霧に包まれて、霧以外何も見えなくなっていた。気温も真冬並みの気温で、全員、朝しまったコートをまた出すはめになった。 

 駐車場には、バスが何台か停まっており、口々に残念がる観光客達の声が上がっていた。

「霧の摩周湖とは、良く言ったものだけど、まあよくこれだけ霧で隠してくれるもんだね」

 和紀の言い方が、何ともひねくれていて、亜美が、ふきだすように笑って、からかった。

「お兄様、三回目なのに、まだ一度もご覧になってないものね」

「そんなにいつも、霧の中にあるわけ? この湖って」

 麻理子が亜美に振り返ると、亜美はうなずいた。

「一年の大半はそうなんですって。そういえば、以前ここのガイドが変な事言ってました。一回目で摩周湖を見れた人は、男性は出世が五年遅れて、女性は婚期が五年遅れるんですって。だからお兄様よかったじゃない、ずっとエリートコースで出世しっぱなしじゃないの」

「……代わりに、婚期がおくれまくってるよ」

 亜美が笑った。和紀はますますひねくれ、麻理子がきょとんとしているので、亜美は爆笑した。

 車を降りて、他の観光客と入り混じって、ぞろぞろと売店の中を通り、展望台まで四人は歩いた。やはり、湖は霧で隠され、見えなかった。それほど見たかったわけではないが、見れないと見たくなる。麻理子は観光客たちの中を縫うようにして歩き、少しは見れないだろうかと首を巡らせてみたが、やはり湖は霧に隠されて、ちらりとも姿を見せてくれなかった。

「あの二人はわかるけど、麻理子もそんなに見たかったとは意外だな」

 背後から貴明の声が聞こえ、麻理子は驚いて振り返った。昼のキスが蘇り、顔を見ていられなくて、見えない湖を向き直った。 

「……摩周湖は、透明度が高くてきれいだと、ネットで見ました」

「すこしずつ不純物が、混じってきているらしいけどね、それでも、やはり透明度は高くて綺麗だよ

「貴明様は何度目ですか?」

「二回目。一回目は綺麗に見渡せたよ。秋でね、紅葉の赤や他の木の紅葉が湖に照り映えて、さらに綺麗だった」

 こうして話していると、やっぱり勇佑や和紀の言葉は嘘だと思えて仕方が無い。何かを企んで近づいているような不自然さは、まったく貴明の言葉には滲んでいなかった。

 しらず、貴明は、後ろめたい事柄などないのだと、いい部分ばかりを探している自分に気づき、麻理子は内心で苦笑した。

 それにしても、深い霧だ。

 湖も見たかったが、この深い霧の中にいるのも、好ましい。

 まるで、雲の中で浮いているようだ。麻理子は自分の望みが、叶えられた気がした。

「あ!」 

 写真を撮るため、麻理子は鞄から携帯端末を取り出そうして、手を滑らせた。携帯端末は、霧の中へ消えていき、水の中に水没する音がわずかに聞こえた。

「……下はすぐ湖だから、見つからないだろうな」

「そんな……」

 旅行中に撮ったものを、皆無くしてしまうとは、ついてない。おまけに愛用の携帯端末だったので、こんなことで失うとはがっかりだ。

「大丈夫だ。僕が撮っておいてあげるから」

 貴明が慰めてくれ、本当に霧を何枚かデジタルカメラで取ってくれた。

「電話がないと、ただでさえ不便ですのに」

「そうだね。ま、もう二日しかないからいいさ」

「…………」

 霧が流れた。

 やがて観光客たちは、バスの時間が来たらしくまばらになり、二人の周囲は霧だけになった。

 濃くなる霧に、二人は細かい水滴に覆われ始めていく……。

「貴明様は、一回目で見れたのに、出世コースまっしぐらですね」

「……出世コース、ね。僕は、人の出世の道を作るのが、仕事だからね。婚期は僕も木野君と同じ二十九歳だけど、遅れてるとは思わないな。婚期は自分の心が決める、麻理子はそう思わないか?」

「私には、わかりません……」

 その時、貴明の携帯端末が鳴った。

 麻理子はあっち見てきますと貴明に言い残し、右の方へ歩いた。歩きながら思った。

(私は、結婚なんてできないから、いいわ……)

 世の中、結婚しない男女なんてごまんといる。最近はそれが、当たり前という人も多い。その中に自分が含まれていても、不思議ではない。

 しかし父母が健在だった頃、麻理子は結婚して、子供を産んで、幸せな家庭を作るのが夢だった。その為に、花嫁修業にせっせと励んでいた。専業主婦の母が、ずっと幸せそうにしていたから、麻理子もそんな風になりいと望んだのだ。

 それほど、両親は理想的な夫婦だった。

 何故、置いて逝ったのだと、両親が自殺した時に、麻理子は何度も両親に問うた。だけど、それが両親の愛の形なのだと、わかっていた。二人に口がきけたなら、こう言ったに違いないのだ。

 ──麻理子は連れて行けない。

 麻理子が借金を返済することなど、両親は望まなかっただろう。だが、麻理子はその借金返済を、生きる支えにしている。その生きる支えが、彼女の夢を打ち壊してしまっているのだった。

 展望台の右の端まで来て、麻理子は立ち止まった。

 霧は、ますます濃い。

 ひょっこりと両親が現れても、不思議ではない気がして、麻理子は湖ではなく二人の姿を探していた。

 また、霧が流れて、今度は麻理子をあたたかく包み込んだ。

 しかしそれは、望んでいた人ではない。

「一人で泣くな。一人で泣くと、ますますひとりぼっちになる」

 麻理子の肩を抱いて、頭をぽんぽんと軽く叩くのは、電話を終えた貴明だった。麻理子はそこで始めて、頬を流れる涙に気づいた。

 現れたのが二人でなくても、麻理子の心は、ちっとも残念がらなかった。その手の優しさが、父によく似ていたせいもある。

「……貴明様って、お父様みたい」

 あの風邪で熱を出した次の朝、懐かしい匂いがしたのを思い出した。それは貴明の匂いだったが、父親によく似ていた。

 偽りのものかもしれなくても、あの時も、今も、この温もりだけは本物だ。

「あ、少しだけ今見えたよ」

 貴明の声に、麻理子が湖の方を見ると、確かに少し湖面が見えた。

「ホントだ」

 麻理子は涙を拭いて笑った。泣きたい時に泣いたので、なんだかスッキリした。貴明に頭をくしゃくしゃにされて、子供になった気分だ。なのに少しも嫌ではない。

「元気になったかな?」

 貴明は、天使がつついたように微笑み、麻理子の胸の鼓動が高鳴った。

 父親がいきなり、別人に変身したような感じだ。

「あれ? またドキドキか? ぜんぜん男に慣れないねえ。これじゃあ婚期も伸びちゃうね」 

「もう! 貴明様!」

 貴明は笑いながら逃げ、麻理子はその貴明を追いかけながら、売店に戻った。

(そう、きっとお兄様の勘違いだわ。そうに決まっている) 

 麻理子はそう願い、自分に呪文をかけた。

 店の中は、観光客の一団が去った後でひっそりしていて、和紀と亜美がストーブの前で手を温めていた。麻理子も指先が冷えていたので、亜美の隣に立った。

「ずいぶん長い間、霧の中にいらしたんですね」

「そちらで湖は見れた?」

「ほんの少し」

 亜美ではなく和紀が答え、和紀は、そのほんの少しが本当にうれしそうだった。

「どんな感じでしたか?」

「ちらりと湖面が見えました、晴れていたら絶景でしょうね。それよりお二人とも、タオルで頭を拭いた方がいい、濡れていますよ」

 二人は、そう言われて、初めて濡れている自分の頭に気づき、売店女性にタオルがないか聞きに行った。タオルはあった。そういう客が沢山居るので、サービスで常備しているらしい。

 売店の女性は、麻理子と同じ年くらいの美しい女性だった。

「前回は見れたのに、今回は残念でしたね」

 そう言いながら、その店員はタオルを貴明に、二人分手渡した。

「今日で二回目だが?」

「お客様程目立つ方は、そうそういらっしゃいませんから、良く覚えてますよ。相変わらず素敵ですねえ、あらそちらは?」

「そちらのご想像に、まかせますよ」

 貴明は冷たくかわして、タオルを受け取った。

 狭い店内だったので、そのやりとりは周囲に筒抜けだった。亜美や和紀を初め、ちらほらとだけいる他の観光客も二人に注目している。

 店の入り口で、キーホルダーを物色していた女達が、二人を見て意地悪くひそひそと話し始めた。

「釣り合わないわね、あの女と彼」

「あの男性の、価値が下がるわ」

 麻理子は注目されたのが嫌になり、車に忘れ物をしたから取りに行くと言って、外に出た。今日はこんなふうに逃げてばかりだ。

 今度追いかけてきたのは、和紀だった。

「どうなさいました? 具合でも悪いんですか? いくらなんでもお昼に食べ過ぎたからですよ。今頃お腹に来たのでは?」

「注目されるのが嫌いなだけです。車で横になろうと思って」

「貴女は、女性の視線には、敏感なんですね」

「どういう意味です?」

「男性の視線には、全く気づいていない。もしくは気づかないふりをしている」

 麻理子は腹が立ってきて、和紀を睨んだ。

「何がおっしゃりたいの? 私は、男性の気をわざとひいたりなんて、していません」

「怒っている貴女はとても綺麗ですよ。他の人にも見せておあげなさい」

 こんな風にからわかれるのは、麻理子は大嫌いだった。和紀に向き合い、さらに睨みつける。

「私は見せ物ではないわ! いい加減にしてください!」

 言った瞬間、和紀の手が麻理子の腕を掴んだ。和紀の顔が近づいてくる。キスされそうなほど顔が近づいたのに驚き、麻理子は思い切り突き飛ばした。

「麻理子……?」 

 霧の中から、貴明と亜美が現れた。

「どうしたの? 麻理子さん」

 店内からは霧で何も見えなかったらしい。亜美が不思議そうに聞いてきたが、麻理子は顔を赤くして、車に向かって一人で歩いていった。亜美は、くすくす笑う和紀に、咎める視線を投げかけた。

「駄目じゃないのお兄様。麻理子さんに変なこと、しようとしたんじゃないでしょうね」

「とんでもない。ただ、姫君は大層誇り高いようだな」

 笑いながら和紀は貴明を見た。だが、貴明は冷たい視線で返してきただけだった。

 貴明は、運転席に座りながら、隣りの麻理子をちらりと見た。麻理子は自分の手元を、じっと見つめて黙り込んでいる。和紀がにやにやしているので、何かをされて動揺しているのは明らかだった。

 しかし、合点がいかない。麻理子は男性から言い寄られた位で(和紀が多分せまったのだろうと貴明は思っている)こんなに動揺するはずがない。今まで散々屋敷の男連中から告白されたり、せまられたりしていたのを貴明は知っている。とにかくそういう話が豊富な麻理子だった。

 貴明の特技は、気持ちが動いているときも動いていないときも、同じように心うちが読めない顔ができる事だった。和紀はバックミラー越しに、それを見て、内心舌打ちした。

 本当に憎らしい。この男は何があっても表情が読めない。泣いたり悔しがったりしたことなど、ないのだろうか。

 亜美は何にも気づいていなかった。純粋に旅行を楽しんでいるのは、彼女だけだった。

 二人の男の思惑をよそに、麻理子は葛藤していた。

 和紀のキスを思い切り拒絶した時に、いまさらだが気づいてしまった。

(私がずっと、男性との交際を断り続けてきたのは、借金のせいだと思ってたけど違う。それはただの言いわけだったんだ)

 貴明に最初出会った時から、自分は貴明に恋をしていた。

(私は貴明様の抱擁を待ってる。もっともっと、奪って欲しいと望んでる……)

 勇佑と和紀の警告が、貴明を思うたびにセーブをかけてくるのに、抑えようとすればするほど、感情はそれを跳ね除けようとして、一層強くなる。

 かたくなまでの今までの男性への拒絶は、貴明への想いと比例していた。

 横目で貴明を見ると、あの霧の中の優しい表情は消え、氷の様だ。

 車はどんどん平地へ下っていく。霧はだいぶ薄らいできているので、中腹あたりだろう。

 貴明が、和紀に言った。

「貴方達は、明日はどちらへ行く予定ですか?」

「釧路湿原に行こうと思っていますが……」

「そうですか、じゃあ今日でお別れですね。僕たちは、明日、千歳空港に向かいますから」

「えー、残念。もっとご一緒したかったな」

 亜美が残念がった。

「また東京に帰ったら、遊びましょう」

 麻理子はそう言って、亜美を慰めた。

 深い霧は山を下るに従って、だんだん晴れていった。麓まで来ると太陽の陽射しが暖かい。

 阿寒湖畔はアイヌの人々のお店が並んでいて、結構にぎやかだった。知床は大自然そのものだったが、この辺りは開けた観光地のような一部分があった。亜美と和紀は、別のホテルに予約がとってあるからと言って、途中で降りた。

「また夜にお会いしましょう」

 そう和紀は麻理子に言った。その目は、まだ語らない、何かがあるのだと告げていた。

「時間があれば」

 憂鬱な気分に包まれながら、麻理子はそう返した。おそらく勇佑から何か言って来たに違いない。今朝から何度か電話をしているのに、どうも間が悪く、会議中だったり、来客中だったりした。湖に落としてしまった携帯端末は、もう取り戻せない。ホテルで改めてかけ直せば、和紀に会う必要はなくなるだろう。

 貴明が予約したホテルにチェックインすると、めずらしくスイートルームではなかった。

「たまにはいいだろう。この部屋気に入ってるんだよ。隣に君の部屋も取ったから、今日はもう休んだらいいよ」

「以前も、こちらに宿泊されたんですか?」

 麻理子は知っていた、貴明が泊まるホテルを急遽変更した事を。

 予定していたのは、亜美達と同じホテルだったのだ。

「貴明様、四人で行動するのは、あまりお好きではないみたいですね」

「そういうわけではないよ」

 ネクタイをほどく貴明は不機嫌そうだ。麻理子と二人だけだというのに、会社の中のあの冷たい貴明のままだ。

 たちまち以前のあの息苦しい雰囲気に包まれたので、緊張を解こうと麻理子は話題を変えた。 

「アイヌって先住民族なんですよね」

 貴明はパソコンでネットをつなぎながら、黙ってうなずいた。会社からのメールは珍しく来ていないようだった。

 麻理子はいろいろと話しかけてみたが、貴明は素っ気ない返事をするか、または無言のままだった。

 この休暇中、二人でいるときは明るい笑顔で話してくれた貴明が、今仕事をしてもいないのに、冷たい貴明に戻ってしまった。

「聞きたいのは、そういう事ではないだろう?」

 極限まで冷えた貴明の声が、麻理子を現実に引き戻した。はっとした麻理子は、近づいてくる貴明から後ずさり壁にぶつかった。その彼女の顔の横に、貴明の右手が乱暴に置かれる。窓の光の影になっている貴明は、本性を現したような恐ろしさを、体中から漂わせていた。

「……和紀に何を聞かされた?」

「何って……」

「親しくも無い男と、二人きりで話せるような君ではないだろう? かと言ってあの男に惹かれたようでもない。朝、化粧室で何があった? あれから君は様子がおかしい。亜美君は君が従兄からの電話を受けているから、遅れてくると言った。従兄が何を君に吹き込んだ?」

「それ……は」

 もう片方の手が、麻理子の右側に置かれた。囲われて追い詰められ、麻理子は心底震え上がった。甘いものなど少しも無い。

 震えている麻理子に、貴明は冷笑した。

「僕が危険な男だから、近づくな。そういう類のことを言ったんじゃないのか?」

「────っ!」

「高校時代の僕の過去を、暴いたのだろう? それなら事実だ。僕は、確かに殺人依頼をした」

 麻理子の中で、何かが砕け散った。

 そんな言葉が聞きたかったのではない。聞きたかったのは……。

 聞きたかったのは────!

「……そんなの、嘘に決まってる! 社長はそんな残酷なこと、されるはずがないもの!」

「麻理子っ」

 一瞬の隙をついて、麻理子は貴明を突き飛ばし、部屋から飛び出した。

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