天使のキス ~Deux anges~ 第15話
次の日は、雲が多く、薄暗い日だった。
最初に、オンネトー湖に行く予定になっていた。別名五色沼という、とても美しい湖らしい。
「陽が出ている方が、とても綺麗に眺められるんだけどね」
貴明はそう言いながら、ひざの上に置いた、白い袋を落ちないように気にしながら運転をしている。 麻理子はそれが気になって仕方がない。
今朝、早く起きたら、隣で寝ていたはずの貴明の姿が無かった。いつも七時まで寝ているのに、珍しいと思いながら麻理子は手早く身支度をし、ホテルの庭園を散策しようと階下へ降りた。
するとエレベーターの左の方にある売店で、貴明が何かを買っていたのだった。麻理子が声をかけると、驚いたように一瞬あとずさりし、その白の袋を何故か後ろに隠した。売店の女性は、その貴明を見て、笑いをかみ殺していた。
怪しさ満載で、麻理子はずっとその中身が気になっている。
車が角を曲がった際に、それが麻理子の方へ転がってきたので、麻理子が取ろうとすると、貴明はあわててハンドルを片手で操作しながら、取り上げた。
「なんで隠すんです? 怪しい!」
「わ、ちょっと待って。君みたいな人がそんな……」
「だって気になりますもの」
麻理子が意地悪を言って、袋の中を見ると、それは小さなガラス瓶にはいった毬藻だった。
常に沈着冷静な、有能な事業のやり手の男が……毬藻?
麻理子は、お腹の皮がよじれそうになるほど、笑った。
貴明は、だから見せたくなかったのにと、顔を真っ赤にしながら運転している。
「僕のじゃないよ。母が前から欲しがっていたから……」
二十九歳の男が、母の為に毬藻というのがおかしくて、また麻理子は笑ってしまった。
(これで本当に喜んでくれるかしら? 喜ぶとは思うけど、他にも装飾品や革細工や木細工みたいな、素敵なものがあったのに)
「母がね、以前欲しがってたからだよ。ホント。ま、セレブな年を召したご夫人が、これを買うのは恥ずかしいからね。僕だってかなり恥ずかしかったよ!」
それにしても、麻理子は三年屋敷に勤めているが、貴明の母親には会った事がない。会話には出てきたが、どこにいるのか誰も知らないのだった。
「貴明様のお母様は、どちらにいらっしゃるのですか?」
「いつも一緒にいるじゃないか」
今度は貴明が大笑いした。麻理子はさっぱり分からない。
「だって、本当にわからないんですもの」
「眼鏡掛けて、しかめっつらの女性がいるだろう?」
たちまち麻理子はわかった。
「メイド長!」
貴明は、うなずいた。
「先代が亡くなった時、メイド長になったんだよ。メイド達には伝えない事になっていたから、君が知らないのも当たり前だけど。うまく化けてるから感心する。僕の嫁探しの為になったらしいよ。今のメイド連中に、やたらと容姿や家柄のいいのが多いのはその為さ」
「じゃ……じゃあ……、皆、貴明様の奥様候補なんですか?」
「さすがに皆じゃないよ。数人だけ」
麻理子は、明かされた真実に驚くばかりだ。
「メイド長なんてしてるけど、佐藤グループの会長だよ。君たちが知らないだけで……有能な人なんだよ」
「恐いけど親切な方ですよね。いろいろ私いただきました」
「それ、君だけ。母は君をとても気に入ってるみたいだから。なんやかんや手を焼いてたみたいだね。君は僕を嫌がってたから、夜勤で君だけ外してたのも、君に辞めて欲しくなかったからさ。僕が麻理子を夜勤に呼ぶと言った時も「辞められたら困る」って大反対だったよ。僕の気持ちを打ち明けて説得した。それでも母はしぶってたよ。本当に君を気に入ってたんだろうね。最後には了承したけど」
道が徐々に細くなって、アスファルトの道から土の道に変わった。
オンネトー湖についた。
車の外は、ホテルを出た時と同じで、風が強かった。土の道は前日雨が降り湿気っていて、落ち葉と土の入り混じった匂いがする。それも都会育ちの麻理子には新鮮だった。
板で敷かれた遊歩道は、片側にしかなかったが、それでも小さな湖なので全体を見渡せた。
平日の朝早い時刻とあって、二人のほかに誰もいない。
「風がやっぱりきついな」
「でも、おかげで雲が流れてきました」
湖の水が、雲の切れ目から射した陽をわずかに反射したかと思うと、一面が虹色に煌いた。雲が流されて太陽が現れたのだった。
「きれい……!」
「おっと」
「すみません」
麻理子は、こんな綺麗な湖を見たのは初めてで、思わずよろめいてしまい、貴明が肩を抱いてくれた。
いい加減慣れそうなものだが、まだ貴明に触れられるのは麻理子は慣れていない。内心どぎまぎしながらも、動けず、二人はしばらくその湖面をみつめていた。
「こんな所に住んでみたいですね」
「そうだね、でも東京に帰らないと。もう明日には……」
麻理子が貴明を見上げると、貴明薄の茶色の目が湖面の光を受けて、いつもより澄んで見えた。
明後日からは、また貴明は会社で戦う毎日が待っている。その日々を乗り越えられるように、静かに力を蓄えているように見えた。貴明は麻理子の視線に気づいて、少し笑った。
そんなことが、麻理子はうれしい。
「私、ここがとても気に入りました。連れてきてくださってありがとうございます」
「うん」
貴明は、麻理子を放し、二人は並んでまた歩き始めた。
オンネトー湖は、ずっと虹色の輝きを二人に放ってくる。
ぽつりと、貴明がつぶやいた。
「……ここだったんだって、母と父の出会いの場所」
「まあ、先代もここにいらっしゃったのですか?」
「先代ではなくて実の父のほう。僕の本当の父親は石川雅文っていう、穏やかな男だった。母とは恋愛結婚でね……。ここで二人は出会って、一気に恋に落ちて、その日のうちに結ばれたそうだ」
早過ぎると麻理子は思った。
「でも石川は、僕が七歳の時に交通事故でいきなり亡くなってね……。莫大な財産と権力を持っている未亡人に目をつけたのが、佐藤圭吾……親父さ。親父ににプロポーズされた母は、結婚する代わりに条件をつけた。僕を……息子を必ず跡継ぎにする事。そして会社と財産を自由にできる代わりに、自分には指一本触れない事」
あのメイド長ならやりそうだと麻理子は思った。彼女は感情的に物事を考えない。いつも事務的に物事をこなす。情にほだされることはほとんどなく、ともすれば冷たい人間に思えた。
「先代はその時十九で、母は二十五だった。僕は先代に初めて会った日を忘れないよ。あの男の目は野望に燃え盛ってて、身を焼き尽くすようだった。とても十九の男の目じゃなかった。石川とはあまりに違ってたし、母が何故あの男と再婚したのかわからなかった」
そこまで言って、貴明は立ち止まり、オンネトーの水面を覗き込むようにしゃがんだ。
「今なら、会社のために結婚したのがわかる。だが親父は……それだけではなかった。母に振り向いてもらえなくて寂しかったんだろうな、とにかく女遊びがひどかった。そうは言っても、最後には愛する女に出会えて幸せだったろうね、結婚はできなかったけど子供も生まれたし」
くすくす貴明は笑った。立派な不倫だというのに、貴明やその母にとってはそうではないらしく、貴明の口調に暗いものはひとかけらも無かった。
「あの親父には、やたらとライバル視されて、ひどい目にあった。あいつは最後まで、弱みを僕に見せなかったな。歳が近かったせいも有るんだろうね」
麻理子は黙っていたが、一つ聞きたい事があった。
貴明が二十歳前後に熱愛したという女の事だ。貴明が今言った、先代の子供を生んだというのは、その女だろう。初めて聞いたような口ぶりで、あの遊覧船の中で和紀に質問したが、実際のところ、メイド達の間ではかなり有名な話だった。恵美と名前の、恋人関係にあった貴明と彼女は先代に引き離されたというものだ。さらに彼女は先代の愛人になったという。
今回、聞かされるまで、子供の存在は知らなかったが……。
この数年の間で、恵美という女が貴明に会ったという話は聞かないし、誰も姿を見ていない。メイドは先代が亡くなって間もなく、総入れ替えになった為、恵美という女を知る者はメイド仲間にはいない。本社の社員は誰も話そうとしない。貴明が恐いので遠慮しているようだった。
──── おそらく佐藤社長は、まだその女性をあきらめてないと思います。それぐらいの執念深さをお持ちのようだから。
貴明の過去の熱愛の相手……。
麻理子は我慢ができなくなり、しゃがんでいる貴明の背中に聞いた。
「あの……貴明様。貴明様はまだ過去の事を、何か隠されていませんか?」
「沢山あるよ。君にだって一つや二つはあるだろう。気にしだすときりがないんじゃない?」
上手くかわされて、麻理子は聞けなくなってしまった。
さっと立ち上がった貴明に、麻理子はぎゅっと抱きしめられた。
「僕には麻理子だけだよ。君以外を愛したいとは思わない」
優しい声で貴明がささやく。
いきなり後ろから歓声があがったので、麻理子が首だけで後ろを振り返ると、いつのまに来たのか、観光客とおぼしき若い女達数人が、はしゃいで遊歩道へ入ってきた。
たちまち静かだった湖は、けたたましく落ち着かない場所になってしまった。貴明がもう出ようと言い、二人はどんどん入ってくる人ごみに逆らって、遊歩道の出入り口まで大急ぎで歩いた。
狭い駐車場に停まれない観光バスが、離れた所にある駐車場に移動しようしている。乗用車はそれをよけてバックする。さっきとは打って変わって、人や車でオンネトー湖周辺はごった返していた。
人ごみではぐれないように、貴明が麻理子の手をしっかりと握りしめて歩いてくれ、車に乗れた時は二人とも一息ついた。
「早く来て正解だったね。あんなに人がうじゃうじゃいたら、ロマンチックな気分にはなれなかったろうから」
貴明がそう言いながら、車のエンジンをかけた。
ごった返しになっている土の道を抜け、アスファルトの道に戻ると、たちまち静かで荘厳な雰囲気に呑まれる。北の大地らしく針葉樹林しか育たない日高の山々は、冬の厳しさを訴えるかのようだった
観光地を抜けると車どころか、人に出会う事が本当にまれで、しかも信号も殆どない。すれ違う車がないからだ。麻理子は移動の度に、今生きているのは自分たち二人だけではという錯覚に陥るのだった。
でも、それは何故か彼女を幸福な気分にさせた。
ふとある事に気づいて、麻理子は貴明に聞いてみた。
「貴明様は煙草はされないんですね」
「害にしかならないからね。第一、煙草を吸うと見た目が汚くなるし、ヤニが不潔だ。まあ個人の自由だから会社は禁煙はしないけど」
「その割には、お酒はものすごいですね」
「酒は健康のバロメーターだからね。ちょっと飲んだだけで酔うのは、身体が弱っているからさ。体質にもよるから僕の勝手な主観だけどね」
「あ、そのバロメーターのお店がありますよ」
道路の左側に、観光客を対象にしたと思われる、ワインセラーがあった。
貴明が笑った。
「本当は君が行きたいくせに」
そう言いながらも、貴明もワイン好きなので気になるらしく、車をワインセラーの駐車場に乗り入れた。観光客用のバスが何台か駐車しており、店内は観光客がたむろしていた。やはり貴明は人目を引き、女性達の羨望の声がちらほら聞こえる。でも不思議な事に、昨日までのように言い寄ってくる女はいなかった。
麻理子が言うと、貴明は笑った。
「当たり前だろう。そうそう声をかけてくるような女はいないよ。昨日までのは雇われた女達さ。和紀にね」
麻理子は背筋がぞくっとした。昨日のあの恐怖がまだ抜けていなかった。麻理子の目が凍り付いたのを見て、貴明が手を握ってくれた。
「和紀の奴、半殺しにすれば良かったな。麻理子をあんな目に遭わせやがって許せないよ」
貴明はそう言いながら、試飲用のワインを麻理子に渡した。
「ま、あんな奴の事は忘れて、大好きなワインでも飲んで。僕は車を運転するから飲めないけど」
麻理子はワインを少し飲んだが、何故かあまりおいしく感じられなかった。心が沈むとおいしくなくなるらしい。
「すみません、ちょっと疲れましたので、車で横になりたいんですが……」
「そうか、朝早かったせいかな?」
店を出て、麻理子は車のシートに横になった。車内は暑く、貴明は車のエアコンをつけるため、エンジンをかけてくれた。そして、水をもらってくると言って、店内へ戻っていった。
エアコンが効いて涼しくなると、幾分か気分はよくなった気がする。
潮風ほど強い風でなくても、車体はわずかに揺れた。
目を閉じていると、コンコンと車の窓を誰かが叩いた。見ると和紀だった。
せっかく治まった昨日の恐怖を一瞬で思い出して、身体が震え上がり、麻理子はまた気分が悪くなった。貴明は今店に入ったばかりで、まだ戻ってきそうにも無い。ここは有名なワイナリーらしく、さっきからひっきりなしに車が入ってくるし、観光客で混雑している。どうりで駐車場が大きいわけだ。
和紀の背後に亜美がいた。
昨日の謝罪や、警察に言わないでくれとでも言いに来たのだろうか。麻理子は謝罪など聞きたくもないし、警察に言う気にもなれなかった。すべて忘れてしまいたい。しかし、二人は離れる気配が無かった。
仕方なく、麻理子は話を聞くことにした。
亜美が居るなら大丈夫だろうと思いながらも、窓は少ししか開けない。
「何か御用ですか?」
語尾が震えるのは、どうしても昨日の恐怖が抜けてくれないからだ。貴明が帰ってこないのが不安でたまらない。
「昨日についてまず謝ります。すみませんでした」
頭を下げる和紀に、麻理子は冷たい顔を崩せない。後ろで青い顔をしている亜美が気の毒で、彼女に優しい声を掛けてやりたかったが、どうにもその余裕がでなかった。
「そのことは、もう忘れてしまいたいんです。私の前から消えてくださるかしら」
「それはごもっともですが、最後にひとつ忠告をと……思いまして」
「社長は、犯罪者ではなかったんですけど?」
和紀はその返答を予想していたらしく、わずかに微笑した。
「ええそうです。知っていて、勇佑も私も黙っていました」
「何故?」
「勇佑に頼まれたからです」
麻理子は驚き、思わずシートから上半身を起こした。和紀はもう笑ってはいなかった。
「貴女が佐藤社長を選ばれたのなら、もう勇佑とは会わない事をお勧めします」
「…………」
とまどっている麻理子に、和紀は付け足した。
「何かを選ぶには、持っているものをどれか捨てる必要がある。どちらも選ぼうとしたら、両方手放すことになりかねない」
「木野さん、貴方」
「貴女が好きなのは本当ですから。その貴女が苦しむのは本意ではありません」
昨日の乱暴を棚に上げ、好きなことを言う男だ。好きになれそうもない。麻理子が首を小さく左右に振ると、亜美が今度は話しかけてきた。
「麻理子さん、あの、社長とお幸せにっ」
「……亜美」
貴明が店から出てきた。
麻理子はほっとするの同時に、昨夜と妙に違和感のある和紀が気になった。何か間違っている気がする。しかし、追いかける気力もないし、二人は乗ってきたと思われるタクシーへ歩いていってしまう。
貴明は二人とすれ違う形になり、すれ違いざまに頭を下げる和紀を睨み、足を止めた。
「昨日とは別人のようだな」
「どうとでも……」
刹那の和紀の目の色を見て、貴明は、昨日のあれは狂言だったのだと一瞬で見破った。同時に旅行中に調べさせていた、木野についてのファイルを脳内でめくった。
和紀の不可解な行動を後押しする事件が、いくつか浮上してくる。
「木野記念病院は……、確か数ヶ月前に、とある政治家の手術に故意に失敗して、死亡させたと聞いた。……脅迫されたか?」
和紀の肩がびくりと震えた。
「どちらにしても私は、貴方が嫌いです。麻理子さんは、私のような普通の男を選ぶべきだったと、今でも思っています。彼女を幸せにしたいのなら、過去をすべて一掃するべきでしょう」
それだけ言って、和紀は亜美と一緒にタクシーへ乗り、走り去った。
麻理子が消えていくタクシーを見ていると、貴明が運転席へ入ってきた。
持ってきた水を麻理子に手渡し、貴明はため息をつきながら長い金髪を縛っている紐を外し、背中へ流した。そしてそのままシートにもたれ目を閉じていたが、やがてぽつりと言った。
「僕は……そんなに危険かな。憎らしい存在かな」
「和紀さんに何か?」
水を飲む気になれずコップ受けに置いて、麻理子は貴明を見た。貴明は、精神的に疲れているようだった。
「和紀にしろ、誰にしろ……、僕は危険な存在なのだろうか」
「会社の多くの人々を、護る為に戦われているんですもの、敵対する人が出てきても仕方ありませんわ
「……危険だろうね。そうだ、僕は、時々ひどい人間になるよ」
力なく貴明は笑った。
ひどく傷ついたように見える貴明の肩に、麻理子がそっと自分の手を置くと、その手に大きな手が重なった。
「僕は麻理子を愛してる。だけど僕がそれを願う気持ちは、君にとっては不幸なのかもしれないね……」
「貴明様……」
麻理子の手を貴明は握り締め、自分の頬に愛おしそうにあて、ゆっくりと目を開いた。
薄茶色の目と黒曜石色の目がぶつかった。
「だけど、僕は麻理子と結婚したい」
飛び上がるほど麻理子はびっくりした。
想いが通じたばかりなのに、いきなりプロポーズとは早すぎやしないだろうか。冗談だろうかと思ったが、貴明は真剣そのものだ。
「貴明様……私」
「僕は、イエスしか聞きたくない」
麻理子の手首に、貴明は唇を寄せ、静かに這わせた。
たちまちその部分は、熱をもって麻理子を苦しめる。自分の熱を麻理子にうつそうとするかのように、貴明は何度も口付け、熱く、強く、切なく、何度も愛を浸透させていく。
車は奥まったところに停めてあり、大樹の影にあって、人目には付かないにしても、大胆な行為だ。
「愛してる。ずっとずっと愛してる……」
やがて貴明はシートから起き上がり、麻理子の唇にそっとキスをして微笑んだ。
「朝が早すぎたから、やっぱり少し眠いね。三十分ほど寝てから次に行こうか?」
「……はい」
麻理子は顔を赤くしながら頷いた。
しばらくすると、貴明は静かに寝息をたて始めた。麻理子は眠るどころではなかった。昨日の告白に、今日のいきなりのプロポーズで眠るどころではない。
両親がいたら相談するのだが、この世にはいないのだから無理だ。今の麻理子には相談する相手がいない。最近の話し相手は自分をライバル視している同僚で、とても話せない。学生時代の友達は、両親が自殺して以来連絡を取っていない。麻理子はひとりぼっちだった。
佐藤貴明と結婚するという事は、否が応でも佐藤ブループの中の争いに、身を投げ入れる事になる。 GPSをいくつも持っていなければならないほど、危険な中へ……。
夜勤の時に貴明は言った。自分の周りはハイエナの様な人間だらけだと。
だが、果たしてそうだろうか?
亜美は違った。また、かつて自分がお嬢様だった頃、周りにいた人々も違った。
自分が身を隠して生活しなければならない境遇に陥った時、皆離れていったが、それを麻理子は憎めなかった。誰だって借金や災いは恐いのだから。
弱みをさらけ出しはじめた貴明に、麻理子はいとおしさと切なさがこみ上げてくる。
不器用で、純粋で、優しい人。
そっと貴明の前髪を、細い指でかきあげてキスをすると、麻理子はシートにもたれて目を閉じた。