天使のキス ~Deux anges~ 第16話

 日高の山中を抜け、緑の牧場が目立つようになった。牛は、白に黒のぶち模様のホルスタイン種の乳牛が多く、中には驚くほど乳房が大きな、スーパーカウという乳牛も居た。馬のほうはさまざまで、いろいろな種類の馬が放牧されていた。

 二人は、新千歳空港から少し離れた場所にあるホテルへ、昼前にチェックインし、着替え、沢山ある牧場のひとつを訪れた。そこは乗馬クラブを運営している一方で、競馬の引退馬、休養馬を世話しており、麻理子は犬や猫ぐらいしか動物と触れた経験がないため、間近で大きな動物を見るのが珍しかった。

「ここは母が出資しているんだ。彼女は馬に思い入れがあるらしくてね。僕はこちらにはあまりこれないから、もっぱらあの人が来ている。と言っても、年に三回ぐらいか」

 緑が豊かに広がる牧場のそこかしこで、馬たちが自由に草を食んだり、歩いたりしている。

 牧場の管理人は初老の男で、挨拶に来ると、ご自由になさってくださいと言い置いて、多忙そうに馬の世話へ戻ってしまった。家族経営で人手が足りず、客人の世話がなかなか難しいらしい。

「今日は乗馬クラブをしていないから、雇い人が来ていないみたいだね」

 貴明は気にした風もなく、麻理子を厩舎へ案内してくれた。ほとんどの馬は牧場に出ていたが、数頭厩舎に残っている。おとなしく優しい目で見てくる馬も居れば、ご機嫌斜めなのかそこいら中をがんがん蹴っている馬も居る。

「引退馬を主に引き取ってるけど、それ以外の馬も居るんだよ」

「それ以外の馬?」

「競馬のサラブレッドみたいなのを軽種馬。農耕用の力専門の重種馬と言うんだ。北海道で有名な道産子もそれ。こいつなんか顔も大きいし、身体全体がたくましい筋肉に覆われてるだろ?」

 人の何倍もある大きな顔を持つ、一頭の馬の前で、貴明が足を止めた。その馬は静かな目で麻理子と貴明を見下ろした。何もかもが大きく、足首も太い。

「昔は機械がなかったから、こういう馬で農業をしたんだ。日本人は習慣がなかったけれど、外国では食用にもなっていたらしいよ」

「私、馬肉は食べたことがありません」

「僕もないかな」

 ふたたび貴明は歩き始めた。奥のほうから、一頭の馬がいななく声がする。あちらかと言い、貴明はまっすぐにその馬の傍へ歩いていく。すらりとして美しい青毛馬が、うれしそうにまたいななき、貴明を歓迎した。

「貴明様がいらしたのを、喜んでいるみたいですね」

「ブルースターライトって言うんだ。暴れ馬で癇癪もちだから、なかなか人に懐かないんだけど、僕には不思議と懐いてくれてね。おやおや、麻理子も好かれているみたいだよ」

「初対面ですのに」

 言いながら麻理子は、貴明と同じように馬の顔や首を撫でてやった。馬を間近に見たのは初めてで、長い睫や温かな体温にドキドキした。貴明が持ってきた人参をブルースターライトに与えると、馬はおいしそうにもぐもぐと食べた。麻理子にも貴明は食べさせてくれ、慎重に麻理子は手のひらを広げながら与えた。ブルースターライトは食べ終えると、麻理子の頬をべろりと舐めた。麻理子はびっくりしてしりもちをつき、いきなり何をするのと文句と言うと、ブルースターライトと貴明が愉快そうに笑った。なんだかそっくりだ。

「いくつなんですか?」

「二十歳。人間で言うと八十歳ぐらいのおじいちゃんだよ。ああ牡馬ね。JRA競走馬だったけど、これといった成績もなく、年を取って引退した。好き勝手にしたいわがままな性格でね」

「年以外は貴明様そっくりですね」

 麻理子がしみじみ言うと、貴明は僕はそこまで我侭じゃないのにと、ぶつぶつ言いながら、ブルースターライトを厩舎から出し、馬具を着けた。

 二人とも、ここへ来る前に今夜宿泊予定のホテルで、乗馬服に着替えていた。麻理子はそんな服は持っていなかったので、貴明がわざわざ買ってくれた。しぶる麻理子に、自分が乗馬服の麻理子が見たいんだと貴明が懇願し、購入したものだ。パンツスタイルは身体の線が綺麗に出るので、麻理子は恥ずかしかった。

 牧場まで出てくると、朝の風はまだ続いており、昼の太陽の下ではそれがとても爽やかだった。周りが緑で、ぐるりと取り囲まれているせいもある。 

 貴明がブルースターライトに優しく話しかけてから、慣れたようにその背にまたがった。

 感覚を取り戻すために、あちこちを並足で走ってみたり、時々はギャロップもさせている。あまり速く走らせないのは、馬に無理をさせないように配慮しているのだろう。

 乗馬服はいたって普通のものだったが、着ている人間が天使のように綺麗な男なので、こんな姿を見たら、同僚がうるさいだろうなと麻理子は思った。非常にさまになっている。

 やがて貴明は、木の杭のところに凭れている、麻理子の前に戻ってきた。

「じゃあ麻理子も乗ろうか」

「私、馬に乗るのは初めてで……」

「僕が居るから大丈夫だよ。ほら、ブルースターライトも早く乗れって、言ってる」

 麻理子は貴明に馬上に引き上げられ、その前にまたがされると、その高さにめまいを覚えた。地面が遥か下だ。麻理子は小柄なほうなので、もともと目線が低い。だからより一層高く思えるのだった。

 貴明がブルースターライトに声を掛けると、馬はゆっくりと歩き始めた。貴明は好きなように歩かせるつもりらしく、手綱はゆるりとしたままだった。

 麻理子が落ちないように、貴明の左腕が腰に回って思い切り密着させており、馬に慣れてくると今度はそちらのほうが気になってきた。

 どうしてこうも、貴明に触れると体温があがる心地がするのだろうか。

 顔が見えないのを、麻理子は幸いに思った。

「この旅行中は、ずっと晴天が続いてうれしいね」

「ええ」

 麻理子は、どきどきしているのを悟れらないように、短く返事をした。

「いろいろあったけど、こうして麻理子に受け入れてもらえて良かった」

「はい……」

 気づけば牧場を出て、林の中をブルースターライトは歩いていた。今日は、貴明と麻理子とブルースターライト以外、誰も居ない。時折、木漏れ日を縫うように、小鳥がさえずりながら飛んでいくくらいだ。

 ひづめの音が、土の道の上で鈍く響く。懐かしい感じのするその音は、とても慕わしい。

 不意に林が終わり、目の前に草原が一気に開けた。ざあと風が草を揺らし、麻理子は目を一瞬閉じた。かぐわしい香りがするのは、開けた草原にラベンダーが揺れているからだった。富良野を麻理子は思い出した。

 ほんの数日前のできごとなのに、やたらと懐かしい。あの時は、貴明とこうなるとは思ってはいなかった……。

 二人は馬を降り、ブルースターライトを近くの木につないだ。ブルースターライトはやれやれといった感じで、その辺の草を食み始めた。

「このあたりは牧場の敷地内だから、誰も来ない。コースでもないから穴場なんだ」

「そうみたいですね」

 麻理子が用意してきたシートを広げ、二人はそこに並んで腰を下ろした。ホテルに用意してもらったソフトドリンクを飲み、サンドイッチやフライドチキン、サラダ等を食べた。自然の中に居るせいか、ひどく美味しい。相変わらず貴明が良く噛まずに食べるので、麻理子が注意し二人で笑った。

「本当に、……和紀さんがいなくなった途端に、不快な出来事がなくなりましたね」

 なんともなしに麻理子は口にしてしまい、なんでこんな楽しい時に思い出すのかと、自分を忌々しく思った。しかし、貴明はそれをとがめず、同意してくれた。

「まったくね。あいつ、車で僕をひき殺すような手配をしてくれたからな」

「え? いつですかそれは」

「麻理子がホテルから飛び出した夜だよ。いきなり車のライトがまぶしく照らすから、何だと思ったら猛スピードで突っ込んできた」

「……よくご無事でしたね」

「そういうのは慣れてる」

 紙コップに残ったドリンクを、貴明は一気に飲み干した。 

「車に飛び乗って乗り越えたら、奴らは勝手にホテルの壁に激突して自滅した。ああいう身の程知らずは、叩きつぶしておかないといけないんだが……」

 貴明の生きている非情な世界に、麻理子の心は暗くなった。この人はそんな世界で、ずっと戦ってきたのだろうか。

「和紀のやつも、もっと殴っとくんだったな」

「暴力は暴力を呼ぶんです。もう貴明様は、十分殴られたはずですよ」

「殴り足りない。麻理子の心にどれだけの傷をつけたか!」

「私の為とおっしゃるのなら、もう止めて下さいね」

「……止めない」

「貴明様!」

 薄茶色の目が、じっと麻理子を見つめていた。

「僕以外が、麻理子を傷つけるのは許せない」

「…………」

 貴明に抱き寄せられた。

 とても温かい。

 貴明の腕の中で、溺れてしまいそうだ……。

「……貴明様は、私を傷つけるおつもりなのですか?」

「傷つけたくはないが、僕を愛しているのなら、そういうこともあるだろう。麻理子は散々僕を傷つけている。だから逆もあり得るさ」

「私、貴明様を傷つけた記憶など、無いのですが……」

 どきどきしながら、広い背中に腕を回して、麻理子は貴明に抱きついた。ついでに貴明の長い黄金の髪を、指に絡ませて少しひっぱると、貴明はくすくす笑う。

「そらそら、そうやって僕を傷つけるんだ。でも同時にとても幸せな気分になれる」

「おかしなことをおっしゃいますね」

「そのうちいやでも分かる様になる。今夜にでもわからせてあげるよ」

 貴明の言葉にドキリとして、麻理子は貴明から離れようとした。でも貴明の腕は、麻理子の背中に巻き付いたままだ。

「僕と一つになったなら、僕がもっとわかるようになる。君が僕を愛しているというのなら、寂しいという気持ちはその時に完全に消えるよ」

 貴明に寂しいと言った事があっただろうか。記憶が曖昧模糊として思い出せない。

「人は皆一人じゃないですか? 誰と居たって……」

「僕は傍にいる。離れていても傍にいる。それに、ご覧よ」

「?」

 貴明の視線の先には、野放図な大自然が広がっている。

 二人は立ち上がって、ラベンダーの海の中を歩いた。富良野と同じで、甘くむせ返る匂いは、二人をその芳香で染め上げんばかりだ。

「……今日は暑いな」

 長い髪を左肩で結びながら、貴明が呟いた。

 麻理子はそんな貴明の隣で風景に見入り、空を見上げた。

 何にも遮られていない青い空は、白い雲が相変わらず流れていた。

「道東の空って、いいだろう?」

 貴明が言い、麻理子はうなずいた。

「この空、麻理子と見たくて道東につれてきたんだ。こんなに澄んで力強くて、綺麗な空は、今の季節はここでしか見れない気がしてね。屋敷の中やビルの中でばっかり仕事していると、こんな空があることを忘れてしまう。この空を思い出すたびに、自分は本当は自由なんだ。思いっきり泣いて笑ってもいいんだって、自分を励ましてる」

 その貴明の言葉は、麻理子の心とぴたりと重なり、一人きりの寂しさから解放させた。

 同じ事を貴明が考えている。その事実が、空虚な孤独に支配されていた、麻理子の心に光を投げかけてくる。

「携帯端末に、トドワラの近くの海の空を、収めてあったんです。摩周湖に落としてしまって、無いのが残念です」

「大丈夫、僕が撮ってたから」 

 貴明が微笑みながら言い、胸ポケットに忍ばせていた携帯端末を操作し、麻理子に見せてくれた。

 本当かどうかはわからないが、たしかに青い空と白い雲の画像が何枚かある。

 とても楽しくて明るい気分になった。 

(私……。今は、一人ぼっちじゃないんだ)

 麻理子の心の中を、温かいものが満たしていく。

 貴明の腕が背後から麻理子を包みこんでくれ、麻理子は幸せな気分にうっとりと目を閉じた。

「……貴明様が、とても好きです」

「それならキスして、車の中でしてくれたみたいに」

「起きていらしたんですか」

 内緒のつもりだったのに、ばれていたのだ。顔に熱が集まった。

 そう言えば、以前、貴明は狸寝入りをして麻理子の膝枕で寝続けていた。

 貴明が身を屈めてきたので、麻理子は恥ずかしかったがそっと唇を重ねた。唇を離すと貴明はうれしそうに、麻理子の頬にキスの雨を降らせた。

 太陽の陽射しは暑かったが、心地よく涼しい風が二人の周りを駆け抜けていった。

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