天使のキス ~Deux anges~ 第18話

 深夜、貴明は一人起き上がり、麻理子を見下ろした。

 深く眠っている麻理子は、これくらいでは目覚めず、静かに眠っている。

 起こさないようにベッドを抜け出し、棚から出したグラスに氷を入れ、ウイスキーを並々と注いだ。火照った額にグラスを当てると、氷の冷たさが程よく冷やしてくれる。しばらくそのまま貴明は目を閉じていたが、麻理子が寝返りを打ったので、隣の部屋へ移動した。

 壁がにぎわしいのは、ブラインドが開け放しになっていて、相変わらず美しい夜景が広がっているからだった。

 ウイスキーを半分ほど飲むと、焼け付くような熱さが内側から男を煽り、貴明は戒めるように首を左右に振り、再びグラスを額に当てた。

 本当は足りない。全然足りない。

 もっと、もっと、麻理子が欲しい。

 自分よりも大きく深く愛して欲しいと願うのは、自分勝手な欲望そのもので、変わっていない欲深さに、貴明は己の業の重さを思い知る。

 少年の域を完全に出ていなかったあの頃と変わったのは、恋愛面でも自分をコントロールできるようになったぐらいだ。だがそれも、何かの拍子に暴走しかねない危険性があり、油断はできない。両想いになれた今から、もっと自制しなければならない。

 大切に愛していきたい。何よりも大切な存在だからこそ。

「は…………」

 切なく呻いて、貴明はソファに沈み込んだ。

 全くお笑いだと思う。今や大企業の社長として、多人数の上に君臨している己が、たった一人の女性に振り回されているなどと知れたら、どんな嘲りやひやかしを受けるかわかったものではない。

 小娘の恵美を溺愛し、同じような境遇だった義父の圭吾は、公では完全に愛人の存在を切り離しており、あれほど愛していた恵美を決して表には出さなかった。死後でさえも、法事などの表の場に恵美が決して来ない事から、普段から二人はそれを了解しあっていたのだろう。

 社長の鏡のような母のナタリーが、さすがにそこまでの徹底は必要ないのではと口出ししたが、圭吾は恵美が表に出る事を絶対に許さなかった。

 ゆがんだ目線でしか物事を見れない人間には、社長の立場を悪くしないため、不倫行為をひた隠しにする為の、防衛行為だと嘲り笑うだろう。

 貴明はいつもそこで、義父に勝てない自分を再認識するのだ。

 どうして愛する者に、そこまでの屈辱的に過酷な我慢を強いるだろうか。

 愛人という弱い立場の、人からそしりを受ける行為をしている恵美を護るには、世間から遮断する事こそが最大の愛情だったのだ。人から後ろ指を指され、ともすると恵美からも恨まれるその行為を徹底したところに、圭吾という男の、恵美という女へ捧げた、揺ぎ無い愛を思い知らされる。

 それにしても、あとほんの数年で、二人は本当の夫婦になれたはずだった。返す返すも貴明はそれを残念に思う。もっともそれを悔やんでいたのは、法の上の圭吾の妻であるナタリーなのが以外だった。彼女は、自分がいなければ……と、一度だけ辛そうに言っていた。

 恵美を護りたいが為、あれから一度も会っていない。元気だろうか。

 やたらと昔を思い出す自分に、貴明は苦笑した。

「なんだって、この幸せな夜に親父を思い出すのかな」

 もうすぐ貴明は、あの時の圭吾の年齢になる。初恋で最愛の恵美を奪われた時の、あの年齢に……。 貴明は、グラスの残りのウイスキーを、全部飲み干した。

 ああ、麻理子を愛してる。

 こんなにも、焦がれて、欲しくて、抱きしめたい。

 電子音が響いた。

 ふと、やった目線の先に、テーブルの上の携帯端末がメール着信して光を点滅させているのが見え、切っておけばよかったなと貴明は思いながら、なんともなしにメールボックスを開いた。

「……なんなんだこれは」

 メールは母の、ナタリーからだった。

『貴明、貴方は人を愛すると一途になりすぎます。貴方は普通に愛しているのかもしれませんが、女にとっては恐れを抱く程なのです。嶋田さんは見かけによらずとても強い女性ですから、貴方と渡り合えるとは思いますが、ほどほどになさい。上手くいく様に祈っています』

 どうしてこんな夜に、母親からこんなメールをもらわないといけないのだと、貴明はげんなりして携帯端末を鞄にしまった。

 麻理子を夜勤に呼びたいと言った時、会長であり、メイド長であり、母であるナタリーは猛反対した。

「他に、いくらでも若い娘がいるでしょう? 嶋田さんは駄目です」

「彼女以外、呼んで欲しくないんです」

「一体何が気に入らないの? 皆若くて美しくて才能もあるし、家柄も申し分ないわ」

「誰も僕を見ていないから嫌です。彼女らが見ているのは表の僕だけです」

「かまわないじゃないですか。若い頃ならいざしらず、今の貴方なら隠せるでしょう? いい加減跡継ぎを作ってくれないと……」

 貴明はため息をついた。相変わらずこの母は、肝心な所で会社重視だ。

「嶋田さんはきっと大丈夫です。彼女は物事の本質を、見抜ける女ですから」

「でも貴方を嫌っているんですよ? だから夜勤は避けさせているのに。きっと無理矢理命じたら辞めてしまうわ。彼女はとても有能で、人間的にも魅力があるし、辞めて欲しくないのよ」

 ようするに、母のとっておきのお気に入りなわけだ。この三年間一度も夜勤に来なかったのを、貴明はようやく納得した。

 なら、なおさら麻理子が欲しい。

「僕は彼女を愛しているんです。明日からの休暇に彼女を連れて行きます。なんとかしてみせますから」

 ナタリーは、不安というより疑いの眼差しを、貴明に向けてきた。

「……まさか無理矢理、事に及ぼうと企んでるんじゃないでしょうね?」

 貴明は苦笑した。自分はもうそんな若造ではない。

「しませんよ。大丈夫です。もし彼女が辞めてしまったら、責任をとりますよ」

「……仕方ないわね」

 変装のための黒縁めがねを取り、ナタリーは目をハンカチで拭った。五十歳のナタリーは年を感じさせない、相変わらず綺麗な女だ。貴明そっくりのその美貌に惹かれる男がうっとうしくて、メイド長などをしているのを貴明は知っている。

「貴方はどうしてこうも、はらはらさせる異性関係を結ぼうとするのかしら。お父様方が天国で、心配そうにご覧になっているのがわかるわ」

「そんなわけないでしょう」

 実父はともかく、佐藤圭吾は絶対に面白がっていると、貴明は断言できる。

「会社は順調だし、なんとか私生活を落ち着かせて欲しいのよ」 

「お言葉ですが、私生活では愛する女と生きていきたいので」

「そういうところは、お父様譲りなのかしら」

「さあ、それはわかりませんが。貴女もそうだったのでしょう?」

 ナタリーは、はっとしたように目を見張り、そして珍しく目を和ませた。滅多に見ない表情だけに、貴明の胸は騒いだ。

 愛というものの恐ろしさを、一瞬で垣間見た気が、貴明はした。

 この旅行は掛けだった。

 麻理子の心が、自分に向くかどうか。

 自信がなくても、やらずにはいられなかった。麻理子への想いは、もうはちきれんばかりで気が狂いそうになっていた。

 恋愛というものに極端に鈍感な麻理子に、自分を意識させるのには苦労した。普通の女ならすぐにわかる好意に、とんと気づいてくれないのだ。

 今夜だって、せっかくムードを作り出しているのに、全く気づいてくれなくて帰るとまで言われ、ここまでなのかと絶望しかけたほどだ。

 だがそこがまたいいのだと、貴明はにんまりする。

 思わぬ妨害が入ったが、なんとか麻理子は貴明に振り向いてくれた。

 受け入れてくれた夜はうれしくてうれしくて、なかなか寝付けなかった。

 結ばれたさっきは、これ以上の幸せがあるだろうかと思った。 

 腕の中の麻理子は、なんて艶やかで美しかった事だろう。

 優しい声でないて、自分を誘ってきた。

 抵抗しながらも、自分を引き寄せてきた。

 自分を愛してくれる女と肌を重ねるのは、何物にも代えがたい至福のひと時だ。

 貴明はグラスを置いてベッドに戻り、麻理子を起こさない様に抱き寄せて、頬にキスした。

 麻理子は眠り続けている。

 愛する女の体温を感じながら、貴明は上掛けを麻理子と共にかぶって、静かに微笑む。

 明日の朝、もっと幸せな時間が待っています様に――。

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