天使のキス ~Deux anges~ 第20話

 成田国際空港へ降り立った麻理子は、貴明の後ろについて混雑する搭乗口を抜けたところで、声をかけられた。

「麻理子、おかえり」

「……お兄様」

 にこにこと笑っている勇佑に、麻理子は複雑な笑みを返した。何故この時刻に帰ってくると、わかっているのだろうという気味悪さが先立ち、また例の忠告が蘇って、どうしたらいいのかわからなくなった。

「僕が知らせたんだ」

 背後から貴明が言い、麻理子の横に立った。勇佑はずっとにこにことしている。

「ちょうどいい機会だから、話をしたほうがいいと思ってね」

「でも社長。お仕事のほうが……」

 他人の前では、麻理子は貴明とは呼ばずに、社長と呼ぶ。貴明もそれは咎めなかった。空港に降り立った今は、プライベートではなくなるの場合のほうが多いのだから。

 三人は空港から佐藤邸の迎えの車に乗り、佐藤邸へ向かった。助手席に座った麻理子は、背後の二人が気にかかって仕方なかった。二人は和気藹々と話す風でもなく、探り合うような、ぎこちない、それでいて赤の他人が見たら、仕事関係の話をしているような、そんな雰囲気を漂わせていた。

 肝心の忠告の件は、佐藤邸で話すのだろう。

 麻理子はなんとなく、左腕を袖の上からそっと触れた。そこには、貴明が今朝強く口付けた赤い跡が残っている。

 昨日は、まるで存在を刻むかのごとく、本当に貴明に何度も抱かれ、夕方には息も絶え絶えの状態になった。指一本動かせなくなるほど貴明の性技に蕩かされて、腰さえもたたなくなったので、何から何まで貴明が世話してくれた。抱かれている間、浮いた話ひとつ聞かなかった貴明の性欲に恐れをなして、何度も許し乞うても許してもらえなかった。

 たった一日で、あの冷たい仮面の裏側の貴明の激しさを、とことん思い知らされた。

 早まったかと思わないでもない。しかし、それを強く求めるもう一人の麻理子も居た。

 ひょっとすると、自分自身が貴明と同じ激しさを持っていて、それをぶつけられる男性を探していたのかもしれなかった。

 佐藤邸に近づいてきた頃、麻理子ははっとした。

 今ここで貴明と一緒に帰るということは、貴明との仲を皆に知られるということだ。

 同僚たちはどう思うだろうか。特に園子は。

 バックミラーに映る貴明を見ると、目が合った。じっと麻理子の様子を伺っていたらしい貴明は、まるで彼女の気持ちを読んだかのように優しく言った。

「大丈夫だ。君は心配することなど何も無い」

 麻理子は頬を染めて、そんな貴明を見つめ返した。

 そうだ。

 大丈夫だ。この人はどんなことがあっても、自分を支えてくれる……。

 そんな麻理子を、勇佑は相変わらずにこにこと見ていた。

 佐藤邸にタクシーが止まると、初老の執事が待っていて、貴明の側の車のドアをさっと開けた。

「おかえりなさいませ」

「用意は整っているのか?」

「はい。第三応接間へどうぞ」

 貴明と勇佑が降りるのを見て、麻理子も助手席のドアを開けようとしたが、僅かの差で貴明が開けてくれた。そして、まるで馬車から降りる姫君の手を取る騎士のように、うやうやしく麻理子の手を取った。

 周囲がざわめくのを麻理子は肌で感じた。それはそうだろう、今まで貴明が若い女性に対してこんな行為をするのを、誰も見ていないのだから。

 麻理子はまだ、貴明からのプロポーズの返事をしていない。

 しかし、貴明は、麻理子との付き合いをこうやって公にして、確実に間合いを詰めてきている。本気なのだ。

 すらりと抜かれた真剣の鋭さを、改めて麻理子は思い知った。そこにはなんの企みも、後ろめたさも存在しない。純粋に愛を求める真摯な男の姿がある。

 プロポーズの返事をしないでいるのは、あまりに早いと思うからで、じらしているのでも困っているのでもない。

 皆が自分たちに注目している。

 中でもメイドたちの、嫉妬混じりの好奇の視線が強い。

 ようするに、麻理子は世間体が気になって、躊躇っているのだった。

 応接間には、メイド長であり貴明の母であるナタリーが、変装をせずに待っていた。相変わらず厳しい顔をしているようでいて、目元には好意的なものがあって、麻理子は安心した。ナタリーは麻理子と貴明が相思相愛になって、心から喜んでいる。

 麻理子は貴明の隣に座らされ、向かい側に勇佑が座った。ナタリーはその間の席に着く。もう一人分の椅子が用意してあるのに、ナタリーの向かい側は空いたままだった。

 貴明が言った。

「さて、嶋田勇佑さん。改めて挨拶をさせていただきます。私は佐藤貴明と言います。そして母の佐藤ナタリー」

 勇佑は、二人に頭を下げた。

「こちらこそ。私は嶋田勇佑と言います。この嶋田麻理子さんの従兄になります。本来なら父が来たほうがと思いましたが、婚約式でもないので止めようということになりまして……」

 貴明はうなずいた。

「ええそうですね。でも、今日こちらにおいでいただいたのは、この麻理子さんと私が、結婚を前提にしたお付き合いをさせていただくことになったからです。」

「結婚を?」

 勇佑は微笑みながらも、何かを表面下で考えているかのようだった。貴明は続けた。

「ええ。プロポーズの返事はいただいておりませんが、いずれとは思っています」

「本当なのか麻理子?」

 勇佑が聞き、麻理子は黙ってうなずいた。

「それは喜ばしいことですが……。あまりに突然すぎて驚いております。しかし、麻理子は……」

「ええ、家族がおいででないのと、その亡くなり方が闇めいていて、物議を醸し出すのはわかっています。ですが私には些細な事で、まったく問題にならないとお知らせしたかったのです。勇佑さんはとても麻理子を大事にしてくださっているそうですから」

 笑みが消えた勇佑が、麻理子に向き直った。

「麻理子、お前はそれでいいのか? 彼は……その、借金の……」

 言いたいことはわかる。麻理子は言った。

「借金に関しては、これまでどおり返済していきたいと思っています。もちろんどなたにもご迷惑はおかけしません」

「そうじゃない。お前はあれほど佐藤の家に対して……」

「それでも私は……、貴明様のお傍に居たいんです」

 麻理子は祈るような気持ちで、勇佑に訴えた。

 反対しないで欲しい。勇佑にはずっと頼れる従兄でいてほしいのだ。そんな思いを麻理子は込めた。

 勇佑はそんな麻理子を見て悲しそうに俯いたが、やがて顔をあげた。

「わかりました。麻理子がそういうのなら私は何も言いません。どうぞよろしくお願いします」

「承諾いただけてうれしいです」

 貴明が手を差し出し、勇佑と握手した。    

 部屋をノックする音が響き、メイドの一人がお茶を運んできた。

「どうぞ、ゆっくりしていってください」

「ご好意はありがたいのですが、長居はあまりよくないでしょう。近いうちに、我が家へご招待させていただきます」

 自分にお茶が置かれる前に勇佑は立ち上がり、麻理子におめでとうと笑顔を浮かべ、見送りは結構と言って部屋を出て行った。メイドは別のグループの人間だったが、全身でこの風景を叩き込もうとしているのがありありとわかった。しかしナタリーが居るので、さっさとお茶をそれぞれの前へ置いて、退室した。

 三人だけになると、貴明が耐え切れぬとばかりに含み笑いをした。

「下品ですよ貴明」

 ナタリーが見咎める。

「失礼。彼の内心を思いますと……ね。見送りを断るほど動揺しておいでだ」

「執事が代わりと勤めています。それに、麻理子さんのお気持ちを考えてあげなさい」

「はいはい」

 麻理子はきょとんとして、二人を交互に見た。貴明が本当にわかってないんだと肩をすくめ、片目を瞑り、にっこりと笑った。

「彼、勇佑はね、麻理子が好きなんだよ」

「……え? まさか」

「やっぱり、気づいてなかったの? それはお気の毒に」

「だって、お兄様はそんなそぶりは全然……」

「何度も示していたと思うけど? 麻理子はそういうのとても鈍いから、ことごとく気づかないまま踏み潰してきたんだろうね」

 麻理子は、勇佑が自分をそういう目で見ていたとは、とても考えられなかった。いつだって頼れる優しい兄だったと思う。従兄だからあまり甘えられず敬遠してきたが、変わらず勇佑は手を差し伸べてくれていた。   

「だからあんな忠告をしてまで、僕と君とを引き離したかったんだ。悪気は多分にあっただろう。実際僕は、胸を張れるほど綺麗な人間じゃないしね。従兄としてはそういう不安もあったはずだ」

「……そうですか。だからお兄様は」

「ま、しばらくは会わないほうが賢明かもしれないね。とち狂って迫られたら麻理子が困るだろう? お兄さんでいてほしいのだから」

「……はい」

 貴明には、何もかもお見通しらしい。

 麻理子は心が軽くなった。そうか、そういうことで勇佑はあんな嘘をついたのだ。たちは悪いがそういうことなら許せそうだった。

 ひと段落ついたところで、ナタリーが言った。

「本当にうれしいわ。貴明をよろしくお願いしますね」

「こちらこそ、至らぬ身ですけれどよろしくお願いします」

 ほとんどフィアンセのような会話だ。早く返事をしたほうがいいなと、麻理子は思った。心はとうに決まっているし、変わるなんてありえない。

「ところで何故貴方は、ずっとそんなところに突っ立って、挨拶をしないの? 嶋田様がお気づきで無いからよかったものの、失礼ですよ」

 ナタリーが部屋の隅に向って言った。

 その時初めて、麻理子は目の先のカーテンの陰に、ひっそりと立っている若い男に気が付いた。

「誰も声をかけてくださらないからですよ」

 男の声は貴明にとてもよく似ていた。声どころではない、髪が銀色であるほかは、貴明と酷似した面差しをしていた。靴音を立てずに歩いてくると、男はナタリーの横に立った。麻理子の横に立っていた貴明が、言った。

「麻理子、この男は石川雅明。僕の双子の兄になる」

「……双子?」

 雅明は貴明そっくりの動作で、麻理子に手を差し出した。

「初めまして麻理子さん。石川雅明です」

 同じ顔で同じ動作であるのに、何もかもが正反対の印象を、麻理子は受けた。 

 身長は同じだが、体躯は貴明より細い。貴明よりも繊細な微笑を浮かべている雅明は、捉えどころの無い妖しい美貌の持ち主だった。

 貴明に兄弟が居たとは初耳で、麻理子はかなり面食らっていた。

「事情があってずっと一緒に暮らしていなかった。七歳の時からナタリーの実家のある、ドイツのシュレーゲルにいたんだ。職業は画家。あちらでは有名だけど、日本では知らない人のほうが多い」

「そうなんですか……」

 何かが起こりそうな予感が、麻理子の胸を騒がせた。

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