天使のキス ~Deux anges~ 第24話
開け放たれた障子から涼しい風が入ってくる。東京とは違って山間のこの地域は、湿度がかなり低いらしく爽やかな気候のようだ。微かに匂ってくるのは庭の花山椒のものだった。
風にたゆっているような、ゆらゆらとした目覚めだった。最初に目に入ったのは古い木目の天井と、自分を覗き込んでいる幼い子供二人だった。一人は貴明の隠し子で、一人は社長室にかけてある肖像画の、先代に似た美少女だ。
「目が覚めた?」
美少女が言った。
「…………」
「お姉さん倒れちゃって、二時間くらい経ってる。社長の人呼びに行こうか?」
麻理子が布団に寝かされているのは、家の中の一室らしい。麻理子は美少女の問いに起き上がって、静かに首を横に振った。しばらく貴明の顔を見たくない。また激昂して叫びだしそうな気がする。
ふすまを隔てた向こう側で、貴明たちが話している声が聞こえるが、参加したいとは思わない。
先ほどの激情は、まだ胸の中に埋み火のように燃えているものの、冷静に客観視できる位に心は穏やかさを取り戻していた。
(みっともないほど取り乱してしまったわ……恥ずかしい)
初対面の人間を前に、あれはなかったと後悔が麻理子の胸を満たした。貴明に関しても、婚約の断り方があるというものだ。いくらなんでも子どもっぽすぎた。人の付き合いというものに、重きを置いていた父母が見たら、嘆くほどの醜態だった。
応接間の戸がすっと開いた。
入ってきたのは貴明ではなく、恵美だった。
「お目覚めになったって聞いて……。お茶を召し上がる?」
「いえ……」
静かに枕元にすわった恵美に、麻理子は居心地が悪い思いをした。恵美に何かを言われて、子供二人は出て行った。
隣から、貴明が怒鳴る声が聞こえた。珍しいこともあるものだ。恵美がくすくす笑った。
「貴明ってば、さっきから麻理子さんとは絶対に結婚するって、そればかり繰り返してるの。あ、呼び捨てにしてるけど、これは高校時代からのつきあいだから、大目に見てください」
「はあ……。でも」
そうしたら、あの隠し子はどうなるのだろう。
麻理子の心中を覗き見ているのか、恵美がずばりと言った。
「ねえ麻理子さん。私、貴明とよりを戻す気はまったくないの。貴明との仲は始まる前に終わっていたから」
意味がわからず、麻理子は首を傾げた。
「私は貴明を友人としては愛してたけれど、男としては愛してなかったの」
恵美のさばさばとした性格に、麻理子は好感を抱いた。
「子供ができるような真似をしたのは、本当に愚かだったと思うけれど、あれは、お互いの気持ちがお互いの愛する人だけのものだと、確認するものだったの。私は佐藤圭吾で、貴明は麻理子さん……貴女を。私はすぐに幼馴染と結婚したんだけど、最初からそれは家族愛にしかならないとわかってたの。残酷だけれど、私はどうしたって圭吾のもので、圭吾しか愛せない」
「ではお子さんはどうなるんですか?」
「どうもならないわ。あの子は小山内穂高として生きるの。父親は小山内正人よ。生まれたときはそりゃびっくりしたけれど……、正人は認めてくれた。血のつながらない子供たちを愛してくれたの。だから正人の思いに報いるためにも、私は生涯圭吾と居るの。あと、貴明と別れるなんて駄目よ。貴明は、十年間も執念深く貴女を愛してたんだから、まず諦めないわ。拒絶したらますます燃え上がるし、悪魔に豹変した貴明は、怖いし危険だし暴走したら誰にも止められないの。麻理子さんに、ちゃんと操縦してもらわないと駄目な男なのよ」
恵美が一瞬、慈悲深い聖母のように麻理子の目に映った。
「幸せになって欲しいの、貴明と麻理子さんには何があっても」
麻理子は頬を染めて俯いた。
そこまで愛されてうれしいと思う自分は、どうかしている。
しかし、操縦なんてできるとは思えない。振り回されているのはこちらだ。
黙って何も言えないでいると、ふすまが開いて、貴明が入ってきた。向こう側から聞き耳を立てていたらしい。麻理子の機嫌を伺っているようで、麻理子の隣に座らず足元に座った。続いて入ってきた雅明が言った。
「今回はすべて私が企んで実行した。貴明の名誉のために言っておくと、貴明は今まで子供の存在を知らなかったんだ。佐藤邸とのつきあいを切ることによって、恵美さんを自由にするのが貴明の望みだったから、敢えて様子を伺うことをしてなかったんだよ。」
どれだけ恵美を束縛していたのか、この一言でわかろうというものだ。先代と二人、相当強く恵美を雁字搦めにして愛していたようだ。
本人を前にすると、二人の気持ちもわかる気がする。初対面なのに何もかも打ち明けてしまいたくなるほど、母のような温かな雰囲気に恵美は満ち満ちている。
同性の麻理子でも、護ってやりたくなるこのか弱さはどうだろう。その反面、自力で頑張っていこうという意思があり、しかもそれを実行して頑張っているのだ。
貴明でなくても、つい手を貸したくなる。
麻理子は、取り乱した自分を詫び、左手の薬指の指輪を貴明にかざした。
「私、婚約破棄と言いながら、指輪をはずしていませんでしたわ……」
貴明が見る見るうれしそうな顔をして、うなずいた。麻理子に抱きつきたくなるのを我慢しているのが誰の目にも明らかで、雅明がお預けされた犬のようだと言い、貴明に殴られた。
雅明と貴明の距離が、ぐっと近くなっている。寝ている二時間の間に、なんらかの和解があったようだった。
そこへみどりが帰ってきた。買出しに行っていたようで、両手にスーパーの袋を重そうに持っていた。恵美が慌ててそれを受け取り、二人は台所と思われる部屋へ入っていった。雅明が気を利かして手伝うよと言いながら後をついていく。
貴明と二人きりになった。
「……麻理子」
「はい」
麻理子の隣に貴明は移動して正座した。そして、手を突いて頭を下げた。
「……貴明様?」
「すまない。君にはとても酷な事実だったと思う。僕の不注意だ。完全に」
「そうですね……」
顔をあげた貴明に、麻理子は真剣な目で覗き込まれた。
「恵美は、断じて佐藤の姓は名乗らせないと言っている。僕もその方がいいとは思うが、シュレーゲルのほうは当分揉めるから、護ってやらなければならない」
シュレーゲルとは、貴明の母のナタリーの側の一族で、貴族の血を引き、今もドイツで大手の企業を経営し、市の名前にもなっている誇り高い一族だ。結束は固く、血が遠くなっても一族からは離れられないらしい。
「……当然のことだと思います」
「だが……」
貴明は言いたくなさそうな口ぶりだったが、言わねばならないと首を横に振って、麻理子の両手を握り締めた。
「将来、もしも穂高が僕の子供になりたいと言ってきたら、僕はそれを受け入れるつもりだ。君と僕の子供と兄になる。もしもそれが嫌だというのなら、ここでその指輪を外してくれ」
胸を、鋭い刃で切り裂かれたような気が、麻理子はした。
醜い嫉妬がわいてくる。そんな事を認めるほど、貴明は恵美を愛していたのだ。恵美という人間をよく知っていないと、絶対に口にできない言葉だ。
同時に誇らしいとも思った。自覚がないままいきなり父親になったのにもかかわらず、即座に親になる覚悟を決め、人から非難を浴びようとも前を進もうとする貴明は、麻理子の自己愛を強く刺激した。
自分の愛した男は、本当にすばらしい男だ。
傍目には昔の恋人を取る最低な男に見えるだろうが、そうではない。家庭を壊す要素が麻理子を不幸にする前に、普通の幸せを取る選択肢をくれたのだ。
ここまで誠意を見せられたら、麻理子も覚悟が決められる。
誰が手放してやるものかと、負けん気がむくむくと起き上がってきた。先ほどまでの心の動揺は、今のこの貴明の決意を前に、スッキリ綺麗に流れ去っていった。
ずっとついていくと心に決め、了承の意味を込めて麻理子は貴明の唇にキスをした。婚約指輪が嵌められた左手に、貴明の大きな右手が絡められた……。
麻理子が台所に入ると、雅明が何かいやらしいことをしようとしたのか、恵美に拳骨をくらっているところだった。
みどりがげらげら笑い、麻理子に言った。
「年貢の納め時なんでしょうね、雅明さんも」
「そうね。これにこりて誰かれ構わず寝るのはやめないと……」
食事の準備をしている二人を手伝おうとして、麻理子はスーツの上着を脱ぎ、ブラウスの袖を捲くった。恵美にどやしつけられて雅明はすごすごと退散していく。
「あのスケベ! 油断も隙もないわ」
恵美が怒って、腰に両こぶしをぐりぐりしながら、ふんと息をついた。
なだらかな曲線を描く肩にふくよかな胸、悩ましくくびれた腰つきに、しまっているであろう臀部を思うと、言い寄りたくなるのもなんとなくわかる気がする。麻理子はすべてにおいて負けているので、貴明はひょっとして物足りないと思っているかもしれないと、ため息が出そうになった。しかし、そんな事は考えても仕方ない、
それよりも、恵美の顔色が悪いのが気にかかった。
化粧で誤魔化されているようだが、人に囲まれて暮らしていた麻理子は人の体調に人一倍敏感だった。ひょっとすると雅明もわかっていて、ちょっかいを出しているのかもしれない。指先の色も良くなかった。
恵美は気づかれたくなくて、元気に振舞っている。どうしたものかと麻理子は悩んだ。台所の出口に貴明が姿を現し、麻理子が見るとうなずいた。貴明も気づいているのだ。
麻理子がうなずき返すと、貴明は応接間に戻っていった。
なるべく無理させないように、麻理子とみどりは恵美を座らせて、二人でご飯を作った。押しかけてきて、こんなふうにするのはどうかと思われたが、この際は無視だ。
「ところで恵美さん。貴明様は若い頃はどんな方でしたか?」
なるべく気負わせないように、それでも聞きたいことを麻理子は口にした。
恵美は少し考えてから、
「若い頃……か。強引で我侭で自己中で、冷たくて冷たくて、でもある日突然瞬間沸騰して突っ走る、困った男だったかな……」
と言った。いいところが見事に無い。
「…………」
辛らつかつ、的確な表現にみどりがふきだした。
「とにかく女の子に異様にもててた。バレンタインなんか、段ボール箱に入れて持って帰ってたくらい。でもそのチョコレートをおすそ分けしてくれたりする、優しいところもあったわ。でもあいつったらその夜……」
言いかけて恵美は口をつぐんだ。
「その夜なんですか?」
麻理子が気になって聞くと、恵美はなんでもないと言い、誤魔化した。なんらかのちょっかいを、恵美は貴明から受けたようだった。恵美は嘘がつけない性質らしく、皆顔に出てしまっている。麻理子に申し訳なさそうにするので、反対に麻理子のほうが申し訳なかった。貴明は、恵美に迷惑をかけまくったらしい。
「でも良かった。貴明は麻理子さんに恋して、一生懸命探していたから」
「……ご存知なんですか?」
「ぼやいてたから。でもとっくに本当はわかってたの。圭吾が麻理子さんのお父さんと仲が良くてね、でもお父さんが、麻理子さんはまだ若いからそれ相応の年齢になってからと言って、お断りしてたみたい」
「お父様がそんな事を」
「いいお父さんだなあと思った。圭吾も納得してたし、いい方とお付き合いしてるんだなって。そんな人のお子様ならいい人に違いないと安心した」
麻理子の中で何かが引っかかった。
借金の件が、怪しい色彩を帯びて、胸に浮かび上がる。
そんないい付き合いをしている相手に、あのような借金をさせるものだろうか。担保もなしで、そのほかになんの取り決めも無い……。現金しか受け付けないという内容で、勇佑が全額返済予定日に支払うなど無理だということで、いろいろ取り計らってくれたと聞く。
麻理子は相当酷い性質の男なのだと、佐藤圭吾をそういう眼で見ていたが、どうも違うようだ。
「麻理子、ご飯まだ?」
貴明の声が麻理子を現実に戻した。ぼうっとしている間に、みどりがすべてやってしまっていた。
「僕の悪口もいいけど、恵美もちょっとは遠慮して欲しいな」
どっかとテーブルについて貴明が恵美に文句を言うと、恵美は悪口じゃなくて事実でしょと返した。やがて子供たちも呼ばれ、食事となったのだが、麻理子の心中は全く晴れなかった。
勇佑への疑惑がどんどん膨らんでいく……。