天使のキス ~Deux anges~ 第28話
中庭で自分の部屋に飾る薔薇を切っていた麻理子は、呼びに来たみどりの声に振り返った。
会う約束をしていた亜美が来たのだ。
「そう。私の部屋に通してくれた?」
「はい」
みどりはいつものようにうなずいたが、右手の茂みに目を走らせ、急に麻理子を急かした。部屋はすぐそこだし、何故急かすのかわからない麻理子は、そこにアオダイショウという蛇がちろちろと舌を出しているのを見つけた。
「あら、めずらしいわねこんなところに……。この蛇好きなんだけど」
「いけませんわ。噛まれたらどうされるんです」
「アオダイショウに毒はないわよ?」
「それでも腫れますよ!」
みどりは触りたそうにする麻理子を蛇から引き離し、早く早くと部屋へ促した。麻理子はもったいないと思ったが、亜美が来ていることもありしぶしぶみどりに従った。
部屋へ戻ると、亜美が椅子から立ち上がって迎えてくれた。
「麻理子さんお久しぶりです」
招かれた亜美はうれしそうに顔を輝かせていて、麻理子は心が晴れ晴れした。
麻理子はお菓子を並べたテーブルを挟んで、亜美の為に紅茶を入れた。みどりは部屋を出て行った。
亜美は婚約の祝いを述べると、
「こうなると思ってました。麻理子さんは絶対社長と結婚されるって」
と、言った。
「そういえば、亜美は社長は私が好きだとか言ってたわね」
北海道旅行を思い出し、麻理子は微笑した。
「思えば私にとって、このお邸勤めは自分を知るいい体験でした。自分にふさわしい場所を知るのは大事ですね」
「今は看護師をしているのだったかしら?」
「ええ。まだまだですけれど。自分の家族の病院だから余計に大変なのに、その大変なのが楽しいです」
「本物ね。亜美はいい看護師なのでしょうね」
「なりたいと思ってます」
亜美は恥ずかしそうに言い、紅茶を一口飲んだ。
夜勤明けの休みだという亜美は、それほど疲れを見せていなかった。昼夜逆転勤務は大変だと思われるのに、これが若さというものかと麻理子は考え、急に自分が年をとったような気がした。麻理子自身まだ二十代なのに、五歳違うだけで体力に差がある気がする。
「私、麻理子さんみたいになりたいって、ずっと思ってたんです。でもどうしたってなれなくて、悩んでました」
麻理子は驚いた。
「私って……、何も取り得はないけれど」
「麻理子さんのその気高いオーラがうらやましかったんです。でもきっと、それは天性のもので私にはないんです」
「オーラって……、一体どうしちゃったのよ亜美」
「沢山ご苦労をされているのに、上品だし卑屈になられないし、しっかりされていて……。今なんて、社長の元彼女さんのお世話までなさってるんでしょう? 私なら絶対嫌ですよそんなの。しかもその方、メイドの皆を取り込んでいらっしゃるみたいですし」
「恵美さんはそんな嫌な人じゃないわ」
とんでもない誤解を招いている気がして、麻理子は慌てた。亜美はそうでしょうかと首を傾げる。
「社長もどうかしてます。どうしてフィアンセである麻理子さんに、そんな事させるんでしょう。酷い話です」
亜美は素直でニュートラルな性格の持ち主なので、おそらくはこれが世間一般の目線なのだろう。そう見られていたら、成る程、恵美もたまらなくなって家へ帰りたいと何度も言うわけだ。
麻理子はお姫様育ちで、世間一般の感覚とはやっぱりずれているらしい。世間に放り出されたのはほんの数年間で、どん底を味わったと思ってはいたが、それでも考え方などは変わらなかったようだ。
「詳しい事情は話せないけれど、今の恵美さんはとてもおうちへお返しできる状態じゃないの。本当にとてもいい人なの、だから皆慕うの。社長からは謝罪されたし、私はお世話を嫌だなんて思ってない。むしろずっといらしてほしい位。でもそれも私たちの我侭なのよね」
「麻理子さんは、一度もわがままをおっしゃってないんじゃありませんか?」
亜美の口調は厳しく、麻理子は思わずたじろいだ。
「麻理子さんはお優しいし仕事に忠実ですから、きっと上司命令のような感じでお世話なさってるんでしょうけど、どう考えても社長がおかしいです。第一、熱愛なさった方ですよね? しかも今その方一人身なんですよね。麻理子さんの目の届かないところで何か……」
「それはありえないわ。恵美さんは社長を愛してないんだもの」
「でも社長はどうでしょう?」
亜美がしつこく食い下がってくるので、麻理子は面倒くさいことになったと思った。亜美は従順な人間だが、疑問に思ったら解消するまで追及してくるのだ。
「社長も同じよ。そうおっしゃっていたわ」
「口からでは何だって言えます」
麻理子はだんだん腹が立ってきた。こんなふうに言い合うために彼女を呼んだのではない。
「亜美、貴方は私たちの婚約を祝ってくれないの?」
「祝いに来ました。でも、ご自分をごまかして、社長のために我慢してるように見えるんです。麻理子さんらしくない思って……。麻理子さんは社長に対していつも毅然としていらしたでしょう?」
亜美は麻理子を怒らせてしまい、おろおろとしていたが、納得がいかないという態度は変わっていない。
「亜美、貴女、恋人はいるかしら?」
「いません。誰とも付き合った経験はありません」
「……社長が初恋とか言ってたわよね?」
「はい」
これだと麻理子は思った。亜美は貴明と付き合う前の麻理子だ。ただ、麻理子は恋というものを全く知らなかったし、興味もなかったが……。
「私も社長が初恋になるのかしら。だからこそ……目に見えていないのかもしれないわ。ねえ? 一人で居た時と比べて、私が私らしくなくなったと言ったけど、今の方が本当の私かもしれないとは思わない?」
言葉を失った亜美に、麻理子は苦笑に近い笑みを浮かべて消した。
「私は強いつもりでいたし、これからもそうでありたいと思ってるわ。そして強くあるべきはどの部分だと思う? 自分の想いに対して? それとも自分のプライドを保つことに対して?」
「それは」
「今までの私なら自分のプライドに対して、それを攻撃してくる人たちに毅然としていたと思う。でも今は違うの。私は自分の想いを大事にしたいの」
「想いを……」
麻理子はうなずいた。
「もちろん恵美さんを引き取ることに、すっきりしない自分も居たわ。でもあの方はこうなるのを極端に恐れて、ずっと隠れてお暮らしだったの。今も私と社長の仲がずっといいものであるようにと、ずっと願っておいでなのよ。そんな人が社長の恋人に戻られるわけがないし、また、社長が恋人のように愛されるわけがないわ。社長にとって恵美さんは過去の恋人で、抱かれる愛情は家族や友人と同じなの。その大切な方をお願いしてくださった、社長のお気持ちを私は誇りに思うの」
「ですが、……ですが、麻理子さんは我慢してるようにしか見えません」
「そりゃ社長が我慢しておいでだもの。私だって我慢するわ。あの人の受けた試練を、私も受けるのだから当然よ」
「……麻理子さん」
亜美は、まだ自分が子供だと言われているような気がして、恥ずかしかった。よく考えたら二人の間に、土足で踏み込んだようなものだ。怒らないところが麻理子らしかったが、この場合は罵倒されたほうがましだった。そんな亜美の心情を悟って、麻理子はやさしく言った。
「亜美が私たちのことをそこまで思ってくれて、うれしいわ。私には友人が居ないから」
「え? 麻理子さんいつだって、沢山の人といらっしゃるじゃないですか」
「仕事仲間という知り合いはね。でも、親友といえる人はいないわ」
家の没落と共に友人たちは消えた。
そこで初めて、麻理子は今まで築き上げてきた人間関係は、自分が作ったものではなく、家が作った幻想だと思い知ったのだった。
己には何もない。家がなければ何も持たない人間なのだと。
自分を信じられない麻理子に、男を愛せるはずもなかった。
それなのに貴明はずっと麻理子を探してくれていたのだった。そんな彼の苦難なら、いくらでも受けても構わない。麻理子は本気でそう思っていた。
「……良かったです。やっぱり麻理子さんだ」
「え?」
やけに亜美はにこにこと笑った。その笑顔からカマをかけられたのだと知り、麻理子は後輩の頭を軽く小突いた。
「よくないわね。年長のおばさんを試すなんて」
「どこがおばさんですか。お姉さんです!」
「ともかくよくないわね」
「すみません。だって心配だったんですもの。麻理子さんは強いですけど、だからって傷つかないわけないじゃないですか。社長ってワンマンタイプだし」
「辛らつね」
「思いやりはある方だと思いますけれど、基本不器用だと思います、麻理子さんも社長も」
「それはそうかもね」
麻理子は何気なく、左手薬指の婚約指輪を撫でた。
でも、そんな不器用なところが麻理子は気に入っている。だからこそ信じられるのだと。
「亜美はどうなの? 新しく好きな人はできた?」
「いませんよ。社長にまさる美形はいませんから」
亜美は顔がよくないと嫌なのだと言い、だから子供なのかもしれないとうなだれた。
それでは、一生結婚できないのではないかと、麻理子は心配になった。貴明より美形な男など、そうそういるものではない。思い当たるのは先代の社長や兄の雅明だが、先代は亡くなっているし、雅明はとても亜美にはつりあわない。あんな軽薄男には亜美はやれない。
「私は社長が美形だから、好きになったんじゃないんだけどな」
「そんなのわかってますよ。麻理子さん面食いじゃありませんものね。あのお兄様……と!」
亜美は慌てて口をつぐんだ。麻理子をレイプしようとした男は、兄でも許されるべきではなく、亜美はその一点に関しては麻理子に強い負い目を感じているのだった。
麻理子は努めて冷静を装った。
「……お元気なの?」
「ええ、まあ。あれ以来女性関係を清算して、身綺麗になってます」
「それは良かったわね」
「でもこんどは誰にも振り向かなくなって、冷たくなってしまって……。なんだか最近は難しい顔をしている事が増えました」
「そうなの?」
亜美はうなずき、かじろうとしていたクッキーを戻した。
「私、どうしても信じられないんです。兄は確かにプレイボーイでしたけど、女性に無理強いするタイプじゃないんです。母が病弱だったのもあって、かなりのフェミニストですから」
「…………」
「ましてや好きな女性に……」
そこまで言って、亜美は麻理子の顔を見て口を噤み、どちらにしても麻理子さんには最低の男ですからと辛そうに付け足した。
「お兄さんが好きなの?」
「自慢の兄でしたから。社長に出会うまでは兄と結婚すると言い張って、困らせていたぐらい。だからこちらを紹介されたんですよ。結局もとの木阿弥ですけどね」
ふと勇佑を思い出し、それでも勇佑と結婚したいとは思っていなかったなと、麻理子は考え、どこまで貴明にべた惚れなんだとおかしくなった。
「今日も……お兄さんはお仕事なの?」
「ええ、オペが一つ入ってて。そうそ、その方麻理子さんになんか似てるなって思ってたら、苗字まで同じだったんで……あ、と!」
患者の個人情報を漏らしかけて、亜美は先ほどの和紀の時よりも慌てたように口を噤んだ。
しかし、麻理子は聞いてしまったからには、聞かずにはいられなかった。
「その人、若い人? お年寄り?」
「すみません、勘弁してください。言えません」
「若い人ならどうしてもお話したい事があるの。ずっと電話が繋がらないし、繋がったと思ったら切れるし……病院だったら辻褄が合うわ。ねえ? 何の病気なの?」
鬼気迫る麻理子の迫力に、亜美は思い当たる何かがあったのか、重い口を開いた。
「……若い人でした」
「名前は嶋田勇佑ね?」
「はい。でも絶対内緒にしておいてください。お願いします」
「誰にも話さないわよ。面会謝絶なの? 私は彼の従妹なんだけど」
「従妹でも入れないと思います。秘書の方とお父さん以外には、お会いになりませんから」
「…………」
麻理子は放心した。
そんな大変な事になっていたとは思わなかった。勇佑は麻理子に心配をかけまいとして、ずっと音信普通になっていたのだ。
では、自分を殺そうとしたのは一体誰なのだろう。考えて、麻理子は思いつくわけがないとため息をついた。SHIMADAについて麻理子は何も知らないのだ。何らかの陰謀が張り巡らされているのは事実だろうが、勇佑はそれを知っていいるのだろうか。
「何とか会えないかしら? 私、どうしてもお兄様に会いたい」
「麻理子さんでもこればかりは。父と兄が直々に診ていらっしゃる方ですし、ご本人の容態もあります」
「いつ退院なの?」
「それも知りません」
「こっそり会いたいのよ、誰にも知られずに」
「無理ですってば」
そこに居るのがわかっているのに、会えないのはもどかしい。麻理子は地団駄踏みたい気分だった。
「叔父様とお兄様に、式に出て欲しかったのにな。貴明様はご存知でいらしたから黙ってたのね」
「え? 親族の方を呼ばれてないんですか? 勇佑さんはわかりますけど……」
亜美は驚いたようだった。そりゃそうだろう、仲が悪いわけでもないのに式に呼ばないのは、どう考えてもおかしい。しかし、あの刺客達の言葉が本当なら呼ぶわけにはいかない。それを亜美に言うわけにもいかず、麻理子は黙り込んだ。
彼らの潔白さえわかれば、式に呼べるのだ。
それなのに外出を貴明に禁止されて、確かめられない。
辛そうな麻理子を見て、亜美が決意を滲ませながらうなずいた。
「わかりました。兄になんとかできないか聞いてみます。一度しかない結婚式ですものね、後悔がないようにしたいのはわかりますから」
「いいの?」
「兄の弱みはいくつか握ってますから。麻理子さんにしでかした悪事で脅したら、なんとかできますよきっと」
「本当!」
麻理子はうれしくなって、亜美の両手を握った。
「麻理子さんにはお世話になってますもの。絶対になんとかしてみせます」
「頼んだわ。誰にも知られないように会いたいの」
あとはどうやって、貴明やみどりの目をすり抜けるかだと麻理子は思い、考えを巡らせた。
麻理子は、勇佑が犯人ではないと強く信じるあまり、冷静さを完全に欠いていた。そして、己の行動がもたらす周囲への波紋を、全く考えていなかった。貴明の警告を忘れ、麻理子の心は入院している勇佑へと飛んでしまっていたのだった。