天使のキス ~Deux anges~ 第29話

「今日は、恵美の世話はいいから」

 数日経ったある朝、食事の時間にそう言われ、麻理子は、貴明が何故そんなことを言うのかわからず首を傾げたが、貴明が気まずそうに麻理子の視線を避けようとするので、ぴんと来た。

「……雅明さんですか?」

「なんでわかるの」

「容態が悪くなったとか、そんな内容でしたらきちんと話してくださるはずですから」

 いつもより時間をかけて朝食を終えた貴明は、箸を置き、湯飲みに手を伸ばした。

「昨夜。だ」

「恵美さんに無体な真似をされてないでしょうね?」

「……していると、思う」

 麻理子はかっとし、培ってきたマナーを台無しにする勢いで、乱暴に椅子を後ろに引いて立ち上がった。そのまま部屋に飛び出そうとしたところを貴明に止められた。

「行くな」

「冗談じゃありませんわっ。一体恵美さんを何だと思っていらっしゃるんですっ」

「落ち着いて座れ」

「お断りします」

「座れ!」

 反抗を許さない貴明の低い声に、麻理子はしぶしぶ従った。お腹の底では、雅明への怒りでさまざまなものが煮えくり返っている。まだ恵美は圭吾や正人が忘れられないし、あんなに雅明を嫌っていたのだ。それを無理やりにするなど男のする行動ではない。

 肩を押さえつけていた貴明の手が離れ、貴明は自分の席に戻った。

 そしてゆっくりとお茶を飲み、静かにテーブルの上へ戻した。

「……確かに時期尚早だが、恵美は雅明を心底嫌ってはいない。大丈夫だ」

「恵美さんご本人でもないのに、どうしておわかりになるんです?」

「わかるさ。高校の時からのつきあいだ。恵美は好意のある相手にしか拳骨で叩かない」

「……は?」

 誤魔化されたのかと思い、麻理子は一瞬貴明を睨んだ。

「……だからと言って、恋愛にたどり着くかどうかはわからないけど、ね」

 寂しそうに貴明は笑った。

 今日の貴明はなんだか変だ。どこがどうとは言えないが、いつもの剛毅さが消えている気がする。薄茶色の瞳にも光がない。

「心底嫌っている相手だったら、恵美は話題にもしない女さ。麻理子は大分鈍そうだから気づいていないんだろうが、恵美は雅明の前で女の顔になっていた」

 女の顔という表現がよくわからず、麻理子はもやもやとした。貴明は大真面目に言っており、麻理子をからかっているわけではなさそうだ。

「親父の時と同じさ。好意を持てば持つほど突き放そうとする。好きになるのが怖いんだ」

「好きになるのが怖い?」

「麻理子だってそうだったろ? 我を忘れるほど相手にのめり込むのが恐ろしくなる。引き返し不可能なところまでいったら、自分が自分でなくなりそうだ。そんな感覚に囚われるんだ」

「……あ」

 貴明は力なく嘆息し、そうは言っても、麻理子の言うとおり雅明は性急過ぎると付け加えた。

 やはり今日の貴明はいつもと違う。

 昨日の朝は元気だった……。

 麻理子は思いを巡らせた。亜美との企みがばれたのなら、面と向って言われるはずだった。

 だとしたら病気だろうか。

 麻理子は立ち上がり、貴明の額に手を当てた。熱は無いが、表情に疲れがはっきりと見て取れた。

 どちらかというと貴明は部下に仕事を放り出せないタイプで、普通の社長の何倍かの仕事量だ。秘書がいつかぼやいていて、休むようにお願いしてくれと頼まれたのを麻理子は思い出した。

 思い返せばここ数日、貴明は手錠で繋いでいても麻理子に手を出してこなかった。

「お仕事を今日は休まれては?」

「仕事で疲れてるんじゃない。……麻理子」

「はい?」

 不意に右手を強く握られ、麻理子は驚いた。鷹の目で射るように見つめられると、勇佑の件で後ろめたい思いを抱えているので、身体が硬直してしまう。

「……僕たちは婚約者同士だよね? どうして敬語なの? 様をつけるの? 君の家では当たり前の事だったの?」

「いえ」

 麻理子の両親は名前を呼び合って話をしていた。しかし、麻理子はかなりの気恥ずかしさがあって、とても呼び捨てになどできそうもない。よそのお宅では様をつけて呼んでいる女性もいる。だから麻理子は特に気にしていなかった。

「でも、貴明様は貴明様ではありませんか?」

「……貴明様…………ね」

 皮肉を滲ませて貴明は笑い、麻理子の手を離して立ち上がった。

 この時、麻理子は貴明のもっとも繊細な部分に、大きな傷をつけてしまっていた。その傷は昔の恋人の恵美がつけて、貴明をどん底に突き落としたものだった。彼女を諦めて以降癒えかけていたのに、また傷は繊細な部分で裂け、青い血をふき出した。

 麻理子は何故ここまで貴明が不機嫌になったのかわからず、貴明に触れようとして邪険に振り払われた。

「僕はご主人様じゃない! 婚約者になっても麻理子は一線引いてる。僕に心を完全に許そうとしない、何故だ?」

 まるで親に叱られた子供が言い返すように、いきなり貴明が叫び、麻理子は唖然とした。

「何をおっしゃってるんですか?」

 恵美の話から、どうしていきなりこんな話になるのか、麻理子にはまるで理解できない。当然だ。今の貴明は完全に感情的になっていて、話すべき部分をすっ飛ばしてしまっている。それなのにそれに気づけないほど貴明は麻理子に甘え、そして裏切られたと勝手に傷ついているのだった。

「あの……一体?」

 昨日の貴明の予定を、麻理子は脳裏のノートでめくった。夜にパーティーがあったきりだ。パーティーで何があったのだろうか。いや、パーティーでなくても、何かがあったに違いない。どうしてそれを言わずにこんなふうに怒るのだろうか。

 麻理子はそこまで考えて、貴明の機嫌が急に変わったのは、恵美のことを口にしてからだと気づいた。

 まさか、雅明が恵美と寝たから不機嫌なのだろうか。ありえないと思いながらも、ちらりと嫉妬が燃えた。

「恵美さんと雅明さんが結ばれて、貴明様は不満なんですか?」

「馬鹿を言うな!」

 力任せに貴明がテーブルを叩いたので、その大きな音に麻理子は飛び上がった。即座に言ってはならないことを言ってしまったと後悔が芽生えた。貴明は肩を怒らせてずんずん扉へ歩いていく。麻理子は焦って追いかけた。唐突に貴明が扉の前で足を止めたため、その背中に麻理子はぶつかりそうになった。それを止めたのは振り向いた貴明の両腕で、次の瞬間には唇が合わさっていた。

 しかしそれは、いつものように甘く優しいものではなく、冷たくて痛みを伴うものだった。

「…………っ!」

 突き飛ばされ、麻理子はカーペットの上に転がりかけて踏みとどまる。

 扉が音を立てて開いた。

 貴明の後姿がどうしようもなく傷ついている。こんなに頼りなさそうな貴明を、外に出してもいいものだろうか。止めたいのに、今の麻理子には止められる力がなかった。

 振り返らない貴明が、微かに空気を震わせて笑った。

「……幻滅したろ? 僕はこんなふうにおとなに成りきれていない人間だ。……おまえも、僕も、まだ本当の姿を愛せていなかったのかもしれないね」

 おまえ。

 麻理子は貴明から聞いたその言葉に、胸を熱くさせた。父が母に優しく言っていた言葉だった。だが懐かしさに浸ったのはほんの数秒で、貴明が扉を閉じて出て行ってしまったため、何もかもが吹き飛んでしまった。

 血の味がする唇を洗面台で洗い、麻理子は震える手でその傷跡をなぞった。口紅で隠せそうなほどちいさな傷だったが、心に受けた衝撃は大きかった。

 貴明を傷つけてしまった。

 あれでは恵美をまだ愛しているのだろうと、疑っているようなものだ。そんなつもりはまったくなかったのに、ちらりと芽生えた嫉妬が言わせてしまった。亜美に先日強く語った貴明への信頼を、今日あっさりと崩してしまった。

 おろかさに麻理子は泣きたくなった。

 誰も見ていない。みどりは隣の控え室にいて呼ばれない限り出てこない。

 涙がぼろぼろと頬を伝っていく。声を押し殺して、麻理子は泣きながら食器を片付けた。

 馬鹿だ自分は。

 大馬鹿だ……。

 その夜、一晩待っても貴明は来なかった。

 麻理子は、貴明が傷ついた本当の理由を知らないままでいた。

 

 翌日は雲が低く垂れ込め、今にも雨が降りそうなのになかなか降らず、とても蒸し暑い日だった。

 こんな日は体調が悪くなるかもしれない。

 麻理子は先日の暗い気分を心持ち引きずり、昼食を持って恵美の部屋に行った。

 恵美は体調はほぼ元通りになったが、ときどき昼寝をしないと体力が保たず、特にこんな日はたまらないだろう。おまけに一昨日は雅明に翻弄されていたのだ。つかれきっているに決まっている。

 部屋は空調がきいていて涼しかった。

「恵美さん……?」

 恵美は大事そうに圭吾の写真立てを抱きしめて、静かに眠っていた。

 怖いイメージが付きまとう人物だが、その写真の圭吾は穏やかに微笑んでいる。おそらく麻理子の父と居る時も、こんな感じだったのだろう。

「愚かだと思わないか? 麻理子さん」

 いきなり雅明の声が響き、麻理子は驚いた。

 雅明はずっといたらしく、天蓋ベッドの影に立っていた。

 彼は貴明の様な存在感はなく、屋敷の中に居てもいつも目立たない。ともすると、普通の人間より存在感が薄いのだった。顔の造形が貴明と全く同じなのに、雅明の美しさはいつも影を潜めていた。

 恵美を抱いた事について追求しようと麻理子は思っていたが、雅明の表情がいつもより優しく懐かしく、それでいて熱いものを秘めていてそれを口にするのは憚られた。

 それだけでわかる。雅明が恵美に本気なのだと。

「……驚きましたわ。何なさってるんです?」

「恵美さんを眺めてただけ。眠ってる時と抱いてる時だけなんだよね、彼女が素直になるのは」

 優しい笑みを浮かべ、雅明は恵美の額にそっとキスをした。

 眠っている恵美は起きている時よりもはるかに儚気で、少女の様で、頼りな気に見える。

 雅明は壊れ物に触れるかのように、恵美の小さな手を両手で取った。

「こんな女がさ、懸命に一人で子育てしてるのを見たら、助けてやりたくなった。だから君たちを家に呼んだんだ。貴明が許せなかったよ。何も知らずに麻理子さんと結婚しようとしているんだからな」

 貴明の名に、麻理子の胸はちくりと痛んだ。

「貴明様はご存知なかったんです」

「恵美は何度も私に言ったよ。穂高は私の子供という事にして欲しいって。佐藤圭吾と貴明にめちゃくちゃにされてたくせに、どれだけ貴明に尽くしたら気が済むんだと腹がたったね!」

 吐き捨てる様に言って恵美の手を下ろし、恵美が抱いている写真立てを手に取った。

「こんな奴の何が良いって言うんだ?」

「愛したら、その人が正義なんですよ」

「道理で君は、悪魔な貴明にべた惚れなわけだ」

「貴明様がお嫌いですか?」

 麻理子はベッドの脇に座った雅明を見下ろした。いつものおちゃらけた雅明ではないので、妙に違和感がある。

「好きだよ。だけどあいつは変わったな。人を傷つけるのが平気になった。佐藤圭吾のせいだよ。あいつが貴明をあんなふうにしたんだ。昔はすぐ泣く奴で私の後ろをついて回る弱虫だったんだが」

 麻理子もずっとそう思っていたが、昨日の貴明を思い返すと、冷たい仮面の下で泣き続けていたのではないかと思われた。

「先代はそんなにひどい方だったんですか?」

「ひどいもなにも、普通、息子の恋人奪って愛人になんかするか? 人間のやる事かそれが。何ヶ月も部屋に閉じ込めて、人としてどうかと思うね」

 雅明は今、恵美の為に怒って、悲しんでいる。

「寂しい人だったんですよ。そうすることでしか、愛するものを手に入れられなかったんでしょうね。きっと思い切り不器用で、気持ちの伝え方がわからない純粋な心の持ち主だったのでは?」

 そしてそれは雅明も同じだ。それをにおわせたのを雅明は敏感に感じ取り、ふんと鼻で笑った。

「考え方が天使みたいに前向きだね。だから叔父親子に乗っ取られたりするんだよ」

 麻理子は優しく微笑んだ。

「私は信じてます。お兄様が私を殺そうとするわけがない……」

「裏切られたらどうする?」

「私が愚かなだけですわ……」

「後悔しないのか?」

「ええ」

 女豹のようにきらきらひかる麻理子の相貌を、雅明はまぶしげに見やった。

「ついていけないよ。君たちには」

 麻理子は恵美に上掛けを被せ、そのまま部屋を出て行こうとしたが、その背中に雅明の声が飛んだ。

「嶋田勇佑にそんなに会いたい?」

 ぎくりとした麻理子は、後ずさりながら雅明に振り返った。雅明はいつもの調子に戻って、にやにやとした笑みを浮かべている。

「木野記念病院に入院してるとこまではわかってる。院長の娘を引き込んで、会う手はずをつけてみたいだね」

「なんのことかしら?」

「おや、いっぱしに嘘をつくんだ。残念ながら筒抜けなんだよね。ふふ」

「貴明様には……」

「言ってない。ただね、私も貴明の過保護ぶりはどうかと思うわけ。会いたいものは会いたい、そうだろ?」

 わなかもしれない懸念が拭えず、麻理子は知らないふりをする。

「お兄様は元気だったはずよ。一体何をおっしゃりたいの?」

「ま、好きにしたらいいよ。後悔しても知らないけど……」

 立ち上がった雅明の指先が頬に触れる前に、麻理子はさっと後ろへかわした。

 これ以上ここにいたらばれてしまいそうだ。

 足早に歩いて扉を開ける麻理子に、雅明が言った。

「貴明と喧嘩をした?」

 昨日のあの貴明を見たら、誰でも察しがつくのだろう。

 黙ったままでいる麻理子に、雅明が近づいてくる気配がした。しかし数歩離れたところで足は止まった。

「あいつね、ものすごく落ち込んでた。昨日の朝から会ってないそうだね? ナタリーが気を揉んでる」

 麻理子はエプロンを握り締めた。

「……今の貴明が、子供みたいな部分を露呈させるのは、心底愛してる人間だけだ。納得いかないだろうけどわかってやってくれ」

 それは自分だって同じだ。

「男って勝手な生き物でね。自分では察せられないくせに、愛した女には自分の気持ちを言わなくてもわかれと、無茶な要求をするもんなんだよ。ただの子供の甘えだ」

「貴方もそうなんですか?」

「私はそれを恵美さんに望んでる……」

 振り向いた麻理子に、雅明はどうなるかわからないけどねと付け足し、表情を改め、今しかチャンスは無いねと意味深に笑った。   

「今夜貴明は接待に出かける。みどりをなんとかしたかったら、蛇を投げつけるんだね」

「……蛇?」

「そう、蛇」

 麻理子は廊下へ出て、扉を静かに閉めた。

 廊下ではメイドたちが掃除をしていて、麻理子はそれらがきちんとされているのをチェックし、次の指示をした。

 頭の中にあるのは、雅明の言葉だ。

 何故、雅明は麻理子に協力してくれるのだろう。

 だがこの際は利用するべきだった。

 麻理子の心はぐちゃぐちゃに入り乱れていた。

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