天使のキス ~Deux anges~ 第30話

 その日も貴明に会う事はなく、夜になり、雅明の言ったとおり貴明は外出したようだった。

 結婚式はあと五日後だというのに、こんなふうでは挙式ができるかどうかわからない。

 つくられたウェディングドレスも見る気になれない。ため息をつく麻理子に、みどりは何も言わなかった。恵美の子の穂高と美雪だけが、異様に興奮して盛り上がっている。

「麻理子お姉さま、これを着たらお姫様になっちゃうね!」

「馬鹿だな姉ちゃんは、今でもお姫様だよ!」

 二人は麻理子の作ったお菓子を前に、口げんかを始めた。そんな二人を見るとほっとする。

 麻理子にもこんな頃があり、両親が麻理子と同じように見てくれていただろう。

 子供たちにホットミルクをいれながら、思うのはやはり貴明のことだ。

 婚約した時、何故こんなに結婚を急ぐのかわからなかった。貴明は十年も待ったからこれ以上待てないと言っていたが、きっと本性が現れる前に自分のものにしようと思ったのだろう。結婚してしまえばそうそう離婚は出来ない。なにしろ相手は、大企業佐藤グループの代表取締役だ。世間的な重圧は凄まじい。

 その必死さが切なくて、麻理子は泣きそうになる。自分はそこまでの価値が本当にあるのだろうか。

 痛いほどの愛に包まれて、こんな女と結婚していいのかと問いただしたくなる……。

「麻理子様、お電話です」

 みどりの声に物思いから我にかえり、麻理子は二人の前にホットミルクを置いた。

「誰から?」

「ガーランドさんという女性です」

 聞き覚えがない名前に、麻理子は誰だろうと思いながら受話器を受け取った。 

「もしもし……」

『麻理子? 私、園子よ』

「まあ! 園子。久しぶりね」

 久しぶりの園子の声に麻理子は声が弾んだ。いじめの親玉だと今は知っているが、それでも電話をかけてきてくれるのがうれしい。

『聞いたわよ、貴明様と結婚するんですってね』

「園子こそ結婚したのね、ガーランドって誰だって思ったわ。お相手を見たわよ、空港で歩いていたでしょ」

『あら、ばれてたの?』

 園子はびっくりしているようだった。相手まで知っているとは思っていなかったらしい。麻理子はおかしくなって、くすくす笑った。一月も経っていないのに懐かしくて仕方がない。同時に旅行前のあの時に帰りたくてたまらなくなった。

 だがそれは叶わない夢だ。

『ところでね……』 

 受話器の向こう園子の声が、少し低くなった。

『今すぐ会えないかしら、今私、日本にいるの』

「難しいわね。私は今外出できないの」

『そりゃあ、貴明様としては、最愛の貴方を護る為にそうするでしょうね。嶋田康祐に、いつ貴女を殺されるかわかったもんじゃないもん』

 園子が納得した様に言い、麻理子は受話器を落としかけた。

「叔父様が……私を?」

『私の父は不動産業を営んでいるんだけど、嶋田康祐のSHIMADAと少し前まで契約してたのよ。でも、法律すれすれのグレーゾーンだらけの契約を強要するから、直ぐに打ち切ったらしいんだけど。相当悪い男らしいわ」

「本当なのそれ」

『本当も何も、貴明様だってご存知だと思うわ。そうそ、息子の勇佑氏は入院しているらしいわね。彼がいなくなってからますますひどいそうよ』

 貴明はそんなことまで話してくれなかった。麻理子は、あらためて現実を園子にぶつけられた気がした。

 だがなぜ園子が、SHIMADAの内情を知っているのだろうか。入院は内密の筈だった。麻理子がそう言うと、簡単なことよと園子は笑った。

『うちのパパは、契約する際に徹底的に相手を調べつくすの。貴明様よりどぎつくね』

 メイドの誰かから、園子の父親はヤクザまがいの不動産業を営んでいると、麻理子は過去に聞いた覚えがあった。となると、園子の性格のきつさもこの辺りに由来しているのだろう。母親も同じようなタイプだった。何故か好かれて、あれこれ面倒を見てもらったが……。 

『今から一緒にあんたの屋敷を見に行かない? あんたは知る権利が有るわ。もの凄い趣味の悪い豪邸に建て変わっているから。相当な曲者の父が、あんな悪い奴見た事無いって言ってた程よ。あのハゲの豪遊ぶりを見て、対処するべきよ」

 屋敷が変わり果てていると聞き、麻理子はいてもたってもいられなくなった。そこまで話すと、麻理子はなんとしてでも抜け出すだろうから、貴明は黙っていたのだろう。

「わかった、いくわ」

 園子が麻理子の知っている喫茶店を指定してきて、そこで二人はおちあうことになった。

 電話を切ると、みどりが厳しく言った。

「なりませんよ麻理子様。社長のご命令です」

「今、貴明様はおいででないわ」

 麻理子はみどりを無視して、隣の部屋のクローゼットから洋服を取り出して着替えた。顔に化粧を施し、髪も整える。

「麻理子様! 聞いていらっしゃるのですか!」

「なら貴女もついていらっしゃい。それなら文句はないでしょう? 雅明さんだってどこかで見張ってるんだろうし」

「あの人は今夜、社長のお供でいませんよ!」

「それなら、なおさらついてきなさい」

 リビングに戻り、お菓子を食べている二人に、麻理子は言った。

「すぐに恵美さんの部屋へお戻りなさい。お菓子は持って行って」

「ええ? なんで?」

 穂高はむくれたが、察しのいい美雪はうなずいてくれた。

 みどりはかんかんに怒って、出かけようとする麻理子の鞄を引っつかんだ。

「聞いてくださらないのなら、実力行使に出ますよ!」

「みどり」

 麻理子は鞄を開けて、中庭で捕獲したアオダイショウを手に掴み、みどりの鼻先にちらつかせた。

 果たして雅明の言ったのは本当だったようで、みどりは鎌首を持ち上げて舌をちょろちょろと出す蛇を前に、顔を真っ青にして鋭い悲鳴をあげた。何事かと振り向いた子供二人は、わあっ蛇だ! と大喜びで駆け寄ってきた。子供二人は平気らしい。

「ま、ま……っ麻理子様! きゃあああっ、や! 近づけないでくださいっ」

「ついてくるの? こないの?」

「行きます行きます。だから!」

 必死でうなずくみどりに、麻理子は蛇を鞄にしまった。     

「園子と会うのは、お邸の前の喫茶店よ。嶋田の家には今日は行かない。話を聞いたらすぐにもどるわ。ほんの五十メートルほどの先の店だもの。外出とはいえないと思うわ」

「わ、わかりました……」

 みどりは両腕で自分を抱きしめて、ぶるぶると震えながら了承した。余程怖いらしい。

「おばちゃん、蛇が怖いの? 大人なのにへんなのー」

「あの、ですね! 普通の人は大抵怖がりますよ」

「そっか、お母さんも悲鳴上げてた」

「でも面白いのにねー。蛇リングとか気持ちいいよー」

 田舎で育った子供はたくましい。みどりは聞きたくないとばかりに、外出の準備を始めた。 

 そこへ再び電話が鳴り、準備中のみどりの代わりに麻理子が出ると、かけてきたのは亜美だった。勇佑に会える手はずがやっとついたのかと、期待した麻理子に亜美が告げたのは謝罪の言葉だった。

『麻理子さん、申し訳ないんですが……勇佑さんは無理そうです』

「どういうこと?」

『兄が言うには、この間麻理子さんにお会いした日に退院されたそうです。手術は成功だったそうで』

「……そうなの」

『すみません、お役に立てなくて』

「いえ、いいのよ。じゃあ切るわね、今から外に行くから」

『ええ? 麻理子さん今外出禁止だったんじゃ……』

「何で知ってるの?」

『え? それは……』

 慌てる亜美を麻理子は不審に思った。この間勇佑に会いたいとは言ったが、外出禁止にされているとは言わなかった。それを亜美が知っているということは、誰かがそれをもらしたことになる。

「……貴明様に頼まれたわね?」

 亜美は無言だった。

 雅明が言ったのだろうか、それとも貴明が嗅ぎつけたのだろうか。

「嘘はよくないわ。本当はまだいらっしゃるんでしょう?」

『すみません、本当のところはわかりません。いらっしゃるかもしれないし、いらっしゃらないかもしれません。兄から、佐藤の家の人間にこう言えと指示があったからって、私……』

「わかったわ……ありがとう」

 もう聞く気にもなれなくなり、麻理子は受話器を下ろした。

 時計を見ると園子との待ち合わせの時間が迫っている。用意を済ませたみどりが部屋へ戻ってきたので、麻理子は彼女を伴って廊下を歩き、表玄関へ出た。喫茶店は道路を隔てた向こうの通りにある。 

 夜に入っていて、照明がないところは薄暗かった。おまけに雨が激しく降っているため視界が悪い。

 退社時刻はとっくに過ぎており、昼なら従業員や来客で混雑している表玄関も、人影がまばらだ。

 麻理子が顔をめぐらせると、喫茶店の前に停車している車のドアの前で、一人待っている園子の姿が見えた。

 信号が青に変わり、横断歩道へ麻理子は足を踏み出した。園子が手を振った。

 その時、手を振り返した麻理子の前に、猛スピードの車が突っ込み、急ブレーキをかけて停まった。。斜めに止められた車から出てきた男たちが、驚く麻理子を二人掛かりで捕まえて、車の中に押し込む。園子が駆け寄ってくる。表玄関のガードマン達も気づいてこちらに向ってきた。

「早く発進しろ!」

 一人がかすれる声で叫んだ。麻理子は悲鳴を上げたくても、口を塞がれてあげられなかった。みどりは、たった今そこに居たはずだったのに姿がない。

 麻理子は懸命にもがき、男を振りほどこうとしたが、男の力は強くびくともしない。

「何をしている!」

 ハンドルを握っている男が、イライラした声をあげた。麻理子を拘束している男が、ドアを閉められないでいるらしい。

「ドアが……! なんだこのガキども!」

 子供はきっと穂高と美雪だ。目で来るなと言おうとしたが、薬品を染込ませたハンカチを鼻と口に押し付けられた。息苦しさから、麻理子はハンカチに塗布されていた薬品を吸い込んでしまった。

 ドアが閉まる音がした。

 車は猛スピードで発進し、恐ろしい速さで走り去る。

「麻理子っ!」 

 園子の叫ぶ声は、意識を失った麻理子には届かなかった。

 雨はいよいよ激しい。

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