天使のキス ~Deux anges~ 第32話
雅明と和紀は部屋を出て行き、貴明と二人きりになった。
言いつけに逆らった麻理子は、恐らくは誰かの結婚式披露宴を抜け出してきたのだろうと思われる、礼服の貴明と目線が合わせられなかった。
頑なまでに貴明の言葉をはねつけた結果がこれで、情けなくていたたまれない。
おまけに先日貴明を傷つけたばかりだ。
何をどう償えばいいのか、麻理子はわからなかった。
自分はもう、貴明に愛される資格はないのではないか。愛する人の言葉をすべて裏切る行動をとるなど、有得ないと思う。
「麻理子」
だから、貴明に名を呼ばれても麻理子は顔をあげられず、和紀からもらった用紙と、革の冊子の上に両手を重ねて見下ろしているだけだった。
「……怒ってるの?」
怒ってるのは貴明のほうだ。麻理子は横に顔を振った。泣きたくもないのにまた涙がぼろぼろと零れた。今日一日で、数年分の涙を流している気がする。
がさごそと布がこすれる音がして、ハンカチが零れる涙を拭っていく。それでも麻理子は、貴明と目をあわせられなかった。
もうすぐ言われてしまう。
自分達は別れたほうがいい、結婚はなかったことにしようと。
泣くのは卑怯だとわかっているのに、感情の堤は決壊して、涙の流れを止められないのだった。
「勇佑は……」
貴明が従兄の名を口にし、麻理子はわずかに肩をびくつかせた。
「精神科医の鑑定が必要らしい。和紀の病院への入院も本当はその為だったんだ。都合の悪い事は、皆僕がやったことだと思い込んでいるそうだ」
確かに勇佑は、すべてを貴明のせいにしていた。
「康祐氏は、勇佑のやった事を己の利益のためにすべて黙認していたから、なんらかの判決が下りるだろう。SHIMADAは康祐が社長になってから、悪評が絶えなかった。親子でそうとう好き放題をしたようだ。そして、この邸はこの部屋以外、ひどい改装が加えられている。今のうちに佐藤邸へ帰ったほうがいい」
「帰れません!」
とっさに麻理子は叫んだ。
「私、ここに居ます。もう帰りません」
「何を言っているの麻理子」
「私は貴明様の言いつけに逆らいました。だからそんな人間は、貴明様と一緒に居ちゃいけないんです」
「麻理子」
「それみたことかって、おっしゃったらいいじゃありませんか。皆みんな、貴明様の説明どおりにだったんですから」
ぎゅっと貴明が抱きしめてきた。資格が無いと思い込んでいる麻理子はもがいたが、強く抱きこまれていて苦しくなっただけだった。
「そんなに傷ついてるのに言えるわけがないだろう。大体言いつけって何? 僕はお前のパートナーで、ご主人様じゃないんだよ?」
「だって!」
「そりゃ腹も立ったさ。これほど言ってるのにどうしてわからないのかと、いらついたよ。でも仕方ないじゃないか、僕はどうしても言えなかったんだ、お前が慕っている勇佑が、狂っているだなんて言えるわけがない。ほとぼりが覚めるまでは会わせないでおこうと思った」
貴明の手が、なだめるように麻理子の背中を撫でた。
「でも昨日雅明が言った。麻理子さんの親族の事だ。麻理子さん自身で解決させなかったら、あの人は一生後悔することになるって。その通りだと思った。僕は盲目になっていたと気づいたよ。だからわざと隙を作った。みどりにも協力させた。もっとも、園子という女がわりこんできたのには驚いたけどね。愛する女をわざと誘拐させるなんて、信じられないって、般若の顔で怒鳴られたよ」
美しい園子が般若顔になったら、さぞ恐ろしい顔になっただろう。
「誘拐を安全にさせるには、勇佑に脅されていた和紀の協力が、必要不可欠でね。木野記念病院は昨年の故意の手術失敗で、汚名を拭うためにしゃかりきになってる。当の医師を僕が探し出して、突き出すのを条件に協力させた」
「お兄様が……、北海道で和紀さんを焚きつけた、のですか?」
「ああ。自分しか安全な男は居ないと思わせたかったそうだ。空港で僕たちと出会って、奴は男に興味がないはずのお前が、僕と二人きりで旅行すると知って慌てたんだろう。なんとか離そうとして、和紀を送り込んだんだ。でも失敗してしまって……」
「なぜそこまで、和紀さんは言いなりになってたんです?」
「僕が嫌いなのが半分、病院の汚名を言い広められないためにが半分だ。故意に手術を失敗させた患者は、勇佑の婚約者だった女性だ」
「…………!」
勇佑の狂気が、今頃になってじんわりと、麻理子の身体を侵していくかのようだった。
「康祐氏が、麻理子をあきらめない勇佑に業を煮やして、無理に押し付けた女性だった。勇佑は、邪魔な彼女を葬り去り、お前とつながりのある人間を脅して、うまくお前を操ろうとしたんだ。だがことごとく僕たちが邪魔をするから、焦っていたんだろう。僕も彼を知らない時は挑発したし。あれは失敗だった。うまくやっていれば……いや、うまくやったとしても、お前のご両親を殺害した罪は消えない。文書偽造の罪も」
やはり駄目だと麻理子は思った。
身内にこんな罪人が居ては、貴明の将来に傷がつく。
一生独身を貫いて、貴明の幸せを願うほうが、余程の深い愛情なのではないだろうか。
ふと、麻理子の胸に、温かく舞い降りるものがあった。
恵美も、こんな気持ちで貴明と接していたのではないのか。彼女はお嬢様でもなく、普通の家の出で、特に美人ではないと気にしていたと聞く。
愛していないと恵美は言っていたが、こんなに深く愛していたのではないか……。貴明が求める愛ではなかったとしても、彼女は間違いなく貴明を愛している。
そんなすばらしい女性が愛した男なのだ。
自分などにはもったいない。
「貴明様……、私……」
「身を退くとかいう言葉なら、聞かないよ」
そこで初めて麻理子は貴明を見た。腕を離した貴明は、それでも麻理子の左手をきつく握ったままだった。
「わざわざ和紀に家捜しさせたんだ。彼らの苦労が水の泡になったらたまらないね。あいつはあれなりに麻理子が好きだったんだよ、腹が立つけれど」
麻理子は、和紀に手渡された物を見下ろした。
「……この借用証を、よく見つけられましたね」
「和紀が専門家を雇って、勇佑が油断している隙に探した」
「でも破棄されてるに違いないって……」
「そうあの時は思ったけれど、和紀は必ずあると言った。麻理子にあれほど執着している男だから、関連するものはどれだけ不都合な物でも残しているはずだと。勇佑の部屋の出入り口の、床の下にしまいこんであったそうだ。毎日踏みつけることで、憂さを晴らしてたんだろうね」
くすりと貴明が笑うと、そこだけに夏の青空が広がったようだった。北海道旅行が懐かしく思い出された。
「その革の表紙の、開けてみて」
貴明にせがまれて、麻理子はそっと革の表紙をめくった。
どきりとした。
そこに居たのは、今よりも若い二十歳ごろの貴明だった。相変わらず綺麗で、自信に満ち溢れた魅力的な笑みを浮かべている。
どう見てもこれは見合い写真だ。
釣書があり、名前、家族構成、趣味や経歴の書かれてある最後に、父の三郎の筆跡で、
”ほら、やっぱり白馬の王子様が居たじゃないか。よかったね”
と、書かれていた。
「お父様……!」
三郎のからかい気味の、とても優しい笑顔が浮かぶかのようだった。折角止まった涙がまた復活したが、それを貴明は止めなかった。喜びの涙はいくら流してもいい……。
貴明が麻理子の目元に口付けて、ぶっきらぼうに謝った。
「麻理子。この間は怒ってごめんね。呼び名に僕はこだわってたんだ。どうしても麻理子と対等になりたくて、呼び捨てにして欲しかったんだ……。今まで上司と部下だったのに、上下関係が厳しいうちの邸で勤めてた麻理子が、そんなのいきなりできるわけがないのにね。」
「そう……だったんですか」
貴明は、愛を疑われて怒っていたのではなかった。
ほっとしたら、今度は我侭が湧き出てきた。でも、今ならば許されるのではないかと、麻理子は思った。
「……お前………」
「ん?」
「お前だけだと言ってください。愛してるって……私…………っ」
笑おうとしているのに、涙は一向に止まってくれない。
三郎の思いを、麻理子は今しっかりと受け止めた。三郎は、貴明と結婚させるために、勇佑の求婚を蹴ったのだ。だからこんなことでくじけてはならなかった。現金な気がしないでもないし、図々しいと思わないでもない。しかし、貴明をはじめとする雅明や恵美たちの思いに、麻理子は応えるべきだったし、またそうしたいという思いが、ずっと麻理子の心の底にたゆっていた。
「……麻理子」
優しい手が麻理子の頬を柔らかく撫でたので、じっと見つめ返すと、貴明は麻理子の大好きな天使の微笑を浮かべた。
「お前だけだよ麻理子。お前だけを愛してる」
「……貴明、私も」
口付けられて、それ以上は麻理子は言えなかった。
部屋の外では、やれやれと雅明は首をすくめ、和紀は複雑な顔でそれに返した。