天使のかたわれ 第06話
眠れない恵美は、圭吾のスーツを胸に抱えてベンチに座り、ぼんやりとしていた。
いや、ぼんやりとしているふりをしていた。少しでも気を許すと、雅明が心の中に入り込んできてしまって、かき乱されてしまうのだ。
佐藤邸の深夜の庭は、ぽつぽつと防犯のための照明が照らしているだけで、しんと静まり返っていた。まだ梅雨の最中のため、時折吹く風はひんやりとして肌寒い。
(ああ駄目)
雅明の姿が浮かぶと、もう離れない。
自分はさっき、心の奥底深い部分へ雅明が立ち入ることを、許してしまわなかっただろうか。
(とんでもないことよ。なんだってあんな軽そうな男)
そう思うことすら自己弁護をしているような気がして、自分自身が嫌になる。
もう誰かに愛されて、振り回されたくない。人生をおかしくされたくない。
やっと手に入れた平穏な暮らしを、自己管理がなっていなかったせいで、ぶち壊してしまった。普通に暮らせていたなら、貴明だってわざわざ自分の屋敷へ連れて帰っては来なかっただろう。貴明は、己が恵美の災いにしかならないことを、一番よく知っている。
貴明にとっての恵美への最大の愛情は、自分から解放することだった。それが、彼の兄雅明が恵美を求めることで、崩壊しようとしている……。
恵美は、圭吾のスーツをぎゅっと抱きしめた。
「貴方さえ生きていてくれたなら、こんなに悩まないのに」
涙が、次から次へと溢れては落ちていく。
「逢いたい。……圭吾、逢いたいよ」
しかしその願いは、生きている限り決して叶わないのだった。
それからも、相変わらず雅明は子供達と一緒にやってきては、恵美にちょっかいを出してきた。屋敷の中で公認の仲になってしまっているため、誰も何も言わない。麻理子も貴明もさらに忙しくなり、あまりこちらに来てくれなくなった。
雅明の母のナタリーだけが、誰も居ない隙を見計らって雅明に注意をしてくれたが、噂は消えなかった。
ともあれ、はっきりとしない恵美の態度に、一番の問題があるのは確かだった。
「あれ? 穂高と美雪は?」
ある日の夕方、何故か、雅明一人で部屋に入ってきた。
「祭りが近くであってね。それに行ったよ。ナタリーが一緒だし、ボディーガードも居るから大丈夫だ」
「だったら、貴方も行って来ればいいのに」
迷惑そうな恵美に、雅明は肩を竦めた。
「私の仕事は他にあるんでね」
現在の雅明の仕事は、貴明の婚約者である麻理子を警護だ。それについては一度、雅明は恵美の家でストーカー行為をしている男たちに発砲して追い払った時に説明しているので、恵美も知っている。
「麻理子さんは大丈夫なの?」
「屋敷の中では、あのみどりさんが見てるからね。みどりさんも私並みに凄腕だよ。今のところ何も起きてないから大丈夫。貴明の心配のし過ぎなんじゃないかな」
なにも心配はいらない、普段どおりだと雅明は笑った。
本当は麻理子は、欲にまみれた親族たちに、今にも殺されてしまいそうな危機的状況下にある。それなのに、雅明はそんな匂いをおくびにも出さず、平然と嘘をついた。
雅明という男の恐ろしさはここにある。到底、恵美の敵う相手ではなく、人のいい彼女はあっさりとそれを信じた。
「……そう」
ほっとした恵美は、不意にメイドたちから聞いた話を持ち出した。
「メイドさんを誘惑してるらしいわね」
「もう必要なくなったからしないよ」
麻理子をいじめていたメイドを探るために、雅明は敢えて関係を持ったりしていた。それの事だろう。
「私には関係ないけど」
恵美が面白くなさそうに言うので、雅明は吹き出した。
「気になるくせに」
「してないわよ!」
雅明が夕食を載せたワゴンをテーブルの隣に止めると、二人で配膳する。雅明にとって至福のひと時だ。
配膳しながら、雅明は恵美を眩しそうに見やった。
貧血は順調によくなってきている。もともとが健康体なのだから、治りも早い。顔色も良くなり、肌にも髪にも艶が出てきた。
視線に気づいた恵美の顔が、さっと赤く染まった。
「な……、何よ!」
「綺麗だと思って」
「お世辞は結構です!」
「本気なのに」
二十九歳の恵美の身体は、柔らかな曲線を描き成熟しきっている。それだけでも十分に誘惑されるのに、二児の母である彼女の慈愛に満ちた眼差しが、雅明を惹きつけて放さない。
二人だけの夕食の配膳は直ぐに終わった。
出て行けといっても出て行くような男ではないと、恵美はわかっているので、夕食を食べたらさっさと追い出そうと思いながらテレビをつけた。
「貴明と麻理子さんは?」
「野暮だなあ。いちゃいちゃを邪魔しちゃいけないよ」
「邪魔なんて……」
「知ってるだろ? 貴明も麻理子さんも忙しいの。貴重な逢瀬の時間は二人きりにしてやらなきゃ」
「そりゃそうだけど。じゃあ、他の人……」
「何が悲しくて、花の金曜日に仕事しなきゃいけないのさ? 鬼だなあ」
くやしいが雅明の言うとおりで、恵美は気詰まりに恵美は思いながら、夕食を口に運んだ。
子ども達が居ないと酷く静かだ。
雅明はすっかり寛いでいる様子で、テレビに見入って笑ったりしている。本来なら恵美はテレビを観ながら食事をとるのは好きではないが、気詰まりな思いを少しでもましにできるのならと我慢していた。
テレビがギリシャのパルテノン神殿が映した。神殿の修理をしているらしく、基礎が組まれている。
「まだ修理中なんだな。何十年もやる国民柄なんだろうな」
雅明が呟いた。
「そんなに長くやってるの?」
「日本人がせっかちなのかもしれないけれどね。公共工事でもこうなんだから、ギリシャはコネがないとまともな生活はできないよ。水道が壊れたーって水道会社に電話しても、まず来てくれない。水道会社に勤めてる奴を知り合いに持つか、親族に持つかだ」
「へえ」
テレビは、パルテノン神殿へ続く坂道を行き会う観光客を映した。
当たり前なのかもしれないが、欧米人ばかりで東洋人など一人も見当たらない。
だからこそ、その男の姿は際立って目に入った。
「圭吾!」
恵美は立ち上がり、テレビへ駆け寄った。しかし、別の画面に切り替わり、今度は神殿の内部を映し出してしまう。
雅明が呆れたように言った。
「おいおい、あいつは死んだんだろ?」
「そうだけど……でも!」
確かに背は多少は低かった気がするが、それでも西欧人並みの長身で、あの切れ長の目は間違いなく圭吾だった。
雅明が新聞のテレビ欄を見た。
「リアルタイムだな。他人の空似じゃないのか? 圭吾圭吾とあの男の事ばっかり考えてるから、幻影を見るんだよ」
「でも、そっくりだった」
恵美は映像の隅で振り向いた、あのまなざしを思い出す。あれほど似ているのだ、圭吾ではないに決まっているが、血縁者なのは間違いない。
「あんな一瞬で、どうやって似てるってわかるんだ?」
雅明は心底呆れている。
震える手で麦茶のグラスを掴み、恵美は気を落ち着けるため少し飲んだ。しかし、一旦興奮した身体はかっかと熱くなるばかりだ。
「だって、そっくりだったわ……」
「まあ、希望は持った方がいいよね」
どこまでも信用していない雅明に恵美は頭に来たが、何も言わなかった。
(そういえば圭吾は自分を捨て子だったって言ってただけで、過去をあまり話してはくれなかった……)
それだけで相当な辛酸を舐めていたのは、あっさり想像がつくので、恵美はどうしてもその先を聞き出せなかった。信頼されていないとかそういう意味ではなく、案外、圭吾自身も知らなかったのかもしれない。彼は過去を振り向くようなタイプではなかった。
興奮しすぎたせいだろうか、くらりときて恵美はテーブルにうつ伏せた。気づいた雅明が席を立ち、恵美さっと抱き上げる。
「そらそら、もう寝たほうがいいよ」
いきなりの接近に恵美は暴れた。
「自分で歩けます!」
「暴れるなって。人の手は借りといたほうが楽」
すぐにベッドに下ろされて身体は幾分か楽になったが、近づいてくる顔に心は飛び上がった。
「ま……!」
「ご褒美」
唇が押し当てられた。
それはほんの一瞬だったのに、深い酩酊を恵美にもたらした。
間近の雅明の顔は、弟の貴明と同様に美しい。自分に対する熱が垣間見えてたじろぐと、雅明は大きな手のひらで恵美の頭を撫でた。
「これ以上は何もしない。若造じゃないんだ」
「……そうね、恋だの愛だの言っていられる年齢じゃないわ」
雅明がそのままベッドに乗りあがってきたが、もうとがめたてる気も起きなかった。どうせ言っても聞きやしないのだから。そして惹かれ始めている心がそれを許してしまう。反発する心がそれに対抗して、酷く胸が苦しい。
くすくす雅明が笑った。
「大人の恋は純粋でないのが当たり前。そして、直情的で即物的な行動はご法度だ」
「自分の行動をわかってる?」
「わかってるよ。昔の私なら、とっくに恵美さんを孕ましてる」
やっぱりそういうところが貴明の兄なのだと、呆れながら恵美は妙に納得した。
恵美に向いていた雅明は、ごろりと仰向けに寝転がった。
「……なんてね、そんなこと私にはできっこないさ。そんなことをしたら、亡くなった妻に叱られる」
恵美はびっくりして、隣の雅明を見た。
「妻!? あなた結婚してたの?」
雅明は瞬きを一つして返事をした。
「……佐藤圭吾と同じで、もう二度とこの世では会えない」
「貴方……」
過去の女を語ってしまうのは、それだけ男が現在の女を愛している証拠だ。恵美はそれを知っていた…………、最愛の圭吾に教えられた。
恵美の脳裏で圭吾が振り向いて笑い、暗闇に消える。
ちらりと芽生えた嫉妬に、恵美は気づかない振りをした。