天使のかたわれ 第16話

 ギリシャからドイツまで飛行機を使い、シュレーゲルへ戻る車の中で、雅明は氷のような表情を崩さなかった。

 身体中で自分を拒絶する雅明を見て、隣のエリザベートは満足そうに言う。

「佐藤貴明が日本で残念ね。彼が一緒にいたら、恵美を奏などに渡さないんでしょうけど」

 助けてくれるはずの味方は、今ではエリザベートの配下となっているため、すべて敵だ。アネモネの夫のラウルの姿もある。

「大丈夫、奏は恵美が欲しいだけ。命の危険なんかないわ。貴方の大切なソルヴェイは、私が助けないと今にも殺されそうだけど……。ま、あの猿ならすぐにほだされてしまうでしょう、奏はアクセルを振って選んだ男にそっくりだもの。どちらにしても、猿をシュレーゲル一族が認めるわけがないわ……ふふふ。かわいそうなアウグスト。言い訳もできないのよね」

 雅明はそこではじめて、無表情だった顔に笑顔を刻んだ。感情の全てが削ぎ落とされたままのそれは、魔すら潜ませて輝くように美しい。

「そうだな。私は、本当に愛した女だけには言い訳をしたくない」

 その言葉の棘を十二分に感じ取ったエリザベートは、憤怒の怒りを滾らせて雅明を睨みつけた。

「そう! 今頃は奏のものになっているでしょうね。貴方は人の慰み者になった女を妻に迎えるつもり?」

「……私は経験豊富な熟女が好きなんだ」

「ま……っ!」

 未だに男を知らない彼女への痛烈な皮肉に、さすがのエリザベートも絶句した。

 運転している男と助手席、雅明を挟んで反対側にいるラウルが、さすがに堪えきれずに笑い出す。

 彼らは今、ただ単にエリザベートと契約しているから従っているだけで、仲間の雅明に害意など欠片もない。

 前方に、シュレーゲルの壮麗で広大な館が見えてきた。

 

 恵美は思い切り顔をしかめていた。車の走りは快適で、秋の草花が見える景色も絶景なのに、隣の男のせいで胸がむかむかする。

 バスでアテネへ帰るつもりでいたものを、レンタカーにされた。密室で一緒の空気も吸うもの嫌な相手に。

 前を走っている車の後部座席には、アネモネが乗っている。アネモネは奏の配下の男に見張られながらも、恵美をバックミラーで見つめてくれているが……。

(別々にする必要なんてないじゃないの!)

 デルフィまで来た道をひたすら逆へ行く。同じ道なのに、あんなに楽しかった行きの道中が、恐ろしくつまらない。

 別の車両を許しているのは、そうしないと雅明について話さないと奏に脅されたからだ。それなのにホテルを出てから、奏は一言も知りたいことを話してくれず、やたらと甘ったるい言葉を囁くばかりで、恵美はうんざりしていた。

「ごたくは結構ですから、雅明さんが何故伝言もなしにドイツへ帰ったのか教えて」

 何度同じ言葉を言っただろう。最初はおそるおそる聞いていたものが、あまりにもはぐらかされるものだから、今ではかなりつっけんどんなものになっていた。

 奏はやれやれとため息をついた。

「そんなのあとで良いじゃないですか……。どの道貴女はドイツへ行けないんですよ、それより……」

 また話をはぐらかそうとするので、恵美はきつとなった。

「話してください!」

 大きなバスが前方から近づいてくる。奏は車を道の端に移動してバスを通し、再び発進した。

「先日申し上げたでしょう? エリザベートさんと婚約する為にですよ」

「タベルナの時は騙されたけど、今は騙されないわよ。それならちゃんと言うはずでしょう? 特にあのエリザベートさんが言わないはずがないわ。私にちゃんと致命傷を与えたいでしょうから。例え大嫌いな日本人でもね」

「意外に頭がいいんですね」

 思い切り馬鹿にされ、かっとなった恵美は奏をぶん殴ろうとして堪えた。ここで臍を曲げられたら、聞き出せなくなる。事故も怖い。

「実際のところは、シュレーゲル伯爵アルブレヒト翁が、危篤だからです。アルブレヒト翁が、雅明さんに伯爵号と譲られるらしいと伺っています……」

「……そんなに親しい間柄なの?」

「彼がドイツへ渡った時から、家族同然にお暮らしだったようです。すぐにでも駆けつけたくなるのが、人情と言うものでしょう」

「でもそれなら……、私に言付けてくれたって」

「翁は、一刻を争うほど危険な容態だそうです」

「…………」

 たとえば麻理子なら、それならなおさら雅明が恵美を起こすはずだと疑い、奏が何か一番重要な部分を隠していると気づいただろうが、人のいい恵美は奏の言葉を信じた。

 それでいいと奏は内心で微笑む。

 どのみちばらすのなら、より効果的に、己へ恵美が堕ちてくる方向へ仕向けたい。

 奏は恵美に気づかれないようにそっと彼女を見た。

 近くにいるとより素晴らしい女だ。

 長く美しい黒髪。小柄だが、豊満な胸と腰がなだらかな曲線を描いて、強烈に女を意識させる。同時に強い母性と癒しと清楚さを兼ね備えているのだから、たまらない。

 すべてが露見する日が待ち遠しい。

 いや、あせりは禁物だ。

 奏は獲物が罠にかかるのをじっと待つ、狩人の気分だ。

 傷ついた恵美を精一杯慰めよう。子供が居たってかまわない。一緒に住んで面倒を見る自信がある。受け入れる用意は全て整っているのだから。

 途中にぽつんとある小さな町で、奏が車を止めた。土産物屋ではないが、田舎町にしては品がそろっている店で、観光客たちがまばらにいた。数時間先のデルフィまでは店が皆無なので、皆ここでいろいろと買っていくのだった。

 恵美はトイレで化粧を直し、ポーチを鞄にしまうとそのまま化粧室を出て、外の庭の大きな木の下でスマートフォンを取り出し、日本の貴明へ電話をかけた。

 アネモネは車の中で留められているのか、姿は無い。そこかしこにいるのは恵美と同じ観光客で、用意された小さな庭のベンチ腰をかけておしゃべりをしている。

 何故か、最初に出てきたのは子供たちだった。

『お母様元気?』

 明るい美雪の声がスマートフォンから響き、恵美は笑顔になる。

「元気よ。美雪はとても元気そうね? 穂高も元気かしら?」

『元気だけどさ~。さっきお菓子食べ過ぎで、お腹壊してトイレなの。麻理子お姉さまに注意されてたのに、隠れてこっそり食べてたみたい』

「しようがない子ねえ」

 しばらく話をして、貴明に代わってもらった。麻理子は今日はつわりが重くて、ずっと寝こんでいるらしい。

『それより恵美、大丈夫なのか?』

「……圭吾にそっくりな弟さんが現れて、とてもびっくりしたわ」

『あいつには気をつけろよ。お前を狙ってるから』

 恵美はおかしくなって、笑った。

「簡単にやれる女としてでしょう? 雅明さんもどうかしら? エリザベートさんという婚約者さんがいらっしゃるみたい。貴明は知ってたんでしょう?」

『知ってるけれど、あれはもうだいぶ昔に破棄されたものだ』

「奏さんのことも知っていたんでしょう?」

 貴明は隠しおおせないと悟ったらしく、すぐに認めた。

『知っていた』

 自分だけが知らされていないという疎外感が、恵美を傷つけた。さほど高くないプライドも壊れそうだ。

「……私が、私が、圭吾にそっくりなだけで、どうにかなると思っていたのね」

『そうじゃない。ただ、良い影響は与えないのは……』

「そうね。圭吾の指輪を奪って、無理やりキスしてくるような人だわ。でもそれならそうと言えばいいでしょう? 雅明さんだって同じじゃない。何故こそこそ隠したりするの。言ってくれたら納得したわ」

『お前はまだ親父を愛している。傷つけたくなかったんだ』

「似ているだけで、私があの人を愛するかもって思ったわけ? ふざけないで! そうね、最初は圭吾と間違えたわよ、だけど、それだけよ」

『わかっている……だけど、恵美』

「もういいわ。とにかくあんたは、麻理子さんだけを大事にしてたらいいの。余計な気を回す必要は無いわ。じゃあね!」 

 振り切るように恵美は通話を切り、木に凭れてうつむいた。

 太陽が出ていないので、風はひんやりとしていた。

 繊細な鳴き声がして見おろすと、とら猫が足下にすりよっていた。恵美は屈んでその猫の頭を撫でた。顎をくすぐるとゴロゴロと気持ち良さそうだ。

「猫が好きですか?」

 いつからいたのか、背後から奏が同じようにかがみ込んで、猫を見ている。

「……好きよ」

「俺もです。この我がまま勝手な所が特にね」

 奏はじっと恵美が猫を撫でているのを見つめ、言った。

「恵美さんは本当に綺麗ですね」

「お世辞でもうれしいわ」

 お世辞ではないのにと奏は立ち上がり、恵美も立ち上がった。猫はえさをくれそうなほかの観光客へすりよりに行った。

「俺は、簡単にやれるからって、貴女にキスしたんじゃありません。前にお話したように、本当に好きだからです」

「…………」

「すみません、その辺から電話を立ち聞きしました」

「どうだって構わないわ」

 恵美はかなり投げやりになっていた。

「指輪を奪ったり、その、キスしたりと行き過ぎてるし、強引だとは思っています。でも、雅明さんの事は、貴女を悲しませるぐらいなら、受けなければよかったと後悔しているくらいなんです」

「本当?」

「ええ。いくら貴女が好きでも、するべきではありませんでした。指輪もホテルに着いたらお返ししましょう。今は持っていませんので……」

 言いながら手を伸ばしかけて、奏は恵美の警戒を敏感に感じ取り、すぐに引っ込めた。

 恵美への配慮にあふれたその態度は、ささくれだっていた恵美の心を穏やかにして、やさしいものに変えていった。

「……わかりました。とりあえずのどが渇いたわ」

 とても嬉しそうに奏は笑った。それはかつてよく見ていた圭吾の笑みそのもので、恵美はつい微笑み返した。

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