天使のかたわれ 第19話

 シュレーゲルという地名は、三百年ほど前からこの地を支配した、貴族の名に由来する。

 三方を山、残る一方を大河という天然の要塞を持っているこの街は、古来から人々が住み着き、命の営みを続けてきた。第一次世界大戦敗戦後、ドイツは貴族制度が廃止され、VONが尊ばれなくなってはいるが、シュレーゲル一族は没落したほかの貴族とは違い、政界、財界、経済界、産業界、文学界と幅広く根を広げ続け、いまだにその誇りを保ち続けている。

「日本へ帰りたいな」

 館に入り、自分の部屋のベッドに寝転んだ雅明は、そう一人ごちた。

 広大な森に抱かれたシュレーゲルの館は、相変わらず重厚な表情で雅明を出迎えてくれたが、貴族然としてどこか童話的な部屋はやっぱりしっくりと来ない。どうしたって雅明は、日本の石川の古い家屋が好きだ。佐藤邸などは論外だ。

 規模は佐藤邸に比べて、このシュレーゲルの館の方が大きい。地理的なものもある。初めてここへ連れてこられた時は、本当に迷子になって泣いているところをエリザベートに助けられた過去があるぐらいだ。

 しばらくして、エリザベートが雅明を呼びにきた。

「部屋は変わっていないのか?」

「おじい様は引越しがお嫌いなの」

 昔も今も変わらず、いくつかの廊下を曲がった突き当りが、シュレーゲル伯爵アルブレヒトの部屋らしい。

 エリザベートの前を歩いていた執事が両開きの扉をノックし、二人を部屋に通した。パタンと扉がしまると、雅明はさらに奥に進んだ。

 天蓋のベッドに、白いひげを長く伸ばした老人、アルブレヒトが起き上がって雅明を待っていた。

「思ったより元気そうじゃないか、じじぃ」

「ほ……! 言い寄るわ。そう簡単にくたばってたまるか」

 雅明は近くのテーブルから椅子を引っ張ってきて、またがって座り、背もたれに両腕を組んで乗せた。

「リシーの話だと、危篤だったそうだが?」

「うむ。重い発作があってな。さすがのわしも、もう駄目かと思ってリシーにお前を呼ばせたのだ」

「ふーん。でも元気じゃないか」

「気持ちはの。だが、身体は言う事を聞かんよ」

 確かに顔色も紫に近く、心臓を病んでいるのが一目瞭然だ。エリザベートが水とお茶と薬をそっとテーブルに置いた。

「相変わらず使用人を使わないのですね」

「人間、動かねばなまくらになるからの……」

 エリザベートがアルブレヒトに数種の薬を渡すと、アルブレヒトはわずかに震える手でそれを受け取って口に放り込み、コップの水で一気に飲みくだした。

「食事は取れているのか?」

「好物のシュニッツエル(仔牛、または豚のカツレツのようなもの)が食えん。疲れるんじゃ」

「だから、いつも細かく切っているのよ」

 エリザベートが言い、アルブレヒトから空のコップを受け取った。

 よく晴れた午後の昼下がりで部屋の中は明るいのに、闇が迫っているような気がするのは、太陽のごとく君臨していたアルブレヒトの元気がないせいだろう。どんな人間も襲い来る年の波には勝てない。

 エリザベートが次の当主になるのは決定済みのようだが、背後に彼女の父親や親族がいるのは確実だ。一族は一枚岩ではない。利害が一致しているから協力し合っているに過ぎず、誰も彼も油断がならない。

 そしてアルブレヒトは、雅明が手放しで信用している親族の一人だった。

「……で、なんで私を呼んだ? 伯爵号なんてものの為じゃないだろう?」

「当たり前じゃ。そんなもん、わしの代で終わらせたいと思っておる」

 アルブレヒトは、ゆっくりとベッドへ身体を沈ませた。

「お前の好いておる……、恵美という女についてじゃ。……本気なのか?」

「ああ」

 雅明は即答した。

「しかしその女は、親違いの子供を二人も持っているあばずれという話だがな」

「みんな男のせいだ。恵美が望んだんじゃない」

「家の近辺に男を侍らせておるではないか」

「どういう報告を受けたんだ? あれはストーカーの犯罪行為で、恵美はとても怖がって迷惑していたんだ。本当に彼女は身持ちは固いし、子供もきちんと愛情深く育てている」

「ふん……! ふりかもしれんぞ」

「あれがふりなら、じじぃもふりで私の面倒を見たことになる」

 雅明がにやりと笑うと、アルブレヒトはしかめっ面をした。手元の封筒を雅明に手渡し、読めと言う。中身は恵美に関する報告書で、出生から今に至るまでがつまびらかに記載されていた。既に雅明が知っている内容ばかりで、彼は眉一つ動かさない。

「あのナタリーが、やたらとその女を推すのでな。騙されているのではと心配になったのじゃ」

 何故か言い訳がましく、アルブレヒトは言う。

「ああ、来ているんだっけ?」

「先日お前と入れ違いに日本へ帰ったがな……。アクセルの妻の麻理子が、つわりが急に重くなって入院したらしい」

「それは知らなかった」

 あの元気な麻理子が入院するということは、相当重いつわりなのだろう。日本へ思いを馳せている雅明を眺めながら、アルブレヒトは話を戻した。

「お前と恵美という女を一緒に旅行に行かせたりするなど、アクセルもナタリーも狂っているとしか思えん」

「傍目にはそう見えるだろうな」

 素直に雅明は頷き、エリザベートを見た。エリザベートは心配そうにアルブレヒトを見ている。この屋敷へ来るまでの彼女とはえらい違いだ。

「男を幾人も魅入らせる、魔女そのものの女じゃ。わしが心配するのもわかるだろう?」

「勝手に男が狂ってるんだ。恵美は何も悪くない」

「それはわかっとる。わしが恐ろしいのは、アウグスト、お前とまったく同じだからじゃ。お前は男すら狂わせる魔性を持っておる。そんなお前たちが一緒になって、幸せになれるのか?」

 やっぱりそれが聞きたくて、シュレーゲルへ呼び寄せたのかと雅明は納得した。

「なりたいね」

「この美しいエリザベートより、その女がいいというのか?」

 昔と同じ問いを、アルブレヒトは繰り返す。それに対しての雅明の答えも同じだ。

「リシーにはもっとふさわしい相手がいる。こんな薄汚れた私では、傷がついてろくなことにならないよ」

「…………──そうか」

 アルブレヒトは気落ちを滲ませて目を瞑った。この老人が、ずっと雅明とエリザベートが結ばれることを望んでいたのを、雅明は知っていた。

 それに対して雅明は一度もうなずいたことはない。若い頃の婚約も勝手に決められたもので、雅明の意思ではなかった。

 話を終わらせて部屋を出た雅明を、エリザベートが追いかけてきた。

「アウグスト!」

 雅明は立ち止まって振り返った。

「何だよ」

「……まだ終わってないわ。ソルヴェイのことよ」

「ああ。約束は守ったんだろうな?」

 雅明の隣にエリザベートは並んで歩いた

「もちろんよ。今は私たちの組織の宿舎にいるわ」

 安堵しながら雅明は考えた。それなりの支援はするべきだろう。かつて愛した相手と、実の息子なのだから。

「それともうひとつ。ナタリー叔母様からよ。あの猿は先日アテネから日本へ帰ったらしいんだけど、佐藤邸へ戻ってないの。奏がどこかへ連れ去ったみたい」

 深いため息をつき、雅明は壁にもたれた。

「お前の思い通りになって良かったじゃないか」

 皮肉は通じなかった。

「少し違うわ。あの猿は、奏に靡かなかったそうよ。アネモネが半狂乱で今探してるみたいだけど……、日本へ逃げ込まれたら彼女でもどうにもならないわね」

「ずいぶんと楽しそうだな」

 部屋に着いた。

 絶対零度の視線を投げ込まれても、エリザベートは平然と受け止め、当然よと笑った。

「私は、あんな猿は貴方の相手に認めないわ」

「いい加減に猿呼ばわりは止めろ。不快だ」

「だって、猿……」

 言いかげたエリザベートに容赦ない平手打ちが襲い掛かり、彼女は身体を廊下の床へ接吻させた。

 虹色を帯びた薄茶色の瞳で、雅明は冷酷に言い放つ。

「私はフェミニストじゃない。気に入らない奴には容赦なく暴力を振るう。忘れたか?」

 エリザベートは左の頬をおさえて立ち上がった。

「ふふ、あの猿もこんな貴方を見たら逃げるでしょうね」

「とうに勘付いてるさ」

 あらそうなのと、エリザベートはくすりと笑う。シュレーゲルの女はこれぐらいで泣いたりはしない。

「ともかく、ようやく役者が全員揃いそうね。ねえアウグスト。あの奏はとんでもない人たらしよ。ずっとそばに縛り付けられて、甘い言葉の蜜で沈められたら、あの猿はひとたまりもないんじゃないかしら」

「どうかな」

 雅明は、スーツのポケットから白のハンカチを取り出し、エリザベートを打った手を丁寧に拭いた。

「だって、あの圭吾にそっくりなんですもの。すぐに靡くに決まってるわ」

「身体は靡くだろうな」

「なんて下品な獣なのかしら」

 雅明の美貌に凄みが増した。

「だが、そこまでだ。恵美の本質とセックスを結び付けるには、あいつでは役不足すぎる」

「自信満々ね」

「仙崎奏の恵美への想いは、恵美が恵美である限り一生届かない。奴自身がいずれ思い知る……」

 ハンカチを床に投げ捨て、雅明は自分の部屋へ入っていった。

 エリザベートは捨てられたハンカチを拾い上げた。

「それでも……、奏はあの猿を離さないわ」

 ハンカチを握り締める。

 いつもいつも、雅明はエリザベートを拒絶する。

 ここへ来た二十二年前からそうだった。当時の雅明は、ドイツ語が話せないことからひどく内向的になっていて、誰とも打ち解けようとしなかった。

「ねえアウグスト。貴方にとって運命の女はどちらなのかしら? あの猿? それとも……」

 心を固く閉ざした雅明の態度を軟化させたのは、ソルヴェイ……呪われた女だった。

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